どうしてその地に人が集まり、街が形成されて行くことになるのか、街にはその「生い立ち」の理由がある。経済が交通の要衝を生み、宿場町や湊町が整備される。時には覇者が出現し、城下町が築かれて街は拡大していく。だから街の形成にはワケがあり、歴史という生い立ちがある。12年前に小海線の旅をした際に立ち寄った「佐久市」は、なぜか「街の姿」が見えず混乱した。「生い立ち」が掴めなかったからだろう。 . . . 本文を読む
雨が上がる日を、もう何日も待っている。9月は実に雨が多い。今年はそのうえ台風も多い。晴れたら上田に行こうと待ち構えているのだが、雨はなかなか上がってくれない。そう、信州の上田である。私は目下、鳥居峠を挟んだ群馬の山中に滞在しているので、上田までは車でわずか90分で行ける。それでもどうせなら秋晴れの峠道をドライブしたいから、気長に雨雲の移動を待っているのだ。「日程自由」という老人特権を駆使して。 . . . 本文を読む
せっかく新潟に来たのだから、温泉に入っていったらいいという同級生の誘いに乗って、新潟市の北60キロの瀬波温泉に来ている。寒日の焼香行脚で身体も心も冷え切っているだけに、瀬波の熱すぎる湯が心地よい。案内してくれたのは中学1年次の同級生で、前日の親戚廻りに付き合ってく3年次の同級生とは顔ぶれが異なる。前夜はその3年次のクラスの何人かが集まって、忘年会を催してくれた。故郷とは、まことに暖かいものである。
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故郷とは何か。生まれ育った新潟に帰るたびに、そのことを繰り返し考える。親はすでに黄泉路にあり、幼い私を慈しんでくれた親戚の方々も、ほとんどが鬼籍に入っている。それでも故郷の大地が私を温かく迎えてくれる感覚に揺らぎはない。大げさに言えば、その一木一草が愛おしいのである。懐かしさが、離れている時間が長くなるほど強まって行くようでもある。何故なのだろう。茫漠とした平野が、雪に覆われているだけなのに。
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新潟市の万代橋から望む落日である。街の明かりを映しているのは信濃川で、遠く茜色の空に浮かぶシルエットは弥彦山だ。私は弥彦山をもっと間近に仰ぐ蒲原平野に生まれ、信濃川が長い旅を終えて日本海に注ぐ河口の街・新潟市で育った。激しい手振れと甚だしいピンボケのひどい写真ではあるけれど、この1枚に私の幼少期から少年時代までの世界がすっぽりと納まっていることに気づき、掲載することにした。今では遠い昔の話だ。 . . . 本文を読む
松本は草間彌生さんの出身地である。だからだろう、松本市美術館は外壁も赤い水玉で飾られ、まるで彌生美術館だ。それをお目当てにやって来たのだろうか、中国か韓国か、若い女性グループがポーズを決めて写真を撮り合っている。私はデンマークで、彼女の作品を観て来たばかりなのだが、それでも飽きることはない。ここでは初期の作品も展示され、神経の病に苦しむ画家が、いかにして独自の世界を生み出して行ったかを観る。 . . . 本文を読む
カモシカの親子と並んで、私は眼下に広がる街を眺めている。晴れていれば、正面には北アルプスの峰々が連なり、冠雪輝く雄大なパノラマが展開するはずだけれど、あいにく昨夜来の雨はやむ気配はなく、遠景は霞の中である。ここは大町市の山岳博物館。全国に先駆けて登山ガイド組織を生んだ「山の街」の市民たちが、大自然とともに生きる街の拠点として日本で初めて設立した、山岳をテーマとする博物館である。開設56年になる。
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新潟は私の故郷だから、新潟県内はほぼ隈無く知っていると言いたいところだが、そんなことはない。子供の行動半径は実に狭いもので、新潟市から遠い「親不知・子不知」はついぞ行く機会に恵まれないまま新潟を離れ、古希を過ぎた。天下の嶮を「不知」であるとは、新潟出身を名乗るのも恥ずかしいと、地元の友人に無理を言って案内してもらった。なるほど断崖を波が洗っている。これでは親も子も、互いを顧みる余裕はなかったろう。 . . . 本文を読む
