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万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

善悪区別否定論は巧妙な‘罠’?

2019年05月26日 15時01分32秒 | 社会
近年、マスメディア等では、善と悪の区別を曖昧にするために意図的に否定論を広められているような気配がします。善悪二元論は子供じみた幼稚な思考であり、現実の世界では両者は混然としており、区別はできないとする…。

 しかしながら、善と悪とを区別する能力こそ、人類が高度な知能を有する証でもあります。生存本能に従って生きる他の動物達は、弱肉強食の世界にあって両者を殆ど区別していません。道徳や倫理の基礎となる善悪の判断こそ、人と動物とを分かつ人類の特性であるにも拘わらず、何故か、メディア人や知識人たちも善悪の区別に対しては、嘲笑するかのような冷ややかな視線を投げかけているのです。

 善悪の区別の曖昧化は、ハーバード大学のマイケル・サンデル教授の『白熱教室』などに見られるような両論並立型の議論にあってさらに強まる傾向があります。『白熱教室』は、日本国内では2010年にNHKがシリーズとして放映しましたが、正解のない、あるいは、参加者が合意に達するのが難しいテーマをめぐって議論を闘わすスタイルは、ある一面から見れば‘善’であり、他の一面から見ますと‘悪’ともなるケースを扱っており、両者の議論は常に平行線を辿ります。このため、視聴者の多くは、この世の中では至る所で善と悪とが融解しているような印象を受け、この世には絶対善もなければ絶対悪もないと信じ込むのです(もちろん、サンデル教授が善悪の融解を同教室の目的にしているわけではない…)。

 それでは、善と悪とは、本当に区別することはできないのでしょうか。ここで気を付けなければならない点は、ある一つの事象に対する善と悪との両面的な評価は、むしろ、善と悪とを区別しているからこそできることです。そもそも、善と悪との区別がなければ、善、あるいは、悪という観念さえ存在しないのですから。乃ち、善と悪とが融解しているように見えながら、その実、『白熱教室』のような解のない議論は、ある一つの事象において併存する複数の善の間の優先順位、あるいは、善が悪を伴う場合や逆に悪が善を内包するようなケースについて論じているのであり、善と悪との間の二者択一の問題ではないのです。

 例えば、ある人が、自らの利己的な欲望を満たすために他者を殺害すれば、当然にこの行為は‘悪’と判断されます。悪とは、利己的他害性を本質とするからです。ところが、同じ殺人であっても、無差別殺人を繰り返してきた凶悪犯によって無辜の人が殺害されそうな場面に遭遇し、生命の危機に直面していたその人を助けようとした末の殺人であった場合には、善悪の判断は格段に難しくなります。人々は、凶悪犯を殺害した人を弱きものを援け、社会の安全を守った正義の人として讃えるでしょうが、殺人は殺人です。人の命を救うことは‘善’ですが、殺人一般は‘悪’であるからです。このケースは、善悪の‘区別’そのものがなくなったのではなく、善意からの行為が悪を伴うために、全体としての善悪の‘判断’が難しくなるのです。こうした善悪が混在するケースに対しては、善が悪に優る場合にのみ許容される、あるいは、罪が軽くされるのでしょうが、その判断は、善と悪との比率や価値の優先順位等を勘案してなされるのです。
 
 以上に述べてきたように、善と悪とは区別はやはり人類社会の基礎であり、両者の区別は消滅してはいません。むしろ、善と悪との区別を否定する人々は、人類を動物レベルに貶める悪の擁護者ともなりかねないのです。もしかしますと、敢えて善悪区別否定論を流布している人々は、人類を罠にかけようとさえしているのかもしれません。この世から‘悪’がなくなれば、他者を自らの利己的な欲望の犠牲に供しながら、その悪行が罰せられることもなくなるのですから。道徳や倫理さえも疎んじられる今日であるからこそ、社会の安全と健全性を取り戻すためにも、意識して善と悪とのを区別するよう努めるべきではないかと思うのです。

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コメント (6)
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