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万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

日本国の対バーレーン軍事協力はIISSの戦略?

2025年05月30日 10時18分40秒 | 日本政治
 国際戦略研究所(IISS)と世界経済フォーラムとの共通性は、その資金の不透明性にも見ることができます。第7に挙げるべきは、運営資金の透明性の欠如です。そしてこの問題から、日本国の防衛、安全保障政策との関連性も浮かび上がってくるのです。

 世界経済フォーラムの場合には、グローバル企業等を中心に同フォーラムへの賛同者から運営資金を集めているようなのですが、この不透明性は、IISSの方が深刻です(IISSは慈善団体とされ、資金調達は理事会によって監督されているとされる・・・)。シンクタンクの‘本業’に対する評価は極めて高いものの、運営資金については‘詐欺的’と評されるほど評価が低いのです。2016年に英ガーディアン紙が報じたところによりますと、IISSは、マナーマ・ダイアローグの開催地であるバーレーン王室から秘密裏に巨額の資金(250ミリオンポンド)を受けとったとする機密文書がリークされたとしています。一説によりますと、バーレーンからの資金は、IISSの運営資金の凡そ半分にも上ったそうです。

 このことから、IISSが、‘顧客’となる国から資金を得ている様子が窺えるのですが、この他にも非公開の資金が多数含まれているのでしょう。もっとも、参加国の一国である日本国のケースでは、ジャパン・チェアの設置に当たって日本国政府は、凡そ9億円をIISS拠出しています(その後も、IISSへの資金提供は継続されているかも知れない・・・)。この拠出額は公開されてはいますので、透明性に関しては一先ずは確保されているのですが、防衛省や外務省が存在しながら、国家の根本に拘わる政策領域において政策立案や政策分析を一民間シンクタンクに委託、あるいは、アウトソーシングしてもよいのか、という問題も生じますし(機密漏洩のリスクもある・・・)、そもそも、国民の大多数は、この事実を知らされてもりません。既成事実のみが一人歩きしている状態なのですが、実際に、IISSとバーレーンとの関係が、日本国の安全保障政策に強い影響を与えている節が見られるのです。

 バーレーン王国は、ペルシャ湾内に位置する島国であり、地政学的には海路における要衝に位置しています。アメリカの第五艦隊の司令部が置かれ、日本国と同様に米軍が駐留する国の一つでもあります。1880年からイギリスの保護国となっていたものの、1971年に独立を果たしており、もとよりイギリスとの関係が深い国でした。さて、日本国とバーレーンとの関係なのですが、近年、頓に軍事分野における協力を深めています。

 軍事分野における両国間の関係は、2012年4月ハマド・ビン・イーサ・アール・ハリーファ国王が訪日した際に、民主党政権の野田佳彦首相との会談において署名された「両国防衛省間の防衛交流に関する覚書」に始まるものと推測されます(何故か、外務省ホームページでは同会談も覚書の内容も確認できない・・・)。同覚書の存在は、2014年に故安部元首相がシャングリア・ダイアローグに出席した際に作成された合意文書に登場することから実在は確かであり、実際に、2023年11月にバーレーンにて同覚書の改訂署名式が行なわれています。そして、その後、バーレーンとの軍事強力の強化に奔走したのは当時防衛大臣のポストにあった河野太郎議員であったのです(ジャパン・チェア開設にも関与・・・)。同議員は、2019年に第15回マナーマ・ダイアローグにおいて演説を行なうのですが、それに先だって、三度に亘ってバーレーンの国軍司令官と会談しています。

 同年2019年には、バーレーンに置かれている米第五艦隊の司令部に自衛隊の連絡官を派遣し、2023年2月には、機雷戦の訓練のために、インド太平洋・中東方面派遣(IMED23)部隊に所属する掃海母艦「うらが」並びに掃海艦「あわじ」が、バーレーン周辺海域で実施された米国主催国際海上訓練(IMX/CE23)に参加しています。また、日・バーレーンの二国間でも協力関係が進展し、2024年7月には、バーレーン沖で海上自衛隊護衛艦「さみだれ」とバーレーン王国海軍哨戒艇「アル・ムハラック」が親善訓練を実施しているのです。

 海洋の安全を護ることは、全ての諸国が協力して行なうべきことですので、海洋の治安維持に関する協力関係の構築は確かに必要ではあります(もっとも、自衛隊の中東地域での活動が適切であるのか疑問もある・・・)。しかしながら、その一方で、一民間シンクタンクに過ぎないIISSが主導する形態が適切であるとは思えません。上述したように、IISSは、バーレーンから巨額の資金の提供を受けとった疑いがあります。一種の‘不正献金’あるいは‘袖の下’とも解され、IISSのシンクタンクとしての独立性並びに中立性が欠けているとすれば、マネー・パワーに動かされていることにもなります。日本国と潤沢な‘オイル・マネー’を持つバーレーンとの軍事面での協力強化は、全くこの資金提供と無関係なのでしょうか。

 また、IISSは、政府間対話のプラットフォームを提供するとしていますが、‘対話’の内容は、主催者側に筒抜けとなるのではないでしょうか。あるいは、IISSはバーレーン政府のために働いているのではなく、グローバリストが描く‘グローバル・ガバナンス構想’があり、同構想では、IISSは安全保障分野における司令塔なのかもしれません。各国の軍隊は、この戦略に従って任務を割り振られている可能性もありましょう。そして、各国政府は、‘顧客’というより同構想に巧妙に取り込まれた‘かも’であり、その任務に要する費用も‘コンサルタント料’という形で負担しなければならない立場に置かれているのかも知れないのです。

 因みに2022年6月には、日本国とバーレーンとの間で「日・バーレーン投資協定の署名」も署名されており、金融面での関係強化も図られています。同国は、中東における金融センター化を目指しているともされ、ここにも、どこか、世界経済フォーラムの影が伺えるのです(つづく)。

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国際戦略研究所と世界経済フォーラム

2025年05月29日 12時04分46秒 | 国際政治
 ロンドンのアラウンデル・ハウスと言えば、16世紀にはバース・ウェールズ司教の館であった由緒ある建物です。今日、国際戦略研究所(IISS)の本部が置かれている建物は、19世紀にチューダー様式によって建設された新しいものなのですが、それでも、イギリスの伝統と歴史を感じさせる古風な趣があります。このシェークスビアが生きた時代を模して建てられた煉瓦造りの建物が、実のところ、現代という時代にあって‘世界を動かそうとしている’と申しますと、誰もが、首を傾げることでしょう。しかしながら、この推測、必ずしも妄想とは言い切れないように思えます。何故ならば、IISSには、世界経済フォーラムとの共通点が随所に見られるからです。あくまでも民間組織であること、並びに、毎年国際会議を主催し、グローバル化を目指している点は既に述べましたが、その他にも、幾つかの共通点があります。

 第4に、国連の枠組みで設置さている国際機関や国家機関ではないにも拘わらず、ダボス会議と同様に、同研究所には、各国の政府や政治家を招き寄せる‘パワー’があります。しかも、参加者の選択権は同研究所の側にあり、参加を求める政府や対象者に対して招待状が送られるようなのです。このため、この‘パワー’は、特に年次会合において観察されます。例えば、シャングリア・ダイアローグを見ますと、第一回会合では、防衛相レベルの閣僚が参加しており、日本国の防衛相も出席しています。さらに第二回会合からは防衛実務担当者や防衛官庁の次官級の幹部が、これに次ぐ第三回会合からは、情報機関・治安当局の担当者が招待者リストに加わったそうです。外観からすれば、招待状を受け取った各国の政府が自主的に判断した上で、同会合に閣僚やトップレベルの官僚を派遣しているように見えますが、制度としては主催者招待制ですので、むしろ、IISSに‘招集’されている観があります。因みに、石破茂首相も、防衛相時代の2008年に第7回シャングリア・ダイアローグに出席しており、2014年の第14回会合では、故安倍晋三元首相が基調演説を行なっています。何れにしましても、民間シンクタンク主催のイベントに対して、各国政府がトップクラスの代表を派遣するのですから、その‘パワー’は侮れません。

 第5に、年次会合への参加者は、各国の安全保障分野における閣僚や実務担当者等のみではありません。民間の企業幹部、ジャーナリスト、学識経験者なども参加しています。この側面も、ダボス会議と共通しています。もっとも、ダボス会議は‘経済フォーラム’ですので、グローバル企業のCEO等が参加するのは当然のことなのですが、高い機密性が要求される軍事分野での民間企業の参加は、どこか場違いなようにも見えます。しかしながら、同分野が、戦争ビジネスや軍需産業と密接に結びつき、地政学的なリスクが‘グローバル企業の市場戦略’に影響を与える点を考慮しますと、IISSのもう一つの‘顔’が自ずと理解されてきます。それは、おそらく、政府のみならず、民間企業へのコンサルタント・ビジネス、あるいは、両者に対する全世界レベルでの戦争利権のコントロールという役割です。否、‘主’がIISSであり、‘顧客’であるはずの政府や民間参加者が‘従’となる構図であるのかもしれず、グローバリストの世界戦略のために設けられた組織という見方もできましょう。

