薄い雲を透して水色の空が広がる、春とも夏とも定かでない曖昧な日の昼下がり、私は敦賀港に来ている。青々と芝が敷かれた金ヶ崎緑地から眺める海は、若狭湾の東端に深く入り込んで、海上保安庁の巡視艇が静かに錨を下ろしている。かつてはシベリア鉄道で欧州を目指す旅行客が、ウラジオストク航路に乗り込んで日本を離れた岸壁である。そして飢餓に苦しむポーランド孤児や、「命のビザ」を握りしめたユダヤ難民を迎えた港でもある。 . . . 本文を読む
再びの真脇遺跡である。今回は遺跡地を見晴らす能登町の町営ホテルに宿泊する。指先を北東の佐渡方向へ軽く曲げたような形をしている能登半島の、指先の内側に能登町はある。そして真脇遺跡は、富山湾へと広がる海の小さな入り江に面している。遺跡を囲む丘陵の中腹に建つホテルからは、その入り江を丸ごと掌で掬えるような、穏やかな風景が一望される。晴れていれば、立山連峰まで望めるのかもしれない。
港の灯を別にすれ . . . 本文を読む
輪島から「白米千枚田」「名船御陣乗太鼓」「揚げ浜塩田」「上時国家」と、奥能登の名所を案内しながら珠洲の街に入る。街角のポスターが、やたらと「さいはて」を詠う。確かにここは半島の先端部で、陸はここで果てる。そのことを強調して旅情を掻き立てようという狙いか。ところがおしゃれなカフェで休息していると、三人の珠洲マダムがやって来て賑やかな談話が始まった。最果ての寂しさなど吹き飛ばす勢いだ。 . . . 本文を読む
考えてみれば「あって当然」なのだろうが、朝市に「定休日」があるとは思いがけないことだった。輪島の朝市は正月3が日と、月々の第2、第4水曜日が休業なのだということを、第4火曜日の夜に輪島入りした我々は、暗い通りで細々と灯を灯す商店に立ち寄って知ったのだった。「翌日はまず一番に朝市に出向き」と考えていた私は、案内役失格である。急遽計画を変更し、半島の旅を先に済ませて再び輪島に戻る。
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藩祖の利家から明治の版籍奉還まで、14代続いた加賀藩・前田家の殿様は、概ね明君が揃っていたのだろう。徳川幕藩体制下で、102万石の最大大名として御三家に準ずる立場を守りきった。その治世が後世に遺した最大の功績は、兼六園や城跡を残したことではなく、この地を今も「美術工芸王国」として世界に通用する伝統技術を育てたことだろう。九谷焼も加賀友禅も、そして金箔彫金もその延長上にある。 . . . 本文を読む
また金沢である。「また」というのは、幼馴染みの同級生と訪れて以来、まだ16ヶ月しか経っていないからだ。仕事でもないのにこの頻度で訪問する街は珍しい。折しも『まちづくり都市 金沢』と題する新書が刊行されたので読む。帯に「なぜ金沢は、もう一度訪れたいと思うのか」とある。だが今回の私の役回りはカリフォルニアの知人を案内することであって、新書の宣伝文句ほどこの街の虜になっている訳ではない。 . . . 本文を読む
「1枚の写真に触発されて旅に出ることは、珍しいことではない」(立花隆『エーゲ・永遠回帰の海』)とは私も同意見だが、さらに「1枚のポスターが、その土地で営々と続けられてきた暮らしを知るきっかけになることがある」とも付け加えたい。加賀平野の旅の終わりに、JR北陸本線の小松駅で降りた時のことだ、「日本遺産認定」と大書されたポスターが眼に飛び込んできた。「珠玉と歩む」とある。はて? 無知な私は首をひねった。
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加賀平野一帯を私はこれほど知らなかったのだと、今更ながら驚いている。例えば大聖寺という、長い歴史を持つ街を知らないでいたとは、70年も生きて己の知見の狭さを恥じるばかりである。ただ知らないなりに、金沢の前田家が支藩を置いた城下町だと聞いたときは、いや街の歴史はそれよりもっと古いに違いないと即座に思った。そのことは「だいしょうじ」と声に出してみればわかる。太平記に似合いそうな響きがするではないか。 . . . 本文を読む
