職員室通信・600字の教育学

小高進の職員室通信 ①教育コミュニティ編 ②教師の授業修業編 ③日常行事編 ④主任会トピックス編 ⑤あれこれ特集記事編

第3の教育改革の伴奏のように鳴り響いている教育危機、その元凶が、学校の教育独占体制、あるいは学校の

2008-04-16 20:13:36 | Weblog
◆水分の補充を待つ、植木鉢の植物のように、自分のからだが、教育学の論文に飢えていると感じている。
 ソファーに寝っ転がり、読んでは眠り、目覚めてはまた読み……を、土・日、いや、2日では足りない……、1週間、いや、1週間でも足りない……、ま、2ヶ月くらい、そんなふうにして教育学論文三昧で暮らしてみたいと思っている……。
 読む対象は2つある。
 1つは、手もとにある教育雑誌を片っ端から、○○誌4月号~3月号まで、△△誌4月号~3月号まで……という感じで、ぶっ通し、ぶっ通し、読んでみたい。
 今、手もとにある(みなみ中で購読している)のだと、『道徳教育(明治図書)』『心を育てる学級経営(明治図書)』『授業研究21(明治図書)』『進路指導(日本進路指導協会)』『学校マネジメント(明治図書)』『現代教育科学(明治図書)』……。
 教育に携わる、小学校・中学校・高等学校・大学の方々が教育を語る言語に、自分のからだ全体を浸してみたい、自分をバラバラにしてさらしてみたいのだ。

 もう1つは、戦前の教育学関連の書物だ。
 なぜ、戦前の教育学なのか……については、ちょっと横道にそれなければならない。
 わたしは、昨年度も、あちこちで、インコのひとつ覚えのように、あるテーマをくり返した。
 それは、第3の教育改革の伴奏のように鳴り響いている教育危機、その元凶が、学校の教育独占体制、あるいは学校の教育丸抱え体制にある……、これを修正し、教育のバランスをよくしないかぎり、どんな施策を打ち出しても、あまり、いや、ほとんど効果はあがらないだろう……逆にいうと、バランスさえよくなれば、日本の教育はまだまだだいじょうぶだ……そのために……(わたしの講演は、いつも、ここから始まる)
 わたしは、わたしのいう「学校の教育丸抱え体制」を強める方向に作用したのは、主に次の3点(の融合作用)だと考えている。
 1つは、学校中心自治民育体制。
 昭和7年文部省訓令「学校少年団」
 昭和16年「大日本青少年団」
 昭和20年5月22日戦時教育令=「学徒隊」
 このいう流れのなかで、いわば「学校中心自治民育」体制が確立していったのだが、この戦前の学校イメージが、敗戦後も、幻影として保持されたこと。

 2つ目が、教育爆発現象。
 高校進学率が昭和20年代〈20%〉→昭和50年代〈90%〉と急カーブを描いている。
 受験のための狭義の学力観に地域・家庭も追随していったこと。

 3つ目は、地域社会構造の変化。
 職住分離・核家族化が進行したこと。

 この3つにくらべれば、影響は極々小さいと思うが、もう1つをしいてあげるなら、「学習指導要領」の問題だ。
 なにかあると、学習指導要領に取り込み、学校で取り扱うという安易な判断が積み重なり、つまるところ、学習指導要領が、教育というものの、すべてを、学校に取り込む方向(なんでも学校、家庭もそう思い、地域もそう思い、教師自身もそう思いこむ)をつくりだし、結果として、学校の教育丸抱え体制を強化させる方向に働き、それが同時に、社会の教育力を奪ってしまったと考えている。

 クルリとひとまわりした格好だが、話をもどす。
 わたしは、3つあげた、1つ目、すなわち「学校中心自治民育体制」の形成過程を、今、しっかりと分析しなければならないと考えている。
 その上で、わたしの仮説「学校中心自治民育体制の幻影=学校の教育独占体制(学校の教育丸抱え体制)」を検証し、改める方策を打ち出していきたい。(というか、わたしはすでに具体的方策を打ちだし、実践もしているわけだから、正しくは、戦前の体制を分析しつつ、自分の方策と実践を見直したい……、見直した上で、さらに新たな実践を打ち出したい……ということになる。)