 この点、2023年までIISSの事務局長兼最高経営責任者(Director-General and Chief Executive ) を務め、現在、会長(Executive Chairman) のポストにあるジョン・チップマン卿の経歴は、注目されます。現時点では同前所長が世界経済フォーラムにおいて何らかのポストにあるのかは確認できないのですが、何故か、同フォーラムのホームページにチップマン卿を紹介する記事が掲載されているのです。この記事を読みますと、チップマン卿は、‘クウェートの国立銀行やインドのアジア一の大富豪にして実業家ムケシュ・アンバニ氏が率いるリライアンス財閥を含む様々な国際的な諮問委員会の委員に就任し、事業家や企業に対して先端技術産業のみならず、防衛、個人資産、資産運用、情報通信、海運、保険、資源採掘、石油、ガス分門などに関する助言を行なってきた’ことが分かります。その職歴は、まさしく軍事ビジネスコンサルタントと言っても過言ではないかも知れません。両者に見られる第6の共通点は、強い経済志向なのです(つづく)。

*チップマン卿は、2023年まで所長を務めており、現職ではありませんでした。表記に誤りがあり、心よりお詫び申し上げます。このため、本記事は、18時38分に訂正いたしました。
*再度、英語表現を併記し、チャップマン卿の経歴を訂正いたしました(2025年5月30日)。度々の修正、申し訳なく、お詫び申し上げます。

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国際戦略研究所はグローバリストの拠点?

2025年05月28日 12時20分07秒 | 国際政治
 米価高騰の原因究明の作業は、小泉農水相のウィキペディアのページから消されたイギリスのタビストック人間関係研究所の謎から始まり、イギリスに本部を置く国際戦略研究所の存在にも行き着くことにもなったのですが、同研究所は、極めて謎に満ちた存在でもあります。

 イギリスの国際戦略研究所(The International Institute for Strategic Studies; IISS)の前身が設立されたのは1958年のことです。同研究所は、軍事史家のマイケル・ハワード卿の提唱によるものであり、当初は核兵器に関する情報を収集及び提供等を主たる目的としていました。因みに、ハワード卿の母親は、ドイツからイギリスに移り住んだユダヤ人の娘であったとのことです。超党派の組織として発足し、初代議長は、クレメント・アトリー前首相が務めています。1968年からは、オーストラリア人と日本人のメンバーも加わり、1971正式に国際戦略研究所を名乗るようになります。このとから、日本国も、早い段階から関わっていたことが分かります。

 今日では、防衛や安全保障の幅広い分野において、各国政府や民間企業に対して地政学並びに地経学的な観点からアドバイスを行なう世界有数のシンクタンクとして知られているのですが、どこか、世界経済フォーラムの政治版のような側面があります。

 第一に、同研究所は、イギリス政府や英国軍直属の公的機関ではなく、あくまでも独立系の民間シンクタンクの形態で運営されています。この関係は、年次総会が開催されるスイスと世界経済フォーラムとの関係にも類似しています。同研究所の運営費も、全額、イギリス政府の予算から支出されているわけでもありません。

 第二に、同研究所も、民間組織でありながら、年一回、ダボス会議のように、各国の政治家等も参加する会合を主催しています。ただし、前者は、基本的には地域分割方式をとっています。アジア太平洋地域にあっては、2002年から地域的安全保障の強化を目的に、IISSアジア安全保障サミット(日本語表記)、即ち、シャングリラ・ダイアローグが毎年開催されるようになりました(開催地シンガポールのホテル名に因む・・・)。中東地域については、2004年11月にはバーレーンの首都マナーマにおいて、マナーマ・ダイアローグを始めています。最近では、昨年2024年11月に欧州・大西洋地域を対象として、チェコの首都プラハにおいて第一回IISSプラハ・ディフェンス・サミットが開催されました。

 以上に述べたように、年次会合自体は地域ごとに開かれているものの、参加国を見ますと、対象地域の諸国に限定されず、グローバルな顔ぶれとなります。非公式の防衛トップの会談として開かれた第1回のシャングリア・ダイアローグでは、インド、インドネシア、オーストラリア、日本、シンガポール等のアジア諸国の他に、イギリスのみならずアメリカの代表として当時国防副長官であったポール・ウォルフォウィッツ氏も参加しています(ウォルフォウィッツも東欧系ユダヤ人の系譜・・・)。2007年には中国人民解放軍の副総参謀長が参加し、その後、ベトナム、ミャンマー、ラオスなど、アジア諸国の参加国が増加してゆく一方で、フランス、ロシア、スウェーデン、スイスといったヨーロッパ諸国にもメンバーが拡大しているのです。参加国の中には、ウクライナの国名も見えます。また逆に、中東地域を対象としたマナーマ・ダイアローグにも、2018年には日本国の外務大臣として当時の河野太郎外相が出席しており、昨年2024の第一回IISSプラハ・ディフェンス・サミットには、石川防衛装備庁長官が出席しました。

 因みに、IISSは日本国にも研究拠点を設けており、河野外相時代の2019年にジャパン・チェアを開設しました。ジャパン・チェア・プログラムと称される事業も発足し、‘独立した立場から、日本の外交・安全保障・経済政策を分析’するとしているのです。IISSでも、ダボス会議への常連出席者として知られる河野太郎議員が、‘突破力’を発揮し、積極的な活動を見せているのも、単なる偶然なのでしょうか。

 今年2025年の10月には、ドイツのハンブルグにおいて、グローバルレベルでの新たな‘サミット’、グローバル・セキュリティー・イノベーション・サミット(Global Security and Innovation Summit :GSIS)の創設が予定されているそうです。同サミットについては、IISS単独ではなく、ハンブルグメッセ・会議(Hamburg Messe und Congress)との共同となるのですが、今日、先端的な軍事テクノロジーが出現する中、各国の政策決定者や立案者に対して議論の場としてのプラットフォームを提供することを目的としているようです。同サミットが登場したことで、IISSも、いよいよグローバルレベルでの‘総会’の体裁が整ってきているとも言えましょう(つづく)。

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小泉農水相と大衆心理操作

2025年05月27日 11時41分09秒 | 日本政治
 目下、備蓄米の凡そ30トンを直接に小売り事業者に売却するとする小泉農水相の米価高騰対策は、期待と懸念が入り交じる賛否両論の様相を呈しているようです。賛成派の支持理由はおよそ米価の下落効果一点に尽きるのですが、反対派を見ますとその理由は一つではなく、様々な視点からの同政策に検討が加えられています。余りにもタイミングが善すぎる小泉農水相の登場には、既に‘お膳立てが出来ていた感’が強く漂っており、長期的な視点から同政策の真の目的が怪しまれるのも故なきことでもないのです。本ブログも懐疑派の立場にあるのですが、本日、もう一つ、奇妙な現象に遭遇することとなりました。

 ここ数日、小泉農水相に関する記事を作成するに当たって、ウィキペディアに掲載されているページを読んでみたのですが、その中に、目が点となるような内容が記されていました。それは、同氏が研究員として籍を置いていた研究所を紹介する部分です。記憶を辿りますと、‘タビストック人間関係研究所の配下にある戦略国際問題研究所’とあったからです。タビストック人間関係研究所と言えば、しばしば陰謀の実在を主張する場合に登場するイギリスの研究機関として知られています。同機関は、タビストック・クリニックを前身に設立されたとされてはいるものの、その設立時期については第一次世界大戦中の1920年とする戦後の1922年とする説に分かれています。前者の説をとれば、戦時にあってイギリスがドイツ軍の残虐性をアピールするために偽情報を国民に流布し、大衆操作を行なったとする謀略機関とする説に信憑性を与えることになります。何れにしましても、軍との繋がりが強く、精神医学の研究所であり、現在でも国民保険サービスの一つとして運営されています。因みに、同クリニックの建物の前にはジークムント・フロイトの銅像が置かれており、アシュケナージ系ユダヤ人でもあったフロイトの精神分析学に基づく、当時としては先端的な治療が行なわれていたのでしょう(ユダヤ人迫害により、フロイトは亡命先のロンドンにて没している・・・)。

 正式にタビストック人間関係研究所が設立されるのは1947年のことであり、その際、ロックフェラー財団が支援したとされます。上記のタビストック・クリニックと軍との結びつきは、戦場や軍務で兵士達や戦争捕虜が負った心的外傷を治療する必要性からともされていますので、好意的に見れば、軍事分野における精神医療の拡充は、旧連合国諸国にとって共通の課題であったのでしょう。もっとも、人々の深層心理にまで踏み入ったフロイト流の研究は、容易に大衆を対象とした心理操作の研究開発へと繋がります。それ故に、真偽は別としても、同機関の名称が政治家との関係で目に入ると、自ずと大衆心理操作という言葉が頭に浮かんでしまうのです。

