米中摩擦、消費増税揺るがす=政府否定も延期論消えず
1993年1月1日に誕生したEUの欧州単一市場は、複数の国家によって一つの広域的な市場を形成する実験的モデルとされてきました。いわば、経済統合モデルであったのですが、今日、この逆のモデルが出現しつつあります。それは、米中貿易戦争を機とした経済統合の逆回転モデル―経済分離モデル―です。
古典的な自由貿易理論や市場統合理論の大半は、国家間の障壁なき貿易や国境を越えた企業間取引の活発化や結びつきの強化を肯定的に捉えてきました。否、こうした理論こそ、各国政府による貿易自由政策、あるいは、‘開国政策’を正当化する役割を担ってきたと言えます。相互依存論に至っては、国家間の経済関係の深化が戦争を防止するとする政治的な意義まで強調してきたのです。こうした経済のグローバル化を人類の発展過程の必然的プロセスのように見なす考え方は、今日、人々の頭に固定概念として染みついているのですが、米中貿易戦争は、この構図を根底から覆そうとするかのようです。
国境の消滅を理想とするグローバリズムを‘進化’の既定路線と見なす立場からしますと、米中貿易戦争は、定められた進路からのあるまじき逸脱にしか映りません。当然に、経済成長率やGDPを押し下げるマイナス要因として働き、双方とも自らの行為が自らに返り、手酷い痛手を負うものと予測するのです。実際に、IMFは、この路線に沿った減速予測を発表しています。高関税を相互にかけあった末の‘米中共倒れ’がこれらの説の論理的な結論となりましょう。そして、両国とビジネス関係を有する諸国もまた巻き添えとなるのです。
しかしながら、事態は上記の予測の通りに進むのでしょうか。一旦、固定概念から離れてみますと、案外、枠が外されたことによって思考が自由になり、様々な将来像を描くことができるものです。また、国であっても人であっても、外部環境の変化に対応し得る柔軟性を備えているものです。‘必要は発明の母’とも称されるように、仮に何らかの欠乏が生じた場合には、発明によって苦境を乗り越えたり、あるいは、それを他のもので代替しようとするのです。中国の世界戦略によるレアメタル独占状態が代替技術や新素材開発により打破されたのもまさに‘必要は発明の母’の賜物ですし、実際に、企業レベルでは、サプライチェーンの再編成を目的に中国から製造拠点を移す動きも始まっています。また、今日の科学技術を以ってすれば、如何なる国にあっても国産化や内製化は然程には困難ではないはずです。
このように考えますと、現時点にあって米中貿易戦争に対してマイナス評価を下すのは早計なように思えます。新たに生じた外部環境の変化に対応するには短期的には時間を要しはしますが、絶望する必要もなければ、悲観に暮れて諦めの境地に至には早すぎます。そもそも、国境なきグローバルな世界を人類の究極の理想とみなす、この前提自体が間違っているかもしれないのですから。そして、自由貿易や国境なきグローバリズムを極致まで推し進めた結果、軍事大国である中国、あるいは、同国をも操る巨大国際財閥による‘独り勝ち’を招くとするならば、この路線は地獄への道かもしれません。となりますと、人類は既にこの路線の修正時期に至っており、各国政府による関税政策、対外通貨政策(為替政策)、金融政策、競争政策、出入国管理政策…といった諸政策は、国境においてリスクの逓減を図り、国内の政治、並びに、経済に安全と安定をもたらす調整機能を果たすことになりましょう。保護主義という言い方にアレルギーがあるならば、調整主義といった言葉で表現することもできます。
かくして米中貿易戦争は、調整主義の効果、即ち、国境の調整力をプラス面で評価する説を確かめる実証実験となるかもしれません。仮に、同分離モデルにおいて一定の成果が認められるならば、今日の主権平等を基礎とした国民国家体系と国際経済体系とを調和させ得る一つのモデルとなりましょう。日本国もまた、政経両面において自国の独立性をも脅かしかねない中国との関係強化を目指すよりも、中規模レベルの国の立場から、各国の国境調整機能を組み込んだ新たなモデルの構築に努めるべきではないかと思うのです。