言い訳めくが、東御市は合併により新しい街になってまだ13年ほどだから、私の脳内日本地図には定着しておらず、「とうみ」と読むこともできなかった。長野県東部の小県郡東部町と北佐久郡北御牧村が一緒になったのだと教えられても、それがどの辺りなのか、信州とは縁の薄い私には見当がつかない。北国街道・海野宿がある街だと知って、ようやく小諸と上田あたりの風景が浮かんでくる。その街に、小さな美術館があるはずなのだ。 . . . 本文を読む
やや俗っぽく言えば、尖石(とがりいし)は縄文文化の聖地の一つである。八ヶ岳山麓に展開された多くの縄文集落の中で、いち早くその全容が確認された記念碑的遺跡だからで、その成果が後の縄文研究にどれほどの進展をもたらしたか。またその調査が、在野の研究者の努力で成し遂げられたことも特筆されることで、聖地に相応しい。史跡公園の中心には考古館が建ち、贅沢にも、近在で出土した国宝の土偶2体が展示されている。
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およそ日本国中に於て第一雪の深き國は越後なり。しかれども越後に於も最雪ふかきこと一丈二丈におよぶは我住魚沼郡なり。我鹽澤は江戸を去ること僅に五十五里なり。雪なき時ならば健足の人は四日ならば江戸に至るべし。我里の元日は野も山も田圃も里も平一面の雪に埋り、春を知るべき庭前の梅柳の類も去年雪の降ざる秋の末に雪を厭いて丸太などを立て縄縛に遇たるまま雪の中にありて元日の春を知らず。(『北越雪譜』より)
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「秋山郷に行ってみたい」と私が言い出すと、運転役の友人の奥さんは「えっ、あの道を」と絶句した。行ったことがあるから、その道の酷さを承知しているわけだが、しかし行ったことがない私は「それでも国道なのだから、通れないことはないはずだ」などと暢気に構えている。それが甘かった。こんな国道があるのかと恨めしくなるほど道幅は狭く、深い谷は底が知れない。この先に人の暮らしがあるということが、信じられない。 . . . 本文を読む
「夕日、日本一」を詠う街は多い。日本海に長い海岸線を延ばす新潟県も、夕日自慢の土地だ。ここ長岡市の野積海岸は絶景ポイントのひとつらしい。しかし夕日とは元来が美しいものであるから、競う対象にはならない。風景としての落日に優劣が生じるとすれば、沈む地点のロケーションにある。野積海岸は何もない。何もないのも清々しいけれど、せめて佐渡の島影に架かりでもしたら、と思うのだが、この季節はただ水平線だけである。
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新潟地震(1964年)のトラウマで、地震過敏症になっていた私は、翌年から始まった長野県松代町の群発地震に強い関心を持った。ただ地図で詳しくその位置を確認する努力は怠り、新聞の大雑把な図で町の在所を知ったつもりになっていた。以来、松代町は「いつか行ってみたい町だけれど、正確にはどのあたりに存するのか判然としない」という、私の中では中途半端な街になっていた。その松代に、ついに分け入る時が来たのである . . . 本文を読む
信州中野の「いきいき館」は、山積みされたぶどうケースのすき間を買い物客が埋め、身動きもままならない。会場前の広場では、入場待ちの人々が長蛇の列を延ばし、さらに道路には、上り下り車線とも駐車場の空き待つ車が数珠つなぎだ。北信濃の、いつもは静かなのであろう街で、いったい何が起きているのか。年に一度、1日だけの「ぶどう祭り」当日なのである。私のような遠来の者まで参入して、果たしてナガノパープルの行方は? . . . 本文を読む