 小泉農水相の登場もドラマティックでしたので、演出効果を狙ったようにも思え、‘タビストック’の名に驚かされると共に、どこか納得もしてしまったのですが、本日、同ページにアクセスしたところ、タビストック人間関係研究所の名称はきれいに消えておりました。ページの更新日時は、5月26日16時22分となっていますので、昨日の午後に同部分は記事に消去されたようです。それでは、何故、‘タビストック’は消されてしまったのでしょうか。今般の交代劇の背景に潜む大衆心理操作に、多くの国民が気付いてしまう事態を怖れたからなのでしょうか。

 消去した直接的な理由としては、記事の内容に誤りがあったとする可能性は極めて高いように思われます。何故ならば、小泉農水相が勤務したとされるアメリカの戦略国際問題研究所(CSIS: Center for Strategic and International Studies)と極めて似通った名称で訳されることがある研究機関が別にあるからです。それは、日本語では国際戦略研究所、あるいは、国際問題戦略研究所と表記されるイギリスのシンクタンクです(IISS: International Institute for Strategic Studies)。英語では随分と違うのですが、日本語にしますと、両者は極めて間違いやすいのです。更新前の文章の誤りに気がついた人が、急ぎ、記事を訂正したとするのが最もあり得る記事訂正の理由となりましょう。

 そうは申しましても、イギリスの国際戦略研究所について調べましても、少なくとも現時点では、タビストック人間関係研究所との関係は確認できません。しかしながら、同研究所からは、日本国とも深く関わる極めて興味深い一面が見えてくるのです(つづく)。
 


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米価高騰の原因不明こそ大問題

2025年05月26日 11時41分40秒 | 日本政治
 今日、日本国は、奇妙な現象に見舞われています。それは、‘一向に下がらない米価’という目に見える現象なのですが、‘奇妙’と表現したのは、国民には、何が米価高騰の真の原因であるのか分からからです。お米の値段が上がっているのは、誰もが日常の消費を介して体験していることなのにも拘わらず、その原因が藪の中なのです。日本全国にあってお米の卸売事業者も小売店も多々ありながら、何れの事業者も、市場メカニズムの最大のメリットも言える値下げ競争をするでもなく、何らの説明もないままに値札の表示が高値の方向に更新されてゆくのです。

 如何なる問題も、その原因を突き止めないことには有効な対策を打てるはずもありません。言い換えますと、問題解決の出発点は、原因の解明にあるとも言えましょう。ところが、政府も国会も含めて政治サイドでは、米価高騰の原因を真摯に解明したり、責任を追及しようとする姿勢は殆ど見られません。失言で職を辞した江藤拓議員に代わって大臣のポストを得た小泉農水相も、米価を下げることだけに国民の関心を向けようとしているかのようです。

 この‘米価を下げる’という目的のために小泉農水相が打ち出したのは、競争入札方式を止めて随意契約とし、農協を介さずして直接に大手小売り事業者に売却するという方法です。農協が20万トンを超える備蓄米を放出しながら米価下落の効果が見られませんので、農協や卸売事業者を流通ルートから排除すれば、即、米価を下げることができると考えたのでしょう。この方法であれば、米価を2000円まで劇的に下げることができるとアピールしているのです。しかしながら、このピンポイント式の方法では、米価が下がるのは放出された備蓄米のみであり、しかも、大手小売店に限定されます。近隣に備蓄米販売店がない、あるいは、通販に慣れていなければ購入もできませんので、全ての国民が恩恵を受けるわけでもないのです(また、注文殺到で、瞬時に売り切れとなるかもしれない・・・)。

 しかも、同方式は法に触れるとの指摘もありますし、見方を変えれば、通販を含めた大手小売店に対する備蓄米の独占的な払い下げともなります。小泉農水相は、備蓄米の安値販売を引き受ける大手小売り事業者を利益を度外視した慈善的な行為として褒めていますが、僅かであれ利益を上乗せするでしょうから、独占的な販売は、やはりビジネス・チャンスともなりましょう。そもそも米価高騰の狂乱以前は、2000円程度で販売されていたのですから。また、中小の小売店にとりましては、現状にあっても米価高騰で売り上げが減少する中、顧客が大手小売店に流れるリスクも抱えてしまいます。さらに穿った見方をすれば、小売店への直接売却は、農水省が作成している全国の相対取引を平均化した「現物コメ指数」への影響を避けるためかも知れません。何故ならば、同指数は、大阪堂島取引所における「コメ指数先物」で用いられている指数であり、相対取引とは、農協等の集荷業者と卸売事業者との間の取引であるからです。

 かくして、今般の大手小売りへの直接売却方式には限界も問題点もあるのですが、そもそも真の原因が解明されていないという大問題があります。最も有力であり、かつ、小泉農水省が主張してきた‘農協解体’の目的にも合致する農協犯人説も、必ずしも正しいとは限りません。何故ならば、お米取引の自由化が進んだ今日では、農協の農家からの集荷率は既に3割程度に下がっており、同事業への民間事業者の新規参入が増加している現状があるからです。半数を超える7割程度が農協を介さない流通であるならば、米価高騰の真の原因は、民間の新規参入者にあると考えるのが自然です(老舗の米卸問屋については、お米が確保できずに廃業するケースも・・・)。

 もっとも、本日からAmazon.co.jpでは全農のパールライス(JAグループのブランド米)が、5kg3868円で販売されているそうですので、同米が備蓄米であれば、2000円の備蓄米の登場を前にしてか、少なくとも農協が落札した備蓄米の小売りは始まったことになりましょう(この価格でも、落札価格を考慮すれば農協は十分に利益となる・・・)。その一方で、これが備蓄米でなければ、米価高騰を目的として農協が‘売り渋り’を行なっていた証ともなりましょう(標的とした組織に対して予め自らの‘味方’を送り込むのは常套手段ですので、農協の中枢部も、金融グローバリストに半ば‘乗っ取られている’とも推測される・・・)。

 農協犯人説は、巨額の運用資金を手にするために農協を解体したいグローバリストの筋書きなのでしょうが、原因不明の状態も、それが好都合であるからなのでしょう。原因が国民には分からない状態であれば、政府が‘原因’を一方的に‘特定’し、その対策を口実と低如何なる政策をも思い通りに実行することができるからです。しかしながら、この手法、既に辻褄が合わなくなってきており、あちらこちらから綻びが生じてきているように思えます。たとえ米価が下がったとしてもここで満足せずに、解決すべきは原因不明状態、即ち、日本社会を覆う強度の情報隠蔽あるいは情報統制ですので、後者の原因こそ追求すべきと言えましょう。国民が、自らの食に関する情報を十分に得ることができない現状こそ、異常事態ではないかと思うのです。

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小泉農水相のミッションを推理する

2025年05月23日 10時28分08秒 | 日本政治
 自らの失言によって辞表を提出するに至った江藤農林水産大臣に代わって、急遽、同ポストに抜擢されたのが小泉進次郎議員です。昨年の自民党総裁選挙では、石破首相と‘総理大臣’の座を競って敗れたものの、米価高騰は、小泉農相に再浮上のチャンスを与えたようです。総裁では、思いもよらぬほどの‘小泉政権反対’の逆風が国民から吹いてきたからです。こうした世論からしますと、かくもすんなりと後継が決まった経緯にもどこか不自然さがあるのですが、小泉農相のミッションとは、一体、どのようなものなのでしょうか。

 もちろん、国民の大半が小泉農相のミッションとみなしている大臣としての‘仕事’が、上昇傾向が止まらない米価を下げることであることは、同農水相自身も認めるところです。石破首相による同氏の登用も、かつて自民党の農業部会長を務めた経験が買われたとされます。農水行政に通じていることが同ポスト就任の表向きの理由なのですが、農業部会長の職歴を有する自民党の政治家は小泉議員のみではありません。もっとも、小泉議員は、農協と利権絡みの繋がりが強いとされる自民党にあっては、異色の農業部会長でした。何故ならば、同職にあって小泉議員は、「農協改革」の方針を打ち出していたからです。この方針を見ますと、今般の小泉農相のミッションには、表面には見えない別のミッションも想定されてくるのです。

 この隠れたミッションが、かつて自民党の農業部会長のポストにあって果たせなかった「農協改革」、否、‘農業改革’であることは容易に推測されます。同氏が目指す‘農業改革’とは、農業の自由化、即ち、農業分野にあっても自由貿易主義、あるいは、グローバリズムを推し進めるというものです。「農協改革」もその一環であり、農業協同組合であった組織形態を株式会社に転換し、戦後から続いてきた農家の相互扶助的な役割を終了させた上で、‘市場原理’にそって海外農家をも含めた自由競争に日本国の農家を晒そうとしたかったのでしょう。表向きは、競争を介した日本国の農業の強化を掲げながらも、その実、真の目的は、日本国の米市場の開放であり、かつ、農林中金の事実上の‘グローバリスト’への‘売却’あるいは‘献上’であることも容易に想像がつきます。