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1993年1月1日に誕生したEUの欧州単一市場は、複数の国家によって一つの広域的な市場を形成する実験的モデルとされてきました。いわば、経済統合モデルであったのですが、今日、この逆のモデルが出現しつつあります。それは、米中貿易戦争を機とした経済統合の逆回転モデル―経済分離モデル―です。
古典的な自由貿易理論や市場統合理論の大半は、国家間の障壁なき貿易や国境を越えた企業間取引の活発化や結びつきの強化を肯定的に捉えてきました。否、こうした理論こそ、各国政府による貿易自由政策、あるいは、‘開国政策’を正当化する役割を担ってきたと言えます。相互依存論に至っては、国家間の経済関係の深化が戦争を防止するとする政治的な意義まで強調してきたのです。こうした経済のグローバル化を人類の発展過程の必然的プロセスのように見なす考え方は、今日、人々の頭に固定概念として染みついているのですが、米中貿易戦争は、この構図を根底から覆そうとするかのようです。
国境の消滅を理想とするグローバリズムを‘進化’の既定路線と見なす立場からしますと、米中貿易戦争は、定められた進路からのあるまじき逸脱にしか映りません。当然に、経済成長率やGDPを押し下げるマイナス要因として働き、双方とも自らの行為が自らに返り、手酷い痛手を負うものと予測するのです。実際に、IMFは、この路線に沿った減速予測を発表しています。高関税を相互にかけあった末の‘米中共倒れ’がこれらの説の論理的な結論となりましょう。そして、両国とビジネス関係を有する諸国もまた巻き添えとなるのです。
しかしながら、事態は上記の予測の通りに進むのでしょうか。一旦、固定概念から離れてみますと、案外、枠が外されたことによって思考が自由になり、様々な将来像を描くことができるものです。また、国であっても人であっても、外部環境の変化に対応し得る柔軟性を備えているものです。‘必要は発明の母’とも称されるように、仮に何らかの欠乏が生じた場合には、発明によって苦境を乗り越えたり、あるいは、それを他のもので代替しようとするのです。中国の世界戦略によるレアメタル独占状態が代替技術や新素材開発により打破されたのもまさに‘必要は発明の母’の賜物ですし、実際に、企業レベルでは、サプライチェーンの再編成を目的に中国から製造拠点を移す動きも始まっています。また、今日の科学技術を以ってすれば、如何なる国にあっても国産化や内製化は然程には困難ではないはずです。
このように考えますと、現時点にあって米中貿易戦争に対してマイナス評価を下すのは早計なように思えます。新たに生じた外部環境の変化に対応するには短期的には時間を要しはしますが、絶望する必要もなければ、悲観に暮れて諦めの境地に至には早すぎます。そもそも、国境なきグローバルな世界を人類の究極の理想とみなす、この前提自体が間違っているかもしれないのですから。そして、自由貿易や国境なきグローバリズムを極致まで推し進めた結果、軍事大国である中国、あるいは、同国をも操る巨大国際財閥による‘独り勝ち’を招くとするならば、この路線は地獄への道かもしれません。となりますと、人類は既にこの路線の修正時期に至っており、各国政府による関税政策、対外通貨政策(為替政策)、金融政策、競争政策、出入国管理政策…といった諸政策は、国境においてリスクの逓減を図り、国内の政治、並びに、経済に安全と安定をもたらす調整機能を果たすことになりましょう。保護主義という言い方にアレルギーがあるならば、調整主義といった言葉で表現することもできます。
かくして米中貿易戦争は、調整主義の効果、即ち、国境の調整力をプラス面で評価する説を確かめる実証実験となるかもしれません。仮に、同分離モデルにおいて一定の成果が認められるならば、今日の主権平等を基礎とした国民国家体系と国際経済体系とを調和させ得る一つのモデルとなりましょう。日本国もまた、政経両面において自国の独立性をも脅かしかねない中国との関係強化を目指すよりも、中規模レベルの国の立場から、各国の国境調整機能を組み込んだ新たなモデルの構築に努めるべきではないかと思うのです。
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