国宝・火焔型土器に接近し、老いた頬をさらしているのは私だ。この土器は、何度見ても見飽きることがない。今回は我が10年に及ぶ陶芸体験をもとに観察すると、これを作った縄文の陶工は、複雑な文様を生き生きと浮き上がらせる勢いを体得した、大変な手練れであることが判る。粘土を自由に、何の迷いもなく操るその手際の良さに惚れ惚れさせられるほど、土を扱う技量は私をはるかに超えている。十日町市博物館での至福のひとときだ。
半年前に新装開館したばかりの博物館は、旧館に比べ広々と快適で、展示は見やすくなった。建物は「雪」がイメージされているのだろう、雪の結晶文様が刻まれた白い壁面が、緩やかなカーブで建物全体を包む姿は、豪雪に埋もれる雪国の民家の佇まいを思い起こさせる。最も高い部分の壁面を飾るのは、火炎型土器のモチーフだ。人口51000人の小さな街が、これだけの文化施設を造り維持していくのは、国宝出土地であればこその英断だろう。
縄文時代中期だというから5000年ほど昔に作られた火炎型土器は、日本海側の多雪地帯で数多く発掘されている。特に信濃川中流域の魚沼の谷での発見は多く、形状も優れたものが目立つ。白眉が十日町市中条の笹山遺跡で出土した国宝・火炎型土器である。1980年台前半に7次にわたる発掘調査で、それは57個出土した深鉢型土器の一つだった。遺跡は信濃川右岸の段丘上に、多くの炉跡や土抗を伴う大規模な縄文集落の跡であった。
おそらく当時の信濃川は現在より川幅が広く、笹山縄文人は集落から近場の川岸へ降り、鮭などを捕獲していたのだろう。それらを火炎型深鉢土器で煮炊きしたかはわからないけれど、火炎型の装飾は実用には不向きだ。何らかの儀式に用いられた特別な土器だったと考えられる。博物館の「出土地図」を見ると、十日町の信濃川両岸が最も集中しており、後世「妻有」と呼ばれる地域に、火炎型文化の集落が「蜜」に点在していたことがわかる。
以前にも書いたが、私の母が新任校長として赴任した小学校が、笹山遺跡よりだいぶ山中に入った東下組という集落だった。冬、教員住宅は1階が完全に雪で埋まり、出入りは2階のベランダからするしかなかった。5月の連休に訪ねても、道路の両側は除雪した雪が私の身長以上に積み上げられ、融けずに残っている豪雪地帯だった。縄文時代は温暖だったと言われるけれど、笹山の縄文人は冬場をどうしのぎ、春へ命を繋いでいたのだろう。
博物館は「縄文室」のほか「織物の十日町」「雪と暮らし」の3テーマで構成され、この地の長い歴史と生活の有り様が理解できるよう工夫されている。驚いたのは豪雪下の街の様子を写した写真だ。屋根から落とされた雪をブロック状に固めて積み上げていく。道路の両側は雪のブロックが屋根よりも高い。こうした苦労を毎冬克服してきた魚沼人は、強い精神の持ち主ばかりだろう。私の知る十日町人も数は少ないものの、皆さん根が強い。
十日町は近年、妻有全域を会場とした3年ごとの「大地の芸術祭」で賑わっている。また駅前通りが国道117号と交わる本町3丁目界隈の中心商店街は、地方の寂れを見慣れた目には十分賑わいが維持されているようで、他所者ながら嬉しい。「十日町は頑張っている」と記憶して八箇峠を越える。50年前、赴任した母からしばしば聞いた六日町に通じる峠である。この半世紀で変化したのは道路網、変わらないのは「へぎそば」の味。(2020.12.1)
半年前に新装開館したばかりの博物館は、旧館に比べ広々と快適で、展示は見やすくなった。建物は「雪」がイメージされているのだろう、雪の結晶文様が刻まれた白い壁面が、緩やかなカーブで建物全体を包む姿は、豪雪に埋もれる雪国の民家の佇まいを思い起こさせる。最も高い部分の壁面を飾るのは、火炎型土器のモチーフだ。人口51000人の小さな街が、これだけの文化施設を造り維持していくのは、国宝出土地であればこその英断だろう。
縄文時代中期だというから5000年ほど昔に作られた火炎型土器は、日本海側の多雪地帯で数多く発掘されている。特に信濃川中流域の魚沼の谷での発見は多く、形状も優れたものが目立つ。白眉が十日町市中条の笹山遺跡で出土した国宝・火炎型土器である。1980年台前半に7次にわたる発掘調査で、それは57個出土した深鉢型土器の一つだった。遺跡は信濃川右岸の段丘上に、多くの炉跡や土抗を伴う大規模な縄文集落の跡であった。
おそらく当時の信濃川は現在より川幅が広く、笹山縄文人は集落から近場の川岸へ降り、鮭などを捕獲していたのだろう。それらを火炎型深鉢土器で煮炊きしたかはわからないけれど、火炎型の装飾は実用には不向きだ。何らかの儀式に用いられた特別な土器だったと考えられる。博物館の「出土地図」を見ると、十日町の信濃川両岸が最も集中しており、後世「妻有」と呼ばれる地域に、火炎型文化の集落が「蜜」に点在していたことがわかる。
以前にも書いたが、私の母が新任校長として赴任した小学校が、笹山遺跡よりだいぶ山中に入った東下組という集落だった。冬、教員住宅は1階が完全に雪で埋まり、出入りは2階のベランダからするしかなかった。5月の連休に訪ねても、道路の両側は除雪した雪が私の身長以上に積み上げられ、融けずに残っている豪雪地帯だった。縄文時代は温暖だったと言われるけれど、笹山の縄文人は冬場をどうしのぎ、春へ命を繋いでいたのだろう。
博物館は「縄文室」のほか「織物の十日町」「雪と暮らし」の3テーマで構成され、この地の長い歴史と生活の有り様が理解できるよう工夫されている。驚いたのは豪雪下の街の様子を写した写真だ。屋根から落とされた雪をブロック状に固めて積み上げていく。道路の両側は雪のブロックが屋根よりも高い。こうした苦労を毎冬克服してきた魚沼人は、強い精神の持ち主ばかりだろう。私の知る十日町人も数は少ないものの、皆さん根が強い。
十日町は近年、妻有全域を会場とした3年ごとの「大地の芸術祭」で賑わっている。また駅前通りが国道117号と交わる本町3丁目界隈の中心商店街は、地方の寂れを見慣れた目には十分賑わいが維持されているようで、他所者ながら嬉しい。「十日町は頑張っている」と記憶して八箇峠を越える。50年前、赴任した母からしばしば聞いた六日町に通じる峠である。この半世紀で変化したのは道路網、変わらないのは「へぎそば」の味。(2020.12.1)
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