職員室通信・600字の教育学

小高進の職員室通信 ①教育コミュニティ編 ②教師の授業修業編 ③日常行事編 ④主任会トピックス編 ⑤あれこれ特集記事編

「ゆく年は女であるか」という詩句には記憶がある 

2006-12-25 07:17:15 | Weblog

06.12.25 「ゆく年は女であるか」という詩句には記憶がある

■12/22、本校教職員の忘年会で次のようなあいさつをした。
 冒頭部分だ。

 2学期末は、達成感と脱力感のほかに、長かった1年が終わるという感慨が加わるため、一種独特の雰囲気がある。
 わたしはこの時期になると思い出す詩がある。
 西条八十の詩で、大晦日、書きものをしていて、うとうととしたら、行く年の神様がそっと羽織をかけてくれた……
 詩の終わりが、行く年は女性であろうか?……だったと思う。
 校長としては、今、疲れ果てた先生方のお一人お一人の背中にそっと羽織をかけてさしあげたいという気持ちでいっぱいです。

■宴席では、どちらかというとぶっきらぼうなあいさつをするわたしにしてはよくできたあいさつだと思ったが、なにしろ30年以上も前に読んだ詩だ。
 作者がほんとうに西条八十か?
 詩のシチュエーションがほんとうに大晦日か?
 自信がない。
 で、けさ、原典にあたってみた。
 えっ?と思った。

  「ある大晦日の夜の記憶」(西条八十)

〈第1連〉
 その夜は粉雪がふっていた/わたしは独り書斎の机に座って/遠い除夜の鐘を聴いていた。

〈第2連〉
 風の中に断続するその寂しい音に聴き入るうち/わたしはいつかうたた寝をしたように想った/と、誰かが背後からそっと羽織を着せてくれた。

〈第3連〉
 わたしは眼をひらいた/と、そこには誰もいなかった/羽織だと想ったのは/静かにわたしの身に積もった一つの歳の重みであった。

 1連~2連までは、わたしのあいさつと一致している。
 しかし、3連はまるで違う。
 「羽織」は、わたしのあいさつでは「いたわり」「やさしさ」「思いやり」だが、実際の詩では、それは錯覚・幻覚で、「羽織」は、また一つ重ねる年からの疲れ……の象徴になっている。
 哀感が漂う詩だ。

■どうしてこうなったのか?
 「ゆく年は女であるか」という詩句には強い記憶があるが、別な詩ということか?
 しかし、だれの詩なのか?
 まったく見当がつかない。
 こういうときに役に立つのが、詩人の柴崎はんだ。
 電話をすると、即座に、
「それ、堀口大学の詩や。コピーとって速達で送ったるわ」
 と返ってきた。
 堀口の詩は一時期、読みふけり、書き写したことがある。
 西条の大晦日の詩に、わたしが堀口の詩を脳裏で勝手にくっつけたのだろうか?

■早朝、ネクタイをしめながらTVを観ていたら、弓の引き納めの様子が放映されていた。
 弓を引く女性。
 その矢が次のカットで的に突きささる。
 身が引き締まる。
 寄席の聞き納め、岬の釣り納め、山の登り納め、そのほか、乗り納め、踊り納め、御用納め。
 この「600字の教育学」もそろそろ書き納めか。
 生き方としての軸が、ずいぶんブレつづけた1年だったけど……。

■画像は12/23、休日の朝の光景。コーヒーと新聞と花梨。花梨はこうして置いておくと、いい香りがする。


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