こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第6主日(マタイ5:17-37)わたしが来たのはあなたを完成させるため

2020-02-15 | Weblog
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http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/200216.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
2020/2/16(No.1047)
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年間第6主日(マタイ5:17-37)
わたしが来たのはあなたを完成させるため
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「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(5・17)今日、中学2年生5人が紐差教会で堅信の秘跡を受けます。福音の学びを、堅信を受ける中学生たちへの励ましの言葉につなげたいと思います。

最初に引用した5章17節の箇所は、今回は短い形の朗読を選びましたので朗読されませんでした。けれどもここが、今週の朗読全体の要になっていると思ったので、説明をしたいと思います。「わたしが来たのは」とマタイ福音書の中でイエスが念を押す時、それは当時のユダヤ人たちの誤解を解くために語り始める場合です。四回登場します。

一つは今週の朗読箇所5章17節です。次に9章13節「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」三つ目は10章34節「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」最後は20章28節「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」どれも、当時の宗教指導者たちの考えを正すため、イエスが来た目的を理解させるためでした。

5章17節「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」もこの流れに沿って考える必要があります。宗教指導者たちは「この人は律法をないがしろにする不信仰者だ」と攻撃する材料になり得ますし、マタイ福音書が読まれていた初代教会の信者たちの中には「イエスの言葉によって律法は廃棄された」と受け取った人々もいました。これら両方の誤解を解く必要があったのです。

イエスは律法を完成するために来ました。人々にとって重荷とさえ感じていた律法は、命を吹き込まれて神の人間に対する思いやりを感じるものに生まれ変わらせる必要があったのです。バラバラで、どれ一つとっても喜びを感じられなかった律法は、「神への愛」と「隣人への愛」という一本の糸に結ばれて命が吹き込まれたのです。神は律法を通して、人間への溢れる愛を示そうとされた。イエスはそれを示したかったのです。

田平教会はレンガ造りの教会です。中田神父は偶然にもレンガ造りの教会に幼い時から親しんで育ちました。生まれ故郷の鯛ノ浦教会、今は旧聖堂となった教会堂は、正面が田平教会と同じ一つの塔の付いた構えをしていました。ただ幼かった私は、友達と一緒にこのレンガの塔のどこまで野球のボールを当てることができるか競ったりして、壁代わりにしていたのです。

上五島にはもう一つ青砂ヶ浦教会というレンガ造りの教会があります。親戚周りをする関係でこちらにも時々お邪魔して、同じようにボール遊びをしていたら、知らないおじさんからこっぴどく叱られました。「なして怒るとやろうか?」そう思ったのでした。時が経ち、私は中学校から小神学校に入り、堅信の秘跡を受けました。堅信を受けてから故郷の鯛ノ浦教会のレンガの教会、青砂ヶ浦の教会を見た時に、「あっ!」と思ったのです。「このレンガの教会を造った人たちは、どんな思いをして造っただろうか。私はその教会の壁をボール投げの壁代わりにして、叱られて当然だ。」

小学生の私にとって、レンガ造りの教会に、どんな苦労が詰まっているか、知るよしもありませんでした。けれども堅信の秘跡を受けたことで、二つの教会のレンガは、神様を敬う心という一本の糸で繋がったのでした。堅信の秘跡が注いでくれる「神への畏敬の念」が、レンガ造りの教会の見えない苦労や汗を、理解させてくれたのです。

イエスは律法を完成するために来ました。しかし律法を完成させるだけであれば、神の独り子がおいでにならなくても良かったかも知れません。御父の計画は、イエスによって律法に命を吹き込むにとどまらず、この律法はイエスご自身の生き方の中で完成したと示すことだったのです。神が人を