新潟市は私のふるさとである。だがすでに親はおらず家もない。この場合、「新潟に帰る」という表現は正しいだろうか。もはや他所者として「新潟に行く」と言うべきなのだろうか。こんなことで迷う私を、安吾は「ふるさとは語ることなし」と突き放す。その石碑が建つ砂山を遊び場にしていた元少年は、安吾の齢をとっくに超えていながら、いつまでもグダグダと故郷を語り続けたがる。そしてこの季節、ナス漬けとカキノモトを食べたがるのだ。 . . . 本文を読む
いきなり「新潟に行きたい」という想いが湧いてきた。「何のために」と質されても思い浮かぶ理由はなく、久しぶりの「帰郷」になる。顔を見せれば喜んでくれる親戚知人は多いはずだが、墓参りのためでもなく、ただ行きたくなったのである。これが年寄りの感傷というなら気恥ずかしいけれど、新潟の街の空気に身を浸せばそれで満たされる程度の想いのようである。小学校入学前の短時日を過ごした中心街へ、妻を誘って「とき」に飛び乗った。 . . . 本文を読む
諏訪の街は一言では表し難いところがある。二日間滞在しただけの他所者が言うのはおこがましいけれど、10代にわたる諏訪氏が城主を続けた高島藩のお膝元ではあるものの、「城下町」と言った趣は薄い。また湯量豊富で大きな旅館が建ち並ぶ上諏訪温泉があるけれど、この街を「温泉郷」と言うのは当たらないような気がする。さらには全国に25000社ある諏訪神社の総本社たる諏訪大社上社の鎮座地であるけれど、「社家街」の印象はない。 . . . 本文を読む
下諏訪町の「諏訪大社下社秋宮」に来ている。諏訪湖畔から北へ1.2キロほど入った丘陵の麓だ。境内に入ると巨大な注連縄を飾った大社造の神楽殿が建ち、出雲系の神社であると解る。特異なのはその奥の両側に建つ「御柱」であろう。枝を落とされ、皮を剥かれた巨木が屹立している。7年に一度、諏訪地域6市町村の氏子によって山から伐り出され、豪快に曳航される神事で名高い。今年はその神事の年にあたり、御柱は真新しい光を放っている。 . . . 本文を読む
諏訪湖の地図には、湖面を3分割する線が引かれているものがある。湖にも岡谷市・下諏訪町・諏訪市の境界線があるらしい。西岸に広がる岡谷市は、広大な市域のほとんどが山地で、諏訪湖に臨む限られた傾斜地に街が営まれている。総面積の85平方キロに「諏訪湖の持分」が含まれているのかは知らない。市章は円を上下に2等分したシンプルなデザインで、「上は岡」「下は谷」を表しているのだそうだが、「上は陸」「下は湖」の方が判り易い。 . . . 本文を読む
旅先で、諮らずも打ち上げ花火に遭遇した。諏訪湖の湖上花火大会だ。ポスターには第74回とあるから、この地方の夏の大イベントなのだろう。だが新型コロナの影響で、午後8時半から10分間だけの打ち上げである。例年なら数十万人の人出で埋まる一夜になるようだが、今年は10分間だけが15日間続く。見物客はいささか寂しいけれど、しかし行きずりの他所者にとってはこれで十分な華やぎであって、しばし酷暑を忘れ楽しんだ。
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今日は冬至(2005年を思い出している)。先月訪れた新潟の国上山など、良寛ゆかりの地を思い出しながら、良寛の『冬夜長し』に浸っている。このところ改めて良寛に興味が向き、なかでもその漢詩『冬夜長し』に強く惹き付けられている。「冬夜」は「冬至冬夜」といって、冬至のことを指すのだそうだ。良寛がこの詩を詠んだのは60歳ころといわれるから、私はまさに同じ年ごろの「その日」にいるわけで、今夜はひときわこの詩の良寛和尚が、身近に感じられるのである。
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長野県下で最大の夏祭りなのだという「松本ぼんぼん」が開催される日、ピンク色の祭り提灯で飾り付けられた街は、今年一番ではないかと思われる熱波を跳ね返して、水浴びをするチビッ子の歓声が響いている。信濃路はいつも空気が澄んでいる印象があるのだが、なかでも「松本はいい街だ」と訪れるたびに思う。美しく整った家並みの中心に、松本城が優雅に座っている、というイメージなのである。ただ街は、構造線上にあるという課題がある。 . . . 本文を読む
