職員室通信・600字の教育学

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わたしの仕事の文体のメタファーは、願望の断念の上に、なお願望の実現に向けて格闘するケンカ投法だ

2008-10-23 14:31:10 | Weblog


◆また少しだけ仕事の「文体論」をやることにする。
 仕事の文体論をやる……というのは、前にも述べたことがあるが、小説も書けないヤツが「小説作法」を熱っぽく語るのに似ている……試合で打てもしないヤツが「打撃法」を熱っぽく語るのに似ている……そんなヒマがあったら実際に小説を書けば……そんなヒマがあったら実際にバットを振ってみろよ……ということで、すごくはずかしいことで、絶対にやりたくないのだが、やはり「文体論」をやることにする。(このへんが、人間の複雑なところだ。)

 くどいようだが、わたしは、ここで仕事の「文体論」をやっている時間があるのなら、もっともっと実際の教育の改善・改革……たとえば、「大阪府の教育の考え方はここがまちがっている……そんなつまらないことに時間とお金を費やしているヒマがあったら、こうすべきだよ……東京都の教育の考え方は完全に違っている……それはこういう点で、こう改めるべきだ」という教育ビジョンを具体的に提示すべきだと思う。
 にもかかわらず、「文体論」をやる。
 理由は、(この理由を述べると、結局、小説も書けないヤツが小説作法を述べる行為と同じになってしまうのだが……)文体論は自分の出発地点の構えを明確にすることだし、その出発点から歩んでいく方向と歩み方とを示すことになるからだ。
 今、はずかしいことだと心から思いながら、なお文体論をやりたいといっているのは、その「出発地点の構え」と「歩み方」が、ぼんやりとだが、見えてきたからだし、その「出発点の構え」と「歩み方」が、わたしがこれから提示していく教育ビジョンと密接不離の関係にあると思うからだ。


◆少し前に、男桐下駄カランコロン思考として、
(1)今、わたしは、ひょっとして、現任校(みなみ中)の「マニフェスト」を「断念」するという手続きを経たうえで、その後の思考を記述しようとしているのだろうか? そして、そのための「文体」を求めているのだろうか?
(2)いや、それとも、新撰組の土方みたいに、土壇場のタイムリミットまで「マニフェスト」実現に向けて格闘し、その「悪戦苦闘」ぶりを記述しようとして、そのための「文体」を求めているのだろうか?
 ……と書いたことがある。

 漱石の則天去私のような話だが、さっき、強い電撃に打たれたように、この(1)の文体と、(2)の文体が、わたしのなかで合体・融合した。
 アウフヘーベンしたのではない。
 合体・融合だ。
 アウフヘーベンは理屈だが、合体・融合は悟りだ。
 電撃の悟りを、理屈で説明することはむずかしい(^_-)ので、結論だけをコンパクトに述べる。

 わたしのいう「文体」というのは、願望の「断念」が、絶対の条件になる。
 願望の「断念」を強いられることを前提としていないものは、文体ではない。
 その断念の上に、願望の実現に向けて格闘する……悪戦苦闘する……その「軌跡」が「文体」だ。
 これが文体論の結論だ。


◆文体のメタファーを求めて、文体論をつづける。

 わたしは、ライオンズの東尾とタイガースの岡田が大好きだ。
 あの滑舌の悪さと、品のなさと、あちこちでの激昂ぶりは、もう最高だ。
 シーズンの終わり頃、岡田がヤジを飛ばされ、怒鳴り返すという場面を見た。
 あるいは、現役の東尾が、ファールをつづける打者に「こらぁ~! いつまでファールしとんねん。早く三振せんかぁ~!!」と怒鳴っている。
 今年の日本シリーズは、この2人で居酒屋中継をやってもらえまへんかねぇ~。

 東尾で最も印象深いのが、「黒い霧事件」以降の数年を振り返った場面で(←この頃の東尾の成績は、1970年11勝18敗 1971年8勝16敗 1972年18勝25敗)、「負けつづける。けど、ひょっとしたらきょうは勝てるかもしれないという試合がある。そういうときは、どんなことをしてでも勝とうと思って投げた」という述懐だ。
 「どんなことをしてでも」というのは、きっと、いわゆる「ケンカ投法」のことだろう。
 ダラダラ書いたので、結論を急ぐことにする。

 願望の断念の上に、なお願望の実現に向けて格闘する「どんなことをしてでも」という「ケンカ投法」、これが文体のメタファーだ。
 切れ味鋭いスライダーやシュートを軸にした横の揺さぶりと、打者の内角を突く強気のピッチング(^_-)。
 そして、8勝16敗(>_<)。


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