こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

キリストの聖体(ヨハネ6:51-58)イエスが求める姿に造り変えられるのを受け入れますか

2023-06-10 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2023/6/11(No.1241)
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キリストの聖体(ヨハネ6:51-58)
イエスが求める姿に造り変えられるのを受け入れますか
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キリストの聖体の祭日を迎えました。聖体を拝領することが何よりイエスが残された愛の記念に応える方法ですが、他にも聖体礼拝の時間を取って聖体に対する信仰を深めることもできます。個人的に聖体訪問をすることも、一日のふさわしい過ごし方です。今年は具体的な計画を考えておりませんでしたが、何が可能か考えてみたいと思います。

聖体は、ご承知の通り教会が保ち続けている七つの秘跡の一つです。「洗礼・堅信・聖体・罪の赦し・病者の塗油・叙階・婚姻」教会はこの七つの秘跡を通して、人生の始まりから終わりまで、信仰生活を豊かに過ごすことができるように配慮しています。

七つの秘跡は教会での要理教育でしっかり学んだことでしょう。小学生の時代にも学ぶ機会がありますが、やはり堅信組の時期に、暗記だけではなく理解させて、覚えてきたはずです。神の子供として生き始める洗礼の恵みに始まって、命の危険にさしかかったときに受ける病者の塗油まで、「人生の折々の場面に、恵みが受けられる」そのことを理解して、堅信組には覚えてもらうようにしていました。

そんな、ある教会の堅信組の出来事です。七つの秘跡を教えて、七つとも覚えたら中田神父の前で口頭で答えを確認します。一人の子が「洗礼・堅信・罪の赦し・病者の塗油・叙階・婚姻」とすらすら並べました。指を折って答えたのですが一つ足りません。聖体の秘跡を言い忘れたのです。もう一度言ってもらいましたが、なぜか「聖体の秘跡」を飛ばしてしまいます。

そこでヒントを出しました。「出血大サービス。これ以上のヒントは言えないからね。『キリストの御体』。」何と答えたと思いますか?そう言ったら堅信組のその子は「アーメン」と答えました。私は子どもの教育、指導にはあまり向いてないのかも知れません。

主イエスは、私たちにご自分の肉をパンとして食べることができるように与えてくださいました。御聖体は遠くから拝むものではなく、「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」(6・51)と約束してくださる食べものです。ミサの中で「みな、これを取って食べなさい」と唱えているのは単なる儀式ではなく、イエスが「わたしの体を食べなさい」と招く部分です。

パンとぶどう酒の形で、イエスはご自身を与えることをお望みになりました。食べもの・飲み物は、人が食すと完全に姿を無くします。形あるものは有限のものです。「永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」その食べ物は、形にとらわれない、形の向こうにあるものとなって私たちを養い、永遠の命と復活の希望を与えるのです。

中田神父は最近しみじみと思うのです。私たちの周りでは、たくさんの出来事が立派に行われます。特に記念行事は、長い期間準備してその日を迎えます。その中で、名前が残る人はごく僅かです。けれども、名前が全く残らない人たちの奉仕や努力がなければ、その記念行事は果たして成功しただろうかと。形も、名前も、何も残さず、自分を無にして協力してくれた人たちの働きが、何倍も尊いのではないか。そんなことをしみじみと思うのです。

キリストの聖体も、私たちが拝領すれば形は完全に無くなります。聖体の秘跡を残されたイエスは、自分を無にして、誰も与えることのできない尊いものを与えようと考えたのです。何も残さず与えるからこそ、尊い恵みなのではないでしょうか。

パウロは、イエスが私たちのためにおいでくださったことをフィリピの信徒への手紙の中でこう言っています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」(フィリピ2・6-7)ご自身を無にしたことが、誰も与えることのできない「まことの食べ物」「まことの飲み物」を与える源となりました。

幸いにも私たちは、キリストの聖体の恵みをしばしば受けることができます。時間と都合がゆるせば、毎日でもミサに参加して聖体をいただくことができます。ところで聖体拝領をすることは、何かが増えることなのでしょうか。買い物に行ってポイントがたまって、たくさん増えたら先で買い物に使える。聖体拝領にあずかることって、そういうものでしょうか?

私は、むしろ日々自分を謙虚にする、自分の名前や功績を何も残さない、その積み重ねをさせてくれる恵みなのではないかと思っています。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」(6・56)このイエス様は聖体拝領のたびにご自身に似る者となるように、造り変えてくださるのです。

食べられ、飲み干され、完全に姿がなくなる。キリストの聖体の有様が私たちをイエスに似る者となるように招いています。名前を残したい気持ちも少なからずあるでしょう。この仕事はこの人のおかげと語り継がれたい気持ちもどこかにあるでしょう。

しかし聖体の恵みは、私たちをこの世が欲しがるものには向かわせないのです。それでもあなたは、今日聖体を拝領したいですか?一人ひとり、問われています。

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‥次の説教は‥‥
年間第11主日(マタイ9:36-10:8)
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ちょっとひとやすみ
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▼近いうちにこのネタを声に出して言うかも知れない。本当に小さな、小さな巡回教会を、休暇の曜日にしている水曜日に訪ねた。その巡回教会を管轄する本教会が内堂拝観できなかったのでここもそうかなと思いつつサッシに手を掛けたらすんなり開いた。
▼さらに中の木製扉を開けると、20人座れるだろうかどうか、という小さな聖堂だった。この日は「毎日のミサ」の6月18日「年間第11主日」の頁を開き、思い巡らしながらしばらくお祈りをした。本当に静かな、祈りのひととき。
▼しばらくして、軽自動車の音が聞こえたかと思ったら、サッシの戸を開ける音がする。おそらくこの巡回教会の信徒、ふだん管理を任されている人かも知れない。おひげの、小柄ではあるが私よりもはるかに存在感のあるおじさんだった。
▼「暗くなかね?」「はい。大丈夫です。」「だいやろかと思うて。ビックリしたよ。」「どうもすみません。」ドラッグスターで乗り付けて、赤いチェックのシャツのおっさんでは、怪しまれても仕方がない。まだ私の存在感はかげろうのようなものだ。

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今週の1枚
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第848回目。初めてたどり着いた教会。ここで深く祈りと黙想ができた。

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† 神に感謝 †
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