 父小泉純一郎内閣にあって郵政民営化に踏み切った点を考慮しますと、後者、即ち、農林中金の資金獲得が「農協改革」の真の目的であるのかも知れません。郵政民営化も、グローバリストによる郵便局の金融部門の掌握が隠れた目的であったとされているからです。農協も、同組織が株式会社化されれば(一種の民営化・・・)、株式の取得によって簡単に農協が有する100兆円規模とされる資金を手にすることができます。2007年10月の郵政民営化から凡そ20年の月日が流れ、今では、国民の多くが同改革の隠された目的に気がつくようにもなりました。そして、今般、再び、同様の展開が繰り返されているとも言えましょう。

 こうした視点から小泉議員の農水相起用までの流れを観察しますと、現状は、「農協改革」にとりましては極めて好都合です。何故ならば、国民の多くが、今般の米価高騰の‘犯人’は農協なのではないか、と疑っているからです。しかも、目下、資金運用の失敗により、1.8兆円もの赤字を計上したとされます。この巨額の赤字を補填するために、意図的に米価をつり上げたのではないか、とする説が専らなのです。備蓄米の9割以上を落札したにも拘わらず、米価下落効果が見られないのも、高値維持のために農協が出荷せずにため込んでいるためとする観測もあります。農協はいわば、‘国民の敵’と見なされていますので、今であれば、世論の圧倒的な支持の下で「農協改革」を行なうことができましょう。

 実際に、小泉農水相の登場により米価が急落すれば、同大臣は、従来のイメージを払拭し、国難を救った‘国民的なヒーロー’にもなり得ます。この勢いに乗れば、絶望視されていた首相の座も夢ではなくなります。火に油を注ぐような農協の開き直った態度も、江藤前農水相の唖然とさせられる失言も‘悪役’の台詞とすれば、どことなく納得します。小泉政権誕生までの完璧なまでの流れとなるのですが、ここに一つの弱点があります。それは、余りにもこの流れが‘出来過ぎ出ている’ために、多くの国民が、予めシナリオが準備されていた可能性を強く疑うようになるからです。すなわち、たとえ米価が急落したとしても、国民からは、グローバリストによる配役によって‘ヒーロー役’を演じているに過ぎないと疑われ、むしろ、自ずと怪しさが滲み出て警戒感が高まってしまうのです。

このように推理しますと、小泉農水相に課されたミッションとは、おそらく抜本的な農業改革なのでしょう。就任早々、小泉農相は、米価の価格破壊を目指すとしていますが、‘破壊’されるのは米価ではなく、日本国の農業であるのかも知れません。大阪堂島商品取引所における昨夏の米先物取引の開始も、農協を巻き込みつつ利益を上げ、米価高騰を誘導するための一石二鳥、否、一石三鳥以上の策であったのでしょう(1.8兆円の巨額損失にもどこか不透明感が漂っている・・・)。小泉農水相の登場により、米価高騰の背後に蠢くグローバリスト達の姿も現われてきているように思えるのです。

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AI・ロボット導入は日本農業に国際競争力をもたらすのか

2025年05月22日 11時33分13秒 | 日本政治
 イギリスの穀物法廃止後に農業の‘黄金時代’が訪れたのは、高度集約農業、とりわけノーフォーク農業と称される先端的な農法の普及が指摘されています。ノーフォーク農業自体は四輪作農業に畜産業を組み合わせた混合農業なのですが、産業革命の発祥の地だけあって、農作業の機械化や化学肥料の開発等も農業の繁栄に寄与したことでしょう。この成功例を見れば、日本国の米市場の自由化も、技術力をもって克服できるとする見方が登場するのも故なきことではありません。しかしながら、この楽観的な予測も、グローバル時代が裏目に出る可能性が極めて高いように思えます。

 メディアやネットにありましては、今やAI時代が到来し、あらゆる分野にあってその導入が進んでいるとする印象を持ちます。日本国政府も、「AI法」の制定を急いでおり、政府もAI普及の旗振り役を務めています。否、旗振り役どころか、真っ先に同テクノロジーを導入し(増税路線が止まらない原因の一つでは・・・)、行政の効率化やサービス等に活用しようとする勢いです(もっとも、国民的コンセンサスもない上に、必ずしも‘国民のため’とも限らない・・・)。当然に、AIの農業への幅広い導入も視野に入っていることでしょう。また、ドローンやロボット等の実用化も、かの‘ムーショット計画’にあっても掲げられており、未来産業の主柱とも見なされています。

 このような先端技術の実用化の促進という背景があればこそ、楽観論も説得力を持つのでしょう。実際に、近未来の農業は、‘スマート・シティー’ならぬ‘スマート農業’という言葉も登場しており、農林水産省のホームページにも「スマート農業」というタイトルのページがあります。日本国政府は、都市部のみならず、農村の‘スマート化’を構想しているようなのですが、農業におけるAIや情報通信技術の活用、並びに、自動機械化は、期待通りに日本国の農業を救うのでしょうか。

 まずもって困難な障壁となるのは、あまりにも高い導入コストにあります。農水省のホームページによれば、経営・生産管理システムについては、初期費用は無料から30万円、月額で無料から10万円ほどですが、ロボットトラクターは一台1200万円から1900万円、自動操舵システムが40万円から250万円、高性能田植機が280万円から900万円、農業用ドローンが70万円から750万円・・・とありますので、これらを全て揃えようとすれば、相当の出費を要します。赤字経営も少なくない中小の自作農家では難しく、導入し得るのは資金力のある大規模農家に限られることでしょう。あるいは、中小の農家が‘農家が借金漬け’となる未来も予測されます。しかも、最悪の場合には、コストのかかるスマート農業化が農産物の価格をさらに押し上げてしまう可能性も否定はできなくなります。

 第一に関連して第二にあげられるのが、同システム導入には、広域的な農地が適している点です。実際に、農水省のホームページにあってスマート農業の実証実験の事例(217件)として紹介されているのは、耕地面積が比較的広い事業者であり、集落営農法人や株式会社として運営されているケースが大半です。水稲・稲作の事例として登場している農業事業者も、面積196ヘクタールと水田の全国平均(凡そ1.7ヘクタール)の100倍ほどであり、しかも、同事例では、アメリカ向けの輸出用のお米が栽培されています。つまり、政府が進めている米輸出促進計画のためのモデル事業とも言えましょう。

 以上に述べてきた2点は、19世紀のイギリスのように、資金力の乏しい中小の農家の消滅を予測させるに十分です。もっとも、重労働とされる農作業を軽減し、かつ、安価となる移民労働力に頼るよりは、農作業の自動化等の先端技術の導入は否定されるべきことでもありません。上記のホームページでも、スマート農業技術の効果として著しい時間の短縮が挙げられています。このため、中小の農家が生き残り、技術開発の恩恵を受けるには、先日の5月16日付けの記事で指摘したように、従来型の農業機械のみならず、自動型の農業機械の使用の‘集約化’やリース・レンタルシステムの構築といった工夫を要することとなりましょう。同時に、官民の研究機関や民間企業が、低価格のシステムや自動農業機械を開発するといった対応もあります。しかしながら、米市場が自由化されれば、こうした努力も水泡に帰すことでしょう。何故ならば、グローバル時代であればこそ、先端のテクノロジーも世界レベルで普及し、国際競争力において優位性を維持することはできなくなるからです。

 実際に、電車の車内広告でその現実を目のあたりにすることとなりました。農村における先端技術の導入をPRする日本企業の広告なのですが、その映像に映し出された広々とした農村とは、日本国内ではなくタイなのです。ほぼ同時に先端技術がグローバルに拡散するとしますと、日本国よりも耕地面積が広く、経営規模の大きな諸国の農産物の競争力がさらにアップします。稲作は南方の方が適していますし、東南アジア諸国等は、これまで機械化が進んでいなかった分だけ、最先端の技術を導入しやすい状況下にもあります。ジャポニカ米の生産国が増えているのも、バイオテクノロジーを含めた農業技術の発展がそれを可能としているのでしょう。

 このことは、日本国の農業は、たとえAIやロボット等の最新技術を導入したとしても、国際競争力を持つことが極めて困難であることを意味します。一部の高級ブランド米を除いて、輸出どころか、日本米の国内シェアを維持することさえ難しくないましょう。こうした現状からしますと、日本国は、米市場の開放よりも農業保護を基本とした上で、生産者も消費者も共に納得し得るような、流通を含めた農業システムのありかたを考えるべきなのではないかと思うのです。

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日本国の米市場自由化は時代の逆行では

2025年05月21日 11時32分22秒 | 日本政治
 目下、米価高騰は、驚愕の失言から農林水産大臣に就任して一年にも満たない江藤拓農相が自ら辞表を提出する事態を招くこととなりました。その発言たるや「私は買ったことがありません。支援者の方々がたくさんコメをくださるので、まさに売るほどあります。私の家の食品庫には」というのですから、我が耳を疑います。まさか高値を維持したい農協や‘転売ヤー’あるいは‘投機筋’などから賄賂としてお米を受け取っていたわけではないのでしょうが、それを疑わせるに十分です(大量のお米を保管できる食品庫があること事態が怪しさを増している・・・)。米価高騰の実態や国民の生活困窮を知らないどころか、知ろうともしない、さらには、米価高騰で利益を得ているかも知れない政治家に米価対策を任せても、お米の価格が下がるはずもありませんし、国民本位の農政が実現するわけでもありません。

