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昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

1048 下諏訪(長野県)天と地と諏訪の大社の御柱

2022-08-10 15:47:20 | 新潟・長野
下諏訪町の「諏訪大社下社秋宮」に来ている。諏訪湖畔から北へ1.2キロほど入った丘陵の麓だ。境内に入ると巨大な注連縄を飾った大社造の神楽殿が建ち、出雲系の神社であると解る。特異なのはその奥の両側に建つ「御柱」であろう。枝を落とされ、皮を剥かれた巨木が屹立している。7年に一度、諏訪地域6市町村の氏子によって山から伐り出され、豪快に曳航される神事で名高い。今年はその神事の年にあたり、御柱は真新しい光を放っている。



諏訪大社は境内地が諏訪湖の北と南に2箇所ずつある特異な形態をしている。つまり上社の本宮と前宮、下社の秋宮と春宮だ。4社の主祭神はともに建御名方神(タケミナカタノカミ)と八坂刀売神(ヤサカトメノカミ)である。タケミナカタは出雲の大国主の二男、ヤサカトメはその妃である。古事記には、アマテラスとオオクニヌシの国譲り交渉でタケミカヅチに敗れたタケミナカタは、科野国州羽(スワ)海に逃れ、ここに留まると約束したとある。



タケミナカタを産んだのは、大国主が高志までやって来て娶った沼河比売である。このことは出雲族の交易範囲が、日本海を現在の新潟県あたりまで広がっていたことを物語っている。敗残のタケミナカタは姫川を遡り、安曇野を通ってスワにたどり着いたのだろう。そして湖のほとりに神域を定め、大社が生まれる。奈良・大神神社と同様、本殿を持たない形式である。関東の鹿島、香取神宮と並ぶ、日本最古の神社とされるゆえんはそこにある。



私が古社を訪ねるのは柏手を打つためではなく、人が神を崇める場はいかにして生まれるものか、なんとか知りたいからだ。諏訪4社の御神体は、下社秋宮は「イチイ」、春宮は「杉」の御神木である。上社は背後に聳える守屋山(1651m)が御神体の「御山」とされている。下社のイチイと杉がどこにあるのか知らないけれど、守屋山が三輪山に相当するとは興味深い。出雲といい物部(守屋)といい、つくづく反大和・反蘇我の鎮守である。



以下は私の妄想であるから、読み飛ばしていただいて結構なのだが、妄想はブレーキが効かない。「御柱」についてだ。4宮の社殿を囲んで4本ずつ建てられている御柱は、出雲族がやって来る以前のスワの「神社」だったのだと思う。スワ縄文人にまで遡るかもしれない。山中の巨岩や巨木に神を感じる人々は、そこに集って一族の安寧を祈った。祈りの場を暮らしの近くに置きたいとの願いから、スワ湖畔の広場まで巨木を運んで来て立てた。



「御柱」は長い歳月、1本だけだったのではないか。古くからのスワ人たちはそこを神の依代とし、ことあるごとに広場に集った。そんなスワへ、社を建てる技術を持った出雲がやって来て、広場を境内として社殿を建造して行く。スワ人たちは出雲の勢力と同化し、やがて出雲の社を受け入れるが、自分たちの記憶としてその周りに御柱を立てた。反大和・反蘇我の神域は、大和朝廷が国家を完成させる天武持統朝になって、ヤマトに同化して行く。



江戸から53里余をやってきた甲州街道は、秋宮の前で中山道に合流、終わる。そこは江戸時代、下諏訪宿問屋場として大変な賑わいの土地だったらしい。今も「皇女和宮お宿」と看板を掲げる旅館が営業を続ける下諏訪温泉の中心地だ。中世文書には秋宮の鳥居近くまでが諏訪湖の渚だったという記録があるそうで、和宮が眺めた諏訪湖は今より広かったことだろう。ただそんなことは、長いスワの歴史から見れば、ホンの昨日のことだ。(2022.8.2)























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