すでに全てが失われ、何も残されていない処だとしても、かつてそこで交錯した人間たちのエネルギーが、幽かにせよ今も漂っているに違いない、そんな風に思える、あるいは思いたい土地がある。例えばこの国が戦乱に疲弊し、民衆は逃散し流浪し餓死するしかなかった15世紀後半、越前の辺境に出現した宗教都市がそれである。親鸞から8代、その血脈に連なる浄土真宗本願寺派の蓮如が築いてみせた吉崎御坊とは、いかなる処なのか。 . . . 本文を読む
今回の旅の行程は「九谷焼」が中心である。そもそも九谷焼は17世紀半ば、大聖寺川上流の山深い九谷村で焼かれた色絵磁器のことだ。だから大聖寺駅前には「古九谷發祥の地」の碑が建っている。古九谷とはこの九谷村で焼かれた九谷焼を云うのだが、そこでの焼成はわずか50年余で途絶える。その理由は謎のまま、ただ限られた数量の色絵磁器が残された。それから100年余、幻の磁器は再興され、古九谷の技術が甦るのである。
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民俗学者・宮本常一の著作シリーズに『私の日本地図』がある。その知識と行程に比べたら私の旅など及ぶべくもないのだけれど、私も倣って「私の日本地図」を思い描いてみる。例えばその白地図に、訪ねた街ごとに青インクを落としたとする。するとインクは滲んで、視界に届いたエリアを示すかのように、濃く薄く広がる。そうやって私の日本地図は、次第に青く染まって来た。しかし真っ白のままの土地もある。その一つが「加賀」だ。
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高岡古城公園の芸術広場で、点在するブロンズ像を鑑賞していると、唐突に、森の奥から子供たちが溢れ出てきた。同じような年格好の制服や私服の列が、どこまでも続くかのように途絶えない。われわれジジババ4人を列に巻き込み、「こんにちわー」の集中砲火を浴びせて広場奥へと向かって行く。「何年生?」「4年です!」。城跡の体育館で、合同授業でもあるのだろうか。久しぶりに見る可愛く元気な子供たちに、こちらまで嬉しくなる。
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「空が広い街ね」と一人が言うと、3人は天を仰いで「そうだねぇ」と頷いた。私たちは金沢の、金沢城公園を歩いている。往時の天守や御殿はすでに無く、わずかに復元された櫓と門が広場を縁取っているだけだからだろう、街の真ん中でこれほど空の広さを覚えることは珍しい。この街を「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの」と詠むしかなかった室生犀星にとって、故郷の空は広く眩し過ぎたのかも知れない。
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「風の盆」を歩き疲れ、街なかの喫茶店で休む。他に休息が取れる場所がないほど混雑しているのだ。地元のケーブルテレビが八尾の歴史を紹介している。そのなかでお年寄りが「八尾は蚕種とともに和紙が名高く、その紙に卵を産み付けて売ったものさ。売り歩いたのは富山の薬売りだった」と語っている。そうか、そういうことかと感じ入った。地域の産業力の連携である。それが富山の豊かさの秘密か。「水橋」を思い出した。 . . . 本文を読む
この年齢になっても、訪ねてみたい土地や見残している祭りはまだまだ日本各地に多い。そうしたなかでも毎年9月1日から3日間踊り明かされる越中八尾の「風の盆」と、3年に1回開催される越後妻有の「大地の芸術祭」は、特に行きたいと思い続けて来たイベントである。それが今年は、日程が重なるというではないか。そのうえJRがこの期間、高齢者向け乗り降り自由の割引切符を発売している。となったら出かけねばなるまい。 . . . 本文を読む