 かくして米価高騰は、日本国の農業のみならず、政治システムにまで波及して様々な問題点を浮き彫りにすることとなったのですが、米価高騰の解決策の一つとして、自由貿易主義をさらに推し進め、米市場を開放しよう、という意見があります。いわば、19世紀のイギリスに起きた穀物法論争の再来のような提案なのですが、穀物法が廃止された1846年から今日に至るまでのイギリス農業の歩みは、今日の日本国の主食穀物、すなわち、米市場の行方を考える上で示唆に富んでいます。

 今日、日本国では、ミニマムアクセス、すなわち、一定量の義務的コメ輸入と引き換えに、日本国は高率関税を維持してきましたので、これを撤廃すれば、米価が大幅に下がることは確かなことです。19世紀の穀物法廃止では、その後、‘イギリス農業の黄金時代’が到来しましたので、日本国の農業も、高率の関税を撤廃し、米市場を開放すれば、‘黄金時代’も再来すると信じる人も決して少なくはないのでしょう。しかしながら、日本国には、その条件も外部環境が揃っているとは到底思えないのです。

 第一に、穀物関税の撤廃については、国民の大多数が支持するわけではありません。当事のイギリスでは、既に‘囲い込み運動’により農地の集約化が進んでおり、穀物法は、少数の‘大地主’や大規模農業経営者の利益を護るための法律として認識されていました。このため、国民の多数を占め、かつ、産業革命期の悲惨なる労働条件の下で働いていた都市労働者の人々は、当然により安価となる穀物の輸入を望んだのです。

 一方、日本国の現状を見ますと、戦後の農地解放により農地が細分化されたため、中小規模の自営農家が大半となります。すなわち、イギリスとは違い、‘これから’農地の集約化を政策的かつ強力に加速しなければならなくなるのです。このため、近い将来において、農家の廃業と農業人口の減少が急速に進むことが予測されます。そして、農村という村落共同体の崩壊もあり得る事態です。市場開放は、得てして海外への開放をも意味しますので(再生エネ市場を見れば一目瞭然・・・)、農業経営の企業化も容易となれば、農村の風景もそこで暮らす人々も一変することでしょう。日本国の場合、二、三代といった近い世代を含めれば農村出身者も多いため、国民の中には、都市部であっても、安価な穀物よりも農家と農村を保護し、若者の農業へのチャレンジを応援しようとする人々も決して少なくないのです。

 さらに、たとえ最大限に農地を集約して耕地面積を拡大させたとしても、おそらくヨーロッパ諸国のレベルに追いつくことさえ難しいかも知れません。米作には水田を要しますのでこの点は割り引く必要はあるのですが、現状にあって10倍程度の差があります。アメリカやカナダですとさら差が広がりますので、早晩、イギリスが19世紀末に直面した規模における絶対的な劣位の問題に早々直面することになりましょう。

 なお、19世紀のイギリスでは、穀物法廃止後に農業は空前の繁栄を謳歌したものの、穀物価格が劇的に下がったわけではありませんでした。このため、都市部労働者が受けた恩恵も限れる一方で、穀物価格の低下は、労働賃金の上昇を抑えたとする指摘もあります。今日、日本国にあって米関税が撤廃されれば米価は急落するでしょうが、この‘価格破壊’は、上述したように農家や農村には破壊的な影響が及ぶこととなりましょう。農村部にあって失業者が出現する事態さえ想定されるのです。

 第二に、関税を撤廃しても、農家に対して直接に所得補償を行なえばよい、とする意見もあります。同政策は、農家業保護政策としてイギリスでも実施されています。しかしながら、著しい内外価格差が存在する場合、自由化に伴う農家の収入減を給付金で補うとしますと莫大な予算を要することとなりましょう。しかも、消費者が安価な輸入米に流れれば、やがて日本産米は国内シェアを失い、農業そのものが衰退の一途を辿ることにもなりかねないのです。

 以上に農地規模の拡大の視点から19世紀中葉のイギリスと21世紀の日本国とを比較してみましたが、イギリスの経験は、日本国が同路線を歩むことに対して‘止めた方が良い’と語っているように思えます。それでは、ノーフォーク農業のように最先端の技術を用いれば、日本米は、国際競争力を備えることができるのでしょうか。この方面からのアプローチにつきましても、楽観的な見方は禁物のように思えるのです(つづく)。

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自由貿易主義から保護主義へ-イギリスの実験

2025年05月20日 05時57分40秒 | 国際経済
 イギリスにおける1836年の穀物法の廃止は、自由貿易主義の正しさを歴史的に証明したとする見方は、1837年から1874年あたりまでの一時期だけを切り取った場合にのみ、言い得るように思えます。否、‘黄金時代’とされたこの時期でさえ、必ずしも‘輝かしい’ばかりではありません。中小規模の農家は没落の運命を辿るからです。1870年をもってイギリスの耕地面積は史上最大を記録しつつも、それは、大規模借地による農業経営規模の拡大に寄るものでした。いわば、規模の拡大と合理化によって、穀物法廃止後の自由貿易主義の時代を凌いだとも言えましょう。

 自由貿易主義者は、たとえ中小規模の農家を犠牲にしたとしても、先進的な農法の導入、農作業の機械化、並びに規模の拡大によって農業が生き残ることが出来れば、何も問題はない、と反論するかも知れません。ところが、この‘黄金時代’も長くは続きませんでした。中小農家の切り捨てという多大な犠牲を払ったものの、その後、イギリスの農業は苦境に立たされることとなるからです。それは、‘黄金時代’において農業の繁栄を支えていた要因や幸運が、全て失われてゆく過程でもありました。

 中でも特筆すべきは、国際競争における敗北です。規模においてはるかに優るアメリカやカナダ等の諸外国からの低価格な穀物が大量に流入するようになったからです。これらの諸国では、中西部の開拓等によって広大な穀倉地帯が出現し、農業経営が軌道に乗ると過剰生産を抱えるに至ります。この結果、自由貿易主義を貫くイギリスは、格好の輸出先となるのです。この局面では、イギリスにおける農地集約や経営の近代化等は、もはや自国産の穀物の競争力を支えることはできなくなります。農業事業者一件あたりの耕地面積には格段の差がありますので、‘規模の経済’においてイギリスは、アメリカやカナダ等に太刀打ちできなくなるのです。

 また、穀物法が廃止された頃には、大西洋における海上輸送力は脆弱でした。ところが、産業革命を背景とした造船技術や航海術の発展により、船舶による大量の穀物輸送が可能となります。このことは、海外からの輸入コストをさらに押し下げ、20世紀の初めには、パン用小麦粉の75%が輸入であったとする説もあります。そして、1870年をピークとして農地面積も減少を続け、1901年には半減してしまったとされているのです(約330万エーカー⇒約160万エーカー)。

 かくして、イギリスの食糧自給率は低下の一途を辿ることとなったのですが、この局面にあっても、イギリス政府は、自由貿易主義を‘国是’として堅持します。全世界に自由貿易体制を構築してきた手前、穀物法を復活させることはなかったのです。そして、イギリスがようやく同政策を転換するのは、第一次世界大戦を待たなければなりませんでした。ドイツの潜水艦による大西洋における輸送妨害等により、穀物の輸入が困難となり、自国で生産せざるを得なくなったからです。ここに来て、ようやくイギリス政府は、食糧増産の方向へと農業政策を転換させるのです。

 それでは、第一次世界大戦の終息をもってイギリスは、自由貿易主義に復帰したのでしょうか。実を申しますと、これを機に、同国の政府は、自由貿易主義という理念に殉じるよりも、現実を選択することとなります。1940年代から条件が不利となる耕作地に対する補助金の給付制度を開始し、EU加盟時代にあっても共通農業政策(CAP)の下で農業保護政策を実施しています。そして今日に至るまで、イギリスは、手厚く自国の農業を保護しているのです。

 以上に、穀物法廃止の顛末を見てきましたが、イギリスの農業保護政策については、農家への直接補償と関税とは違う、とする反論もあるかも知れません。因みに、現状にあっては、輸入穀物に対する関税率は0%であっても、畜産品や加工食品等に対しては関税を課しています。結局、自由貿易が全ての諸国にとりまして必ずしも利益となるわけではないことは、イギリスが自らの身をもって証明したとも言えるのではないでしょうか。地理的条件や気候条件等に起因する様々な格差や産業構造の違い、あるいは、テクノロジーのレベルが国際競争力における優劣と利益の不均等をもたらし、自由貿易理論が‘最適な国際分業’として容認する劣位産業の淘汰は、現実には容認できないことがあることを・・・。この側面は、グローバリズムとも共通しています。イギリスの事例は、歴史の教訓に満ちていますので、日本国政府、並びに、全ての諸国の政府は、今一度、経済や通商の在り方を見直すべきではないかと思うのです(つづく)。

