今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

845 珠洲(石川県)珠洲焼に最果ての賑わい振り返る

2018-11-16 10:08:46 | 富山・石川・福井
輪島から「白米千枚田」「名船御陣乗太鼓」「揚げ浜塩田」「上時国家」と、奥能登の名所を案内しながら珠洲の街に入る。街角のポスターが、やたらと「さいはて」を詠う。確かにここは半島の先端部で、陸はここで果てる。そのことを強調して旅情を掻き立てようという狙いか。ところがおしゃれなカフェで休息していると、三人の珠洲マダムがやって来て賑やかな談話が始まった。最果ての寂しさなど吹き飛ばす勢いだ。



珠洲も7年ぶりの再訪である。お昼に寄ったラーメン店で「風の盆踊りは続いていますか」と訊ねると、「これが今年のポスターでした」と見せてくれる。毎年10月、本場の越中八尾から踊り手を招き、住民がともに「おわら節」を踊る。街の中心部・飯田町の年中行事だ。前回の訪問時が偶然その日にあたり、「最果ての旅情」を堪能させてもらったのだった。変わらず続けられていると聞き、他所者ながらホッとする。



7年前には「珠洲市の人口はひたすら減り続け、17000人を割り込みかねない状況だ」と書いた。それが直近のデータでは14441人である。「統計すず」によると、1日に1.3人が逝く一方で、新生児誕生は5.9日に1人である。1日当たり転入者は0.7人いるものの、転出者は0.9人とそれを上回る。このペースをいかに食い止めるか、輪島市など能登半島の多くの自治体同様、珠洲市も頭を痛めていることだろう。



地勢上、確かに最果てではあるけれど、かつてこの地は日本海交易のルートにあって、最果てどころではない海上の道の賑わいがあった。「かつて」というのは12世紀から15世紀にかけてのことで、その証拠の一つが北海道から中部日本に広がる珠洲焼の痕跡である。珠州焼は半島先端部一帯の窯場で焼かれた生活雑器で、海上流通の利を生かして大量に生産された。ただ中世末期に唐突に窯は閉じられ、消滅する。



地域特産の鉄分を多く含んだ陶土を、無釉還元焼成すると、黒いマットな質感に焼きあがる。わが国の代表的陶磁器産地として一時代を築いた珠洲焼を惜しみ、地元の努力により窯が復活して40年ほどになる。今では若手の作家も増え、新しい息吹が注がれているようだ。あまりに素朴な焼き上がりのため、私は惹かれることが少ないのだが、九谷焼には無関心だった米国青年は、「シンプルさがグッド」と買い込んでいる。



7年前に来た時は祭りの日で、市役所前の大通りには山車が整列し、最果てとは思えない賑わいを見せていたのだが、その季節を過ぎた街はひっそりと静まっている。ただ人通りは少ないとはいえ、街の静寂は掃き清められたように清潔で、しっかりとした暮らしが続けられていることは、あの珠洲マダムらの闊達さから偲ばれる。立ち寄った見附島は相変わらず奇妙なシルエットを屹立させ、能登の記憶を決定的にする。



私たちが休息したカフェは、硬い表情の女性たち3人が切り盛りする小さな店だったが、店内では女性作家の個展が開催中で、とてもお洒落である。硬い表情の店員さんも話しかければ親切で、個性的なカップの作者を訊ねると調べてメモしてくれたりする。こうした店が20年余も営業を続けていると聞くと、人口減少に悩む最果ての地とは現実なのかと疑ってしまう。珠洲焼を復活させた街よ、頑張れ!(2018.10.23)



























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