石川県には「能登空港利用促進協議会」という組織がある。半島振興を目指し、空港の利用拡大と観光客誘致に取り組んでいるのだろう。どうした経緯かは忘れたが私も登録されているようで、能登や東京で開催されるイベントの案内が頻繁に届く。その熱心さは恐れ入るばかりで、毎年改訂されるガイドブック「ぶらり能登」もお役所仕事とは思えない内容の濃さだ。能登に来て欲しい、能登を忘れないで欲しいと、悲壮感さえ漂って来る。 . . . 本文を読む
能登を訪れる機会がやって来たら、ぜひ立ち寄りたい場所があった。縄文人による、その時代の前期から最晩期に至る4000年もの時間が堆積している《真脇遺跡》である。縄文遺跡では類例が少ない、幾世代にもわたる定住集落が営まれていたのだ。内浦の海を見晴らす能登町真脇の小さな平野で発見され、30年余にわたって調査が続いている国の史跡だ。それは日本古代史研究家を気取る私には、興奮させられる大発見であった。 . . . 本文を読む
能登半島の自然は、冬こそ過酷なのであろうが、全体に穏やかで平板で、観る人を驚かすダイナミックさは乏しい。ガイドブックによれば外浦の巌門やヤセの断崖、それに堂ヶ崎あたりの眺望がビュースポットで、内浦には半島のランドマーク・見附島(軍艦島)や、海が美しい九十九(つくも)湾がある。とはいえ旅は絶景を求めて走り回るより、その土地と人の関わりを感じながら歩くことが好きな私には、それで十分な能登である。 . . . 本文を読む
奥能登2泊目は珠洲市の鉢ヶ崎に宿をとった。何の予備知識もなく、ただ行程上の足場がよさそうだから予約しただけのホテルだったが、そこは能登でもなかなかのリゾート地のようで、ロビーから松林を抜けるとすぐ浜になる。早朝、越佐海峡の方角だろうか、雲を黄金色に染めて日が昇った。そして南方には微かな山並みが見えている。越中・魚津の方角になるはずだが、それがどこの連山かは分からない。静かで爽快な眺望である。 . . . 本文を読む
珠洲では祭りに遭遇した。それも街の鎮守・春日神社の750年式年大祭という大祭事である。海岸通りから社の森へ、広場のように整備された幅広い街路では、すでにきらびやかな山車がひしめいている。さらに各地区から自慢のキリコが集結しつつあるようで、人々は行列の先頭に立つ稚児たちの到着を待っている。能登半島先端にあって「本州で最も人口の少ない市」などと言われる珠洲市だが、いやいやこの日は大した華やぎである。 . . . 本文を読む
狼煙(のろし)とは、日本書紀にも「烽(とぶひ)」の表記がある古代からの情報伝達手段だが、能登半島の先端には明治の初めまで「狼煙村」があった。現在は珠洲市に含まれるものの、なお同市狼煙町としてその名を留めている。ここは海の難所だということで、夜ごと火が焚かれた土地なのだろう。いまその役割りは禄剛崎灯台に引き継がれている。能登半島はこの北端の岬を境にして外洋側を外浦、富山湾側を内浦と呼ぶ。 . . . 本文を読む
私を能登に誘った1冊に網野善彦著『日本社会再考』がある。副題に「海民と列島文化」とあり、農業単色経済であるとされがちな近世以前の日本社会が、実は「海」という自然資産を活用した、もっと多彩で豊かな社会であったことを論証しようとする内容だ。その具体例として奥能登を取り上げ、時国家について考察を深めている。半島のさいはて、シベリアからの季節風が容赦なく吹き付ける地で豊かな交易? 行ってみねばなるまい。 . . . 本文を読む
輪島市街から半島先端方向へ、国道249号線を10余キロ行くと、海の中に建つ鳥居が見えて来る。対する山側は神社への石段が続き、周囲にわずかな集落が固まっている。鳥居の隣りに「御陣乗太鼓之地」と彫られた碑がなければ、能登の至る所にある小さな入り江の漁村に過ぎないと、通過するところであった。誰にも話したことはないのだが、私はこの奥能登の御陣乗太鼓ほど恐ろしいものはないと、密かに怖れ続けて来たのである。 . . . 本文を読む