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‘米市場自由化’の顛末とは-穀物法廃止の行方

2025年05月19日 12時13分17秒 | 国際経済
 1846年、イギリスでは、ナポレオン戦争を背景に1815年に制定された穀物法が廃止され、自国を中心とする自由貿易体制を確立させます。穀物法とは、輸入穀物に対して関税を課す政策であり、基本的には国内農業の保護を目的としたものです。同穀物法廃止については、教科書では、凡そ自由貿易主義の‘勝利’を決定づけた象徴的な出来事として説明されており、しばしば保護主義に対する自由貿易主義の優位性を実証したとも評されています。かのデヴィド・リカードも、穀物法の廃止を理論をもってして支えました。しかしながら、穀物法の廃止は、自由貿易主義の‘正しさ’を、事実によって証明したのでしょうか。この検証、今日の日本国における米の輸出拡大をめぐる議論を考えるに際して、極めて重要な判断材料を提供するのではないかと思うのです。

 穀物法の廃止が自由貿易の優位性を実証したとする主張が信じられてきたのは、穀物法の廃止後にあって、イギリス農業の‘黄金時代’が到来したからです。以下に、‘黄金時代’を迎えた幾つかの要因を挙げてみます。

 そもそも、イギリスでは、1760年から1840年にかけて第二次土地囲い込み運動が起きており、既に、農地の集約化が進んでいました。第一の要因は、土地の集約化です。この結果、同国の農業は、大土地所有者並びに大規模借地農業経営者によって担われる状況となり、穀物価格の高値安定、即ち穀物法による恩恵は、主としてこれらの人々に集中することとなったのです(このため、地主の利益を保護する方であったとも説明される・・・)。因みに、穀物法の廃止が実現したのも、珍しくも貿易自由化の徹底によって利益を得る‘産業資本家’と安価な穀物を求める都市‘労働者’の利害が一致したところにありました。

 第二の要因として、高度集約農業(ハイ・ファーミング)と呼ばれた新たな農法の普及があります。高度集約農業は、穀物法の撤廃を機に始まったわけではなく、1830年頃から既に姿を見せてはいたものの、その後、急速に全国に広がります。この農法は、ノーフォード農業とも称されるものであり、四輪作農業に畜産業を組み合わせた混合農業です。同農法を導入することで土地利用の効率化が図られ、収穫量も収益率もアップしたのです。

 第三に挙げられるのが、農地の排水事業の急速な拡大です。イギリスの農地は、所与の条件として排水に問題があり、この難点が収穫率を押し下げてきました。ところが、産業革命により工場生産方式が普及すると、排水事業に必要となる土管等も大量に生産・提供されるようになります。また、産業革命は、連鎖的に交通革命と農作業の機械化をもたらし、これらも輸送力並びに穀物生産の効率性を大幅に向上させたのです。もっとも、大規模な工事を要するため、排水事業には相当の設備投資を要します。土地の集約化も高度集約農業も同様ですので、これらの恩恵は、大土地所有者や経営規模の大きな農業事業者に限られ、中小規模の農家は廃業を余儀なくされてゆくのです。

 加えて、第4として外的要因を見れば、穀物法廃止後のイギリス農業は幸運にも恵まれています。ヨーロッパ諸国が不作であったことに加え、クリミア戦争(1853~56年)のために‘敵国ロシア’からの穀物輸入が途絶えます。また、アメリカもイギリスも、この時期には、太平洋を渡っての船舶による穀物輸出は高コストな状態にありました。何れの外的要因にあっても、イギリス農業に有利に働いたのです。

 しかしながら、この‘黄金時代’は永遠に続いたのでしょうか。仮に永遠に続いていたとしたら、貿易の例外なき完全なる自由化は、恐れるに足りないこととなりましょう。ところが、その後の展開を見ますと、そうとばかりは言えないことに気付かされるのです(つづく)。

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集約すべきは農地ではなく農業機械では?

2025年05月16日 09時39分55秒 | 日本政治
 異常なまでの米価高騰の中、日本国の農業は厳しい局面を迎えています。米価高騰の原因の一つとして、長期に亘る中小農家を護るための過度な保護政策が農家の国際競争力を削ぎ、農家の高齢化による離農を促進させたとする批判もあるからです。同批判は、‘日本米も国際競争力を持つべき’とする見解なのですが、この問題の解決策としては、農地の集約化並びに大規模経営に適した法人化等が挙げられています。しかしながら、農地集約と法人化の先を予測しますと、必ずしもこの方向性が望ましいのか、慎重に考えてみる必要がありそうです。

 日本国の農業が国際競争力を持たないのは、当然と言えば当然のことです。大規模経営に適した広大な平地に恵まれているわけもなく、地理的条件、地形条件、気候条件などからすれば、あらゆる面において日本国の農業は不利であるからです。もっとも、日本の農業が不利であるのはあくまでも‘国際比較’によるものです。それ故に、‘関税(国境)なき世界’を目指して自由貿易主義あるいはグローバリズムを追求してゆく限り、日本国は、同劣位性から逃れることはできない運命にあるとも言えましょう。

 不利を覚悟の上でも日本米の国際競争力を高めようとすれば、上述した農地の集約化とそれに付随する法人化に取り組まざるを得ないのでしょうが、同方針には、日本国の農業が、将来的にはプランテーション経営、あるいは、植民地化されるリスクがあります。何故ならば、大規模経営にあっては、農地の所有者が一人で広大な農地の耕作を行なうのは凡そ不可能ですので、否が応でも、農業従事者を雇用する必要があるからです。より安価でお米を生産しようとすれば、特定技能制度を用いれば、経営者は、外国人を雇うこともできます。否、自らが経営する農地ではないのですから、農業は、極少数の‘プランテーション経営者’になろうとする人を除いて、殆どの若者世代にとりましては魅力的な職業、あるいは、職場ではなくなることでしょう。小さな農地であっても、自らで経営するところに、農業の醍醐味があるとも考えられるからです(自らの努力が自らに還ってくる・・・)。

 また、法人化につきましても、現行の農地法では、‘議決権の過半数を農業者や農業関連団体が占める’とする農地取得要件は設けられているものの、日本人と外国人を区別していません。農業委員会による許可も、チャイナ・マネーが背後で動いたり、日本人名義で申請されれば、この関門もくぐる抜けることも決して不可能なことでもないようです。昨今、外国人の土地所有が問題視されていますが、その実体は、政府が公表している面積とは桁が違うという指摘もあり、名義が日本人であっても、実施的なオーナーが外国人であるケースもあり得るのです。さらには、株式会社の形態にあって株式が公開されていれば、‘米作銘柄’は投機の対象ともなりましょう。今般、大阪堂島商品取引所にて昨夏に開設された米の先物市場の問題が浮上しましたが、不作であるほど‘米作銘柄’に投機マネーが流入し、株価が上昇するという、一般の国民にとりましては由々しき事態も想定されるのです(作付けや流通にも影響・・・)。

 以上に述べてきましたように、そもそも無理筋の国際競争力の強化のために無理を押して大規模経営並びに法人化を推進することには疑問があります。そして、仮に、農業の経営や農家の所得を安定化し、収益性を高めるには、農地ではなく、農業機械の集約化を図るべきなのではないでしょうか。何故ならば、今日、農家の経営を苦しめているのは、従来では安すぎるとされる米価の水準のみではなく、高額の農機の購入にもあるからです(買い換えには1000万円程の支出を要し、しかも、耐用年数も短いとも・・・)。

 となりますと、農家に一台ではなく、複数の農家が共同で各種農業機械を保有する、あるいは、新たなに広域的なリースのシステムを開発した方、一件当たりの農家の負担を軽減することができます。市町村、あるいは各地区や地域が貸出制度を設ける方法もありましょうし、全国レベルで見れば田植えや収穫等の時期が南から北へと移る点を考慮しますと、より範囲の広い国レベルや地方レベル、もしくは、民間リース会社がサービスを提供するといった方法も考えられます。農業機械の買い換え時が離農の時期というお話しもありますので、高額に上る農業機械の問題の解決は、離農や耕作放棄地を抑制することにもなりましょう。

 農業保護につきましては、その選択する方向性によりまして、真逆とも言えるほどに状況が変わります。国際競争力の強化を最優先課題としてプランテーション型の農業を目指すよりも、一定の関税による保護の下で、小規模ながらも独立的な自営農家を維持・育成する方向への農政を選択した方が、国民が安心するとともに、農業に対する意欲も増すのではないかと思うのです。

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アメリカの‘相互関税’と中国の自由貿易主義の挟み撃ちに?