 蛇足になるが、今、学習指導要領が、教育というものの、すべてを、学校に取り込む方向をつくりだし、結果として、学校の教育丸抱え体制を強化させ、同時に、社会の教育力を奪ってしまったと書いたが、残念なことに、新しい学習指導要領案によると、総則第4の3(13)に「部活動については、(中略)学校教育の一環として、教育課程との関連が図られるよう留意すること。その際、地域や学校の実態に応じ、地域の人々の協力、社会教育施設や社会教育団体等の各種団体との連携などの運営上の工夫を行うようにすること」とある。
 部活動が、教育課程外であるという位置づけは変わっていない。
 しかし、「教育課程との関連が図られ」と指示している。
 何度もくり返すようだが、こういう安易な妥協が積み重なり、積み重なり、既に40年前の第3の教育改革を構想しなければならないような教育危機状況に至ったのである。
 まだ懲りないのか?と、わたしは、嘆いている。

 蛇足の蛇足になるが、こうして「嘆いて」いたら、草野某という人物から妙なメモが届いた。
 正確には、草野某がわたしに直接というのではなく、コピーのコピーという格好でわたしの手もとに届いたのだ。

 メモ=「社会教育団体等の各種団体との連携が求められている」というように読むと、意味を取り違えることになります。これは、「地域や学校の実態に応じて運営上の工夫が望まれる」という意味であり、「地域の人々の協力」や、「各種団体との連携」は、「~など」の表現ですからあくまでも例示にすぎません。(中略)重要なのは、前半の部分の「教育課程との関連を図る」ということです。(草野某のメモ以上)

 これは、論外。
 さっき「なんでも学校、家庭もそう思い、地域もそう思い、教師自身もそう思いこむ」と書いたが、某もその1人といってよい。
 反論する気にもならないが、ただ、身勝手な読み取りをしたうえに、だれが読んでも明確な方向性を示していることに対して、「例示である」と、ま、歪曲とまではいわないが、これも身勝手な限定を加え、正しく読み取ろうとする者に対して、「意味を取り違えることになります」は、タチが悪すぎるのではないか。

◆グダグダ書いた。
 しめくくる。
 教育誌を、読んでは眠り、目覚めてはまた読み、あるいは、わたしの仮説「学校中心自治民育体制の幻影=学校の教育独占体制(学校の教育丸抱え体制)」を検証し……、そして、自分がバラバラにされ、そして、そして、再び自分が組み立てられ、「新しいわたし」=「新しい原理を有するわたし」に至ることができれば、いいと思っている。

◆午前中、地域の老人クラブ・虹の会からぞうきん100枚寄贈を受ける。
 会長(泉良子さん)はじめ、3名の方が届けてくださる。
 毎年いただいているぞうきんをどのように活用しているか、あるいは、本校ではどんなふうにそうじをしているか……などについてお話しすると、たいへん喜んで聞いてくださる。
 その他、大久保地区、白銀台地区、岬台地区の方々、みなみ小・中PTA、学校とネットワークを形成して取り組んでいるすこやかみなみネット事業などについてお話しする。

 すこやかみなみネットの「ネット」は、みなみ学区の学校・家庭・地域(諸団体)を結びつけ、理念と活動を、分かちあう、あるいは共有しあうことを可能にするリンクだ。
 ただ、実際問題として、地区防犯協会や連合町内会などとのリンクと、きょう、おいでいただいた虹の会や、あるいは民生委員・児童委員等とのリンクは、リンクの仕方が異なる。
 いろいろな課題(含不登校)をクリアーしていくには、一元的なリンクではなく、多チャンネルリンクを開発していく必要があると感じた。

◆2時間目、3年1組の国語の授業(宮重T)のなかに自分の身を置く。
 きょうの画像は、すべてこのとき撮影したものだ。

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