朝市が店を広げるより早く、街散歩の途中で古寂びた神社に立ち寄った。鳥居を見上げていると小さな車がやって来て、小柄な女性が走り出て来た。続いて野球のユニフォーム姿の男の子。母子だろうか、二人は拝殿前でしばらく手を合わせ、また走って去った。ここは輪島の重蔵神社。最古の輪島塗という朱塗扉が伝わる神社だ。漆芸のルーツは市民の精神的支柱でもあるようで、必勝を祈願したらしい彼の試合は、どうなっただろうか。 . . . 本文を読む
能登で記憶に残った《色》は何かと問われれば、私はさほど迷わず《黒》と答えるだろう。輪島塗も黒あっての朱である。そして須恵器にルーツを持つ珠洲焼きも黒い。しかし何より瓦だ。半島の家々はすべて黒い能登瓦が葺かれ、曇天の小雨に濡れて鈍い光沢を放っている。壁を覆う板も濡れるほどに黒ずみ、海さえも黒く沈んでいる。そしてここは「黒島」である。伝統的建造物群に指定されている集落は、海岸沿いに黒く蹲っている。 . . . 本文を読む
能登の人々は、半島をその付け根から順に口能登、中能登、奥能登と三つに地域分けし、沿岸は富山湾側を内浦、日本海に洗われる西と北は外浦と呼ぶ。だから地元流に言うと、私たちは中能登の能登島を発ち、外浦の福浦に向かっていることになる。能登半島の中ほどを東から西へ、横断しているのだ。山越えとは名ばかりの、平坦な野に整備された舗装路が続いている。しかしさすがに外浦に出ると、荒波が打ち付ける断崖であった。 . . . 本文を読む
能登を旅したかった。半島→先端への憧れはもちろんだが、そこで制作されているガラス工芸と漆芸に触れ、自分はなぜこの二つの工芸に魅力を見出すことができないのか、答えを見つけたかったのだ。そこでまず石川県のガラス美術館がある能登島を目指す。陶芸・彫金・漆芸・染色・織物と、伝統工芸の展示館のような加賀国にあって、欠けているのがガラス工芸だから設けられた施設だという。必ずや私の眼を開かせてくれるだろう。 . . . 本文を読む
季節遅れではあったけれど、砺波市のチューリップ公園に行ってみる。公園の一角に立派な「砺波市美術館」があって「となみ野美術展2009」が開催されていた。よくある地域の同好家展だろうとの推量は外れ、きちんと入場料を徴収され、監視員の配置も本格的なスタイルだった。失礼ながらそれ以上に驚かされたのは、絵画・彫塑・書など出品作品のいずれもが高水準で、見応えがあったことだ。「となみ野」とはいかなる土地か?
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庄川での所用を終えると「少し奥地をご案内しましょう」と告げられた。庄川とは砺波平野の奥、旧庄川町である。そこでも十分に「奥地」のように感じていた私は、さらに奥に入って何があるのだろうといぶかしんだのだが、未知の土地に行く機会を逃すテはない、二つ返事でお願いした。すると車は庄川温泉郷を経てどんどん山を登り、谷は深く空が狭くなってようやく停車した。集落の入口には「越中五箇山相倉合掌造集落」とあった。 . . . 本文を読む
日本列島には多くの「湾」があるけれど、際立って水深が深い湾は駿河湾と富山湾なのだという。この二つの湾はいずれもプレート(地球を覆う岩盤)の境目にあって、プレートの一方がもう一方の下に潜り込み続けているため海底は深く、従って地震の巣でもあるというのだ。余りに規模壮大な話で私の理解力を超えているものの、だから魚種が豊富で、周囲に風光明媚な景観が作られ、温泉が湧き出すなどと聞くと楽しくなって来る。
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