2025年05月15日 11時49分37秒 | 日本政治
 アメリカは、第二次世界大戦後に自らが率先して構築してきた自由貿易主義体制に別れを告げ、今日、相互関税主義の名の下で高率の関税を復活させています。自由貿易主義、あるいは、グローバリズムを全ての諸国に恩恵をもたらす互恵システムとする見方は既に破綻しており、弊害ばかりが目立つ現実を直視しますと、国家が関税自主権を取り戻したことは歓迎すべきこととも言えましょう。しかしながら、アメリカが言う相互関税主義とは、古典的な保護主義政策に留まるものではないようです。

 輸入品に対して関税率を高く設定する政策は、保護主義とも称されるように、基本的には、国際競争力を持つ外国製品に対して劣位する自国の産業を護ることを目的とします。もっとも、産業革命発祥の地であるイギリスを中心に自由貿易体制が広まった19世紀には、ドイツが自国産業のキャッチ・アップを目指して同政策を採用したため、幼稚産業の育成も、保護主義の目的とされることとなりました。これらの基本目的からしますと、今般のトランプ政権による高率関税の設定も、自国産業を保護育成するためと考えがちです。

 ところが、関税の復活と同時に、同政権は、海外諸国に対してアメリカに対する投資拡大を積極的に呼びかけています。‘投資’とは聞こえはよいものの、その本質においては自国産業の‘売却’をも意味しかねません。実際に、新日鉄によるUSスチールの買収計画にあっては、トランプ大統領は、大統領選挙戦の時からその阻止を主張してきましたので、実のところ、アクセルとブレーキを同時に踏んでいるようにも見えるのです。トランプ政権の政策が支離滅裂に見えて理解に苦しむのも、その方向性がなかなかつかめないからなのでしょう。

 もっとも、雲を掴むようなトランプ政権の政策も、徹底した自国利益の追求、並びに、お手軽な‘いいとこどり’であるとすれば、どことなくその輪郭が見えてきます。アメリカに対する投資についても、AIや半導体といった将来的な成長産業とみなされる分野であれは、テクノロジーにおける主導権を握るために海外からの投資を歓迎するものの、旧来型の産業における外資による買収については、アメリカ・ファーストのスタンスから‘お断り’なのでしょう。

 この視点からしますと、高関税率の設定も、自国産業の保護・育成というよりも、海外企業の製造拠点等をアメリカに移転させることが目的のように思えてきます。本日、日本国側が関税撤廃を求める日米交渉にあって、自動車の‘逆輸入案’が浮上しているとも報じられています。お手軽と称したのも、国民の意欲や意識を高め、国内にあって輸入品に代替する産業の幅広い振興や米企業の成長を促すよりも、海外から先端技術や効率的な生産方法と共に自国に製造拠点や研究拠点を移転させた方が簡単、かつ、短期的に成果が上がるからです。自動車の日本への逆輸入についても、同政策意図を想定すれば、アメリカの狙いは、国内において日本企業が新たに自動車組み立て工場を建設し、日本国内に置かれていた自動車部品の製造工場もアメリカ国内に移転させることにあるのでしょう。逆輸入が実現すれば、当然に、日本国内での自動車の製造台数は減らされ、中国移転で促進されてきた日本国の産業の空洞化はさらに深まります。あるいは、アメリカの政策は、中国から‘世界の工場’の地位を奪うことにあるのでしょうか。

 その一方で、目下、日本国民の生活を圧迫している米価高騰も、あるいは、アメリカの関税政策と関連している可能性もないわけではありません。日本国内の米価が昨夏から2倍に急騰したことで、高関税率を課してもアメリカからの輸入米は国産米に対して競争力を持つからです。上記の視点からすれば、お米の場合には、アメリカは、日本国に対して関税率の引き下げを求めないかも知れません。関税率が低下しますと、‘相互関税主義’の立場の建前においては、自動車を含む日本国からの工業製品に対する関税率を下げなければならなくなるからです。つまり、お米に対する高関税率が維持されつつ、日本国内の米価が高止まりの状況が、アメリカにとりまして最も利益となるのです。しかも、アメリカの農産物に対する関税は凡そ0%ですので、日本国のお米は、日本食ブームやグルテンフリーの流行も手伝って、アメリカにも輸出されるという本末転倒も起きているのです。

 自由貿易主義が主張する相互利益が幻想であったとしても、軌道転換として登場してきた‘相互関税主義’が望ましいとも限りません。実際に、日本国の経済を見ますと、工業製品も農産物も、そして、輸出も輸入も、自国の産業に不利な形で推移しています。このままですと、中国が推し進める‘自由貿易主義’とアメリカが推進する‘相互関税主義’による挟み撃ちにあう事態も想定されましょう(グローバリストによる追い込み作戦かも知れない・・・)。このように考えますと、別の道、すなわち、各国とも、関税政策を国内産業の保護・育成に努める方が、よほど賢明なように思えます。対米交渉に際しましても、押してダメなら引いてみてはいかがでしょうか。

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国民は不敬罪の復活を望んでいるのか?

2025年05月14日 11時57分39秒 | 日本政治
 大阪万博で催された着物ショーにおいて「絶対禁色」とされた黄櫨染御袍が着用された件については、少なくともSNSやYAHOOニュースのコメント欄では、圧倒的に主催者側を批判する声で溢れているようです。基本的には、‘伝統を無視した不敬な行為であった’という批判であり、同ショーを主催した「京都きもの学院」が謝罪する事態ともなりました。

 しかしながら、既に識者も指摘しているように、黄櫨染御袍はお雛様のお内裏様も着用しており、おそらく映画やテレビの時代劇などでも天皇役を演じる俳優の方々も身にまとっていたことでしょう。また、色としては「赤みの暗い灰黄赤」、すなわち、薄い焦げ茶のような色ですので、一般の人々もそれとは気付かずに同色の衣服を着ているかもしれません。しかも、あくまでも日本の伝統の紹介を目的としたショーでのことであり、‘天皇’を偽装しり、自称したわけでもないのです。これまで「絶対禁色」が問題視されたことは一切なく、今に至って騒動が起きたことには、何らかの意図が推測されます。

 SNSやネットには世論誘導を目的とした‘書き込み隊’が存在していることは既に知られており、‘SNSやネットで話題沸騰’といった表現には注意を要します。本騒動につきましても、世論誘導の疑いも否定はできないのですが、仮に、世論誘導工作の一環であるとしますと、おそらくそれは、権威主義体制への道を敷くことにあるのでしょう。それは、天皇を頂点とする戦前の明治憲法体制への回帰であり、そのためには、「絶対権威」としての天皇を復活させる必要があるからです。

 そして、‘不敬’という言葉が多々見られるのも、国民に対する一種の心理的効果を期待しているとも推測されます。‘権威’を作り出す手法として昔からよく知られているのは、公衆の前で‘権威者とそれに平伏する臣民’という‘劇’を演じて見せることです(シェークスピアの作品にも登場・・・)。民衆の中に配置された一群が、権威者に対して恭しく敬服し、礼賛する様子を目の前にしますと、これを見た周囲の人々にその態度が伝播してしまうのです(集団的における同調性については実験などで確認されている・・・)。現代にありましては、SNSやネットが、こうした国民の心理操作を行なうには絶好の場を提供しているとも言えましょう。作為的に流れを造り出せば、瞬く間にユーザーや閲覧者の間に広がってゆくからです。

 それでは、今般の一件を不敬として批判する人々は、将来の日本国をどのような国にしたいのでしょうか(もちろん、報酬をもって雇われている人々であるのかもしれない・・・)。上述しましたように、それが明治憲法下における権威体制の回帰であるとしますと、どれほどの国民がこの方向性に賛同するのでしょうか。権威主義体制とは、国民にとりましては極めて窮屈であり、心の安まることのない体制です。社会全体の同調圧力が強く、いつ何時、不敬として批判を浴びるかわからないからです。とりわけ不敬罪などが設けられていますと、政治犯という忌まわしい存在も復活します。黄櫨染が「絶対禁色」であれば、同様の色の服装をしただけで、不敬であるとして罪を問われるかもしれません。不敬罪が適用される言動の範囲が不明瞭であれば、些細な事でも罰せられるかも知れないのです。最悪の場合には、憲法第一条に関する議論や万世一系ともされる皇統に対する疑義、歴史研究、そして、皇族に対する批判的な意見も‘不敬’の一言で封じられてしまうことでしょう。今般、不敬として騒ぎ立てる人々は、虎の衣を借る狐のように、自らは国民を‘取り締まる立場’になると信じているとしか考えられないのです。

 将来の日本国の姿が権威主義体制でよいのか、この問いかけは、全国民に関わる重大な問題です。近年の頓にマスメディアの皇室報道が北朝鮮風味を増す折、‘不敬’という言葉が登場したときには、国民は、安易に迎合するよりも、むしろ警戒すべきではないかと思うのです。

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‘黄櫨染騒動’は世論誘導?-権威主義体制への道

2025年05月13日 10時12分37秒 | 日本政治
 大阪の夢州にて開催されている2025年日本国際博覧会は、‘万博’と称されるだけあって、世界各国の文化や伝統等に触れることができるイベントでもあります。もちろん、主催国である日本国の文化・伝統も紹介されるのですが、今般、一つの騒動が持ち上がったようです。それは、京都きもの学院が主催した「着物ショー」において、晴れの儀式に天皇が着用する黄櫨染御袍が登場したことから、主催者側が謝罪に追い込まれる事態の発生です。この騒動、いささか不自然であり、かつ、‘危うさ’を感じさせるのです。