2000年に刊行された「味方村誌」掲載の「白根小学校・昭和12年3月」の卒業写真である。前列左から二人目が私の母親らしい。結婚前だから、当然、私はまだ生まれていない。母は1995年に79歳で亡くなった。葬儀で友人代表のおばあさんが「あなたは長岡女子師範を卒業され、西白根小学校に奉職されました」と弔辞を読んだ。久しぶりに新潟に帰った折り、母の初任地を訪ねてみようと思い立つ。ところがこれがなかなか難航した。 . . . 本文を読む
国宝・火焔型土器に接近し、老いた頬をさらしているのは私だ。この土器は、何度見ても見飽きることがない。今回は我が10年に及ぶ陶芸体験をもとに観察すると、これを作った縄文の陶工は、複雑な文様を生き生きと浮き上がらせる勢いを体得した、大変な手練れであることが判る。粘土を自由に、何の迷いもなく操るその手際の良さに惚れ惚れさせられるほど、土を扱う技量は私をはるかに超えている。十日町市博物館での至福のひとときだ。
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そんなことは考えたこともなかったのだけれど、魚沼の旅から帰って改めて新潟県の地図を見ていて、小千谷は越後平野の最南部の街なのだと気がついた。私が育った新潟市から思うと、そこは遠い魚沼にあって、すでに山の中の街だと考えていた。しかし信濃川で結ばれる長岡市からは平坦部が続いており、そこは2000平方キロにわたって広がる越後平野に含まれるようだ。信濃川と魚野川が形成する魚沼の地勢が、ようやく理解できた。
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この時期、旅先に新潟を選ぶ者は、新潟を知らない者である。冬の始まりを告げる曇天が遠く雷鳴を響かせ、冷たい霙(みぞれ)が吹き付ける、本格的な降雪を前にした雪国の暗く湿った日々が続くのである。新潟育ちの私はそのことをよく知っている。それでもこの時期、それも日本一の豪雪地帯である魚沼に行こうと決めたのは、ただ日程の都合からなのだが、「縮」「紬」「上布」といった雪国の織物の世界へ、妻を案内したいと考えていたからだ。 . . . 本文を読む
新潟の冬は、雪まじりの激しい風が吹き付ける、のではなかったか。高校卒業まで新潟市の海岸近くで育った私の記憶は、そうだ。しかし魚沼・六日町のこの穏やかさは何だろう。低く浮かぶ白雲は山麓から離れようとせず、市街地の煙突から立ち上る煙は、どこまでも真っ直ぐ昇って行く。風が強かったのは、日本海からの海風だったからなのだろうか、山懐までそれは届かず、魚沼はむしろ穏やかなのかもしれない。私は露天風呂に浸かっている。
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上田から白樺湖を抜けて、茅野の尖石遺跡を見に行った時のことだ、途中のどこかで「マルメロ」と書かれた「道の駅」を通過した。そのことが気になって色々調べ、それは長野県のほぼ中央、長和町であることを突き止めた。国道に沿って「マルメロ街道」なる並木道があり、そこに「マルメロの駅ながと」があるのだった。暇な老人である私は長和町役場に電話し、マルメロの実が黄色く稔るのは10月初旬だと確認した。
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佐久市望月支所には、古くからの「望月町役場」の文字を少し隠すようにして「平成十七年四月一日より、望月町・佐久市・臼田町・浅科村が合併し、新《佐久市》となる」と彫られた石標が建っている。時代の趨勢で街の名が消えてゆくことを惜しみながら、「我々は決して大きな街に吸収されるのではなく、一緒になって新しい郷土を築いて行くのだ」といった気概が、わずかな文章から感じ取れる。中山道望月宿の街である。 . . . 本文を読む