諏訪の街は一言では表し難いところがある。二日間滞在しただけの他所者が言うのはおこがましいけれど、10代にわたる諏訪氏が城主を続けた高島藩のお膝元ではあるものの、「城下町」と言った趣は薄い。また湯量豊富で大きな旅館が建ち並ぶ上諏訪温泉があるけれど、この街を「温泉郷」と言うのは当たらないような気がする。さらには全国に25000社ある諏訪神社の総本社たる諏訪大社上社の鎮座地であるけれど、「社家街」の印象はない。
諏訪市は諏訪湖の東岸に広がって、下諏訪町を挟んで岡谷市と向き合っている。諏訪市と岡谷市は面積・人口ともほぼ同規模で、いずれも製糸業で栄え、戦後は精密機械工業や味噌など醸造業が盛んなことまで、不思議なほどよく似た街だ。諏訪市は1941年、諏訪郡の1町2村が合併して誕生した。中心となった上諏訪町では、中央本線の上諏訪駅がすでに開業して久しかったからだろうか、駅名はそのままにされた。これがちょっとややこしい。
上諏訪温泉郷を歩いていると、風変わりな洋館に出くわす。千人風呂の看板を掲げる「片倉館」だ。日本の製糸産業を語るときに欠かせない「片倉組」は、岡谷に発祥し、諏訪湖畔で発展した。欧米旅行で福祉施策の充実に感銘した片倉組2代目当主が、1928年(昭和3年)、従業員や周辺住民のために提供した公衆温泉施設だ。いち早く福祉に着目し、100年を経て国の重要文化財に指定される建物を人々に提供した実業家は、偉いというほかない。
当時の諏訪湖畔には4つの製糸関連工場があり、従業員は仕事を終えると船で湖を渡り、片倉館で1日の疲れを癒したという。日本の近代化を牽引した製糸産業が女工哀史を生み、労働力を搾取する資本の論理もあったのだろうけれど、その一方で、富の蓄積が福祉思想の芽生えにつながり、温泉に浸る笑顔を産んでいたと知ると、資本主義の歴史のとげとげしさが幾分やわらぐ。諏訪湖周辺は、そうした産業遺産地帯だと言えるのかもしれない。
諏訪大社の上社本宮は、諏訪湖畔から上川を遡った内陸部にある。街の郊外の豊かな水田地帯だけれど、古代の諏訪湖はこの辺りまで広がっていたのではないだろうか。本宮近くの諏訪市博物館で「諏訪信仰と御柱」という特別展が開催されているので、ついに御柱の謎が解明できるかと期待して入場した。しかし「理由はわからない」「まだ定説はありません」の連発で、むしろ謎は深まるばかりだ。謎は謎のまま、厳かに続けられることも悪くはない。
だが「スワ」とは何か、これが解明されれば多くの謎は解けるかもしれない。記紀は「州羽」「須波」などと表記しており一定しない。「諏訪」はかなり新しい表記であろう。つまり「スワ」は、列島に文字がもたらされる以前の言葉だと思われる。そしてそれは、縄文人に通じあう地域名だったのだろう。北から西から、縄文人たちは「スワに行く」を合言葉にやってきたのだ。市博物館に展示されている「蛇体装飾付釣手土器」はそれを知っているはずだ。
しかし、私をスワに誘ったのは「マルメロ」なのである。「諏訪市の諏訪湖畔にカリン並木がある。しかしそのほとんどはマルメロなのだ」と何かで読んだ私にとって、マルメロは呪文なのである。並木の「市木カリンの由来」では「市内に植生するマルメロは、江戸城から高島藩に移植されたものが最初で、以来諏訪ではマルメロをカリンと呼称してきた」と説明している。マルメロの果実の肌は傷み易いからだろう、丁寧に袋がけしてある。(2022.8.2-3)
諏訪市は諏訪湖の東岸に広がって、下諏訪町を挟んで岡谷市と向き合っている。諏訪市と岡谷市は面積・人口ともほぼ同規模で、いずれも製糸業で栄え、戦後は精密機械工業や味噌など醸造業が盛んなことまで、不思議なほどよく似た街だ。諏訪市は1941年、諏訪郡の1町2村が合併して誕生した。中心となった上諏訪町では、中央本線の上諏訪駅がすでに開業して久しかったからだろうか、駅名はそのままにされた。これがちょっとややこしい。
上諏訪温泉郷を歩いていると、風変わりな洋館に出くわす。千人風呂の看板を掲げる「片倉館」だ。日本の製糸産業を語るときに欠かせない「片倉組」は、岡谷に発祥し、諏訪湖畔で発展した。欧米旅行で福祉施策の充実に感銘した片倉組2代目当主が、1928年(昭和3年)、従業員や周辺住民のために提供した公衆温泉施設だ。いち早く福祉に着目し、100年を経て国の重要文化財に指定される建物を人々に提供した実業家は、偉いというほかない。
当時の諏訪湖畔には4つの製糸関連工場があり、従業員は仕事を終えると船で湖を渡り、片倉館で1日の疲れを癒したという。日本の近代化を牽引した製糸産業が女工哀史を生み、労働力を搾取する資本の論理もあったのだろうけれど、その一方で、富の蓄積が福祉思想の芽生えにつながり、温泉に浸る笑顔を産んでいたと知ると、資本主義の歴史のとげとげしさが幾分やわらぐ。諏訪湖周辺は、そうした産業遺産地帯だと言えるのかもしれない。
諏訪大社の上社本宮は、諏訪湖畔から上川を遡った内陸部にある。街の郊外の豊かな水田地帯だけれど、古代の諏訪湖はこの辺りまで広がっていたのではないだろうか。本宮近くの諏訪市博物館で「諏訪信仰と御柱」という特別展が開催されているので、ついに御柱の謎が解明できるかと期待して入場した。しかし「理由はわからない」「まだ定説はありません」の連発で、むしろ謎は深まるばかりだ。謎は謎のまま、厳かに続けられることも悪くはない。
だが「スワ」とは何か、これが解明されれば多くの謎は解けるかもしれない。記紀は「州羽」「須波」などと表記しており一定しない。「諏訪」はかなり新しい表記であろう。つまり「スワ」は、列島に文字がもたらされる以前の言葉だと思われる。そしてそれは、縄文人に通じあう地域名だったのだろう。北から西から、縄文人たちは「スワに行く」を合言葉にやってきたのだ。市博物館に展示されている「蛇体装飾付釣手土器」はそれを知っているはずだ。
しかし、私をスワに誘ったのは「マルメロ」なのである。「諏訪市の諏訪湖畔にカリン並木がある。しかしそのほとんどはマルメロなのだ」と何かで読んだ私にとって、マルメロは呪文なのである。並木の「市木カリンの由来」では「市内に植生するマルメロは、江戸城から高島藩に移植されたものが最初で、以来諏訪ではマルメロをカリンと呼称してきた」と説明している。マルメロの果実の肌は傷み易いからだろう、丁寧に袋がけしてある。(2022.8.2-3)
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