 同記事は、ニュースサイトの「ねとらぼ」に掲載されたものであり、YAHOOニュースにもアップされています。5月13日朝の時点では、「ねとらぼ」ではアクセス・ランキングが一位であり、YAHOOニュースの記事にも多数のコメントが寄せられておりますので、関心の高さが伺えます。YAHOOのコメント欄を読みますと、その大多数が主催者を批判する声で溢れています。‘主催者側の着物の伝統文化軽視を問題視するコメント’に3万以上、主催者に対して‘天皇に対する不敬を責めるコメント’に1万以上の‘共感した’のクリックを集めており、世論は圧倒的に主催者批判に傾いているようです。この‘共感’の数字が世論を比較的正確に反映させているとすれば、本記事は、極めて少数派の意見と言うことになりましょう。しかしながら、早急に判断するよりも、この世論の流れのゆく先を見極める必要があるように思えます。そもそも、上記の二つのコメントには、幾つかの問題点があるからです。

 第一に、黄櫨染は日本国の伝統とする見解には疑問があります。黄櫨染とは、「櫨の木の黄の下染めに蘇芳又は紫根を上掛けした黄褐色」、即ち、赤みの暗い灰黄赤です。同色は、弘仁十(820)年に天皇が公式の儀式において天皇が着用するものと定められたため、以後、「絶対禁色」とされました。天皇以外の誰もがこの色を用いてはならず、それ故に、‘絶対禁色’と表現されたのです。

 ところが、この黄櫨染、日本国の伝統なのか、と申しますと、そうではないようです。弘仁十年とは嵯峨天皇の時代であり、律令制の下で検非違使の設置や一種の‘国勢調査’など国制の整備が進められた時代でもあります。律令制には中国の影響が色濃く見られるのですが、黄櫨染も、「中国の隋から唐代に帝王の袍色とされた黄がかった「赭黄」に倣ったもので、この色は天位の象徴として、盛夏の太陽の輝きをあらわしたもの(『日本の傳統色』、青幻舎より)」とされているのです」。

 随も唐も西域の遊牧系民族による征服王朝ですので(隋は西戎、唐は鮮卑・・・)、漢民族の伝統とはいえないものの、清朝に至るまで、中国の歴代王朝の皇帝は黄色を基調とする袍(長衣)をまとっていますので、黄櫨染とは、中国の仕来りが日本国に伝わって採用されたものであり、たとえ1000年を越える朝廷の習わしであったとしても、日本国の伝統とも言い切れない側面があります。この点、上記の第一のコメントは、黄櫨染の歴史を無視しているとも言えましょう。今日、中国人の移住者が増加し、チャイナ・マネーが政界をも浸食する中、降って湧いたような伝統を楯に取った‘黄櫨染騒動’は、むしろ、‘中国の伝統尊重要求’にも聞えてくるのです。

 第二に、伝統とは、それがたとえ遠い過去から伝わるものであっても、必ずしも後世に残すべきとは限りません。身分によって服装の色を定めるとする制度自体、現代という時代に適しているとは思えないのです。黄櫨染を‘絶対禁色’とするのは最上位の身分に対する規程ですが(今日では法的根拠は失われている・・・)、身分制社会にあっては、最下層とされた身分の人々に対しても衣服の色を定めた歴史があります。身分に即して色を限定するという発想自体が、どこか理性や良心に痛みを感じさせるのです。なお、国民が自由に色を選べないとしますと、これは「表現の自由」を保障する憲法の条文にも反するかもしれなせん。

 実写版『白雪姫』は中世を舞台としたファンタジーの世界に現代の価値を強引に引き入れたことで興行としては赤字に終わりそうなのですが、黄櫨染騒動は、逆方向のクロスによって現代に生きる人々に脅威を与えているように思えます。つまり、過去の悪弊や制度が伝統の名を借りて復活してしまうという問題です。着物ショーにおける黄櫨染の着用を不敬とする批判も、まさしくこの問題として理解されましょう(不敬罪の復活・・・)。現代に生きる人々にとりまして大切なことは、将来に向けて残すべき伝統と、残さざるべき伝統を見分けることのように思うのです。

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自由主義国の国民が‘自由’ではなくなる理由

2025年05月12日 11時49分23秒 | 統治制度論
 今日、多くの諸国にあって、国民に対して幅広い自由が保障されています。政治の領域にありましても、言論の自由は、自由な意見表明や政策議論を許すという意味において、国民の政治的自由を支えています。民主主義国家における参政権は、国民の政治的自由の証でもあります。自由主義国に住む国民の多くは、‘自分達は自由である’とする自己認識の下で生きていると言えましょう。

 しかしながら、自由主義国の国民は、本当に自由なのでしょうか。この問いかけに対しては、‘何を今更言っているのか’というお叱りの声もあるかもしれません。ところが、この問いに対して、鋭い指摘を試みた人物がおります。その人物こそ、またもや18世紀フランスの思想家、モンテスキューなのです。それでは、モンテスキューは、どのように述べているのでしょうか。以下に引用しますと・・・

「極端に絶対的な君主政の国々においては、歴史家は真理を裏切る。なぜなら、彼らはそれを述べる自由をもっていないからである。極めて自由な国家において、歴史家はその有する自由そのもののゆえに真理を裏切る。この自由は、常に分裂を生み出すので、各人は、専制君主の奴隷となると同じほどに、自己の党派の偏見の奴隷となるのである。(『法の精神』第3部第19編第27章、岩波文庫版より引用)」

・・・となります。言論が厳しく統制されている専制君主国家や全体主義国家にあって国民には自由がないことには誰もが納得します。現代という時代にあっても、共産主義国家の国民には、喩え明白なる事実であったとしても、それを語る自由はありません。このため、非専制国家=自由な国とするイメージを持ちやすいのですが、‘逆は必ずしも真ならず’という諺がありますように、逆パターンが常に事実を言い当てているわけではありません。モンテスキューは、自由主義国家にあっても、専制主義国家と負けず劣らず国民が自由を失うことがあることを、鋭く見抜いているのです。

 自由主義国の国民が自由を失うとき、それは、上記のモンテスキューの言葉を借りれば、‘党派の偏見の奴隷となるとき’となります。確かに、自由であるからこそ、世界観、国家観、価値観、思想・宗教的信条、自らの置かれている立場、あるいは利害関係等など、様々な軸において人々の意見や見解は分かれるものです。自由は、それ自体が分裂要因となり、党派が形成される下地となり得るのです。もちろん、全ての人が必ずしもいずれかの党派に属して相争うわけではないのですが、学校の教室から職場に至るまで、いたるところで党派やグループ間の争いは散見されます。心の中ではライバル側の意見や見解に賛同していたとしても、ライバル側に対する偏見や敵対心、あるいは、自らの属するグループに対する仲間意識や忠誠心から、本心を偽ることも珍しくはないのです。この結果、党派心は人々の理性や判断力を歪め、自らの所属する党派の言いなりがちとなるのです。

 この党派性がもたらす不自由もしくは拘束性は、政治分野を見ればその深刻さが理解されます。今日にあって、国民の政治的自由は、何れかの政党を支持する形でしか表現されないという現実があるからです。選挙において掲げられる政党の公約はワンセットとなっていますので、不支持の政策が混じっていたとしても支持政党やその候補者に投票せざるを得ません。さらに所謂‘組織票’ともなりますと、組織のメンバーは、所属先の組織の文字通りの‘奴隷’ともなりかねません。事実上、選挙権の行使者は‘組織’のトップ、すなわち、‘奴隷主’であるとする見立てもできるからです。

 この党派性に起因する不自由さがさらに悪用されますと、グローバリストによる二頭作戦や多頭作戦にも使われてしまいます。右派政党の公約にも左派政党の公約にも自らが望む政策を忍び込ませる一方で国民の望む政策を排除すれば、何れの政党を選択しても‘結果は同じ’となるからです。メディア等を介して政党間の対立が煽られるため、国民は、党派心からいずれかの政党に投票するように追い込まれてしまうのです。日本国にありましても、今日、保守政党の看板に偽りでありとして自民党が信頼を失い、その一方で、働く人々を護るはずの野党側が国民に冷淡で浮遊感があるのも、実のところ、政界全体がグローバリストによって国民の党派心がコントロールされているからかも知れません。

 18世紀の啓蒙思想家の多くはモンテスキューを含めて貴族や地主であったり、思索に時間を費やすことができる富者であったりするため、有閑者の戯れ言として批判的に受け止めたり、感情的に反発する人も少なくありません。しかしながら、この否定的な見解もまた、党派的な偏見とも言えましょう。知的探求には、十分な教育環境、並びに、時間や経済的な余裕を要するものですので、18世紀という時代を考慮しますと、致し方ない側面があります。古代ギリシャのポリスが名だたる哲学者や科学者等を輩出したのも、忌まわしき奴隷制あってのことでした。今日では、誰もが教育を受ける機会を持ち、労働法によって休暇が保障され、また、研究者という職業も成立しております。多くの人々に知的探求の道が広く開かれており、恵まれた時代を生きていると言えましょう。過去の歴史にあっては限られた少数者であったとしても、善き国家の在り方について考え抜いた人々の書物の随所には、現代に生きる人々をも救う叡智を読み取ることができるのではないかと思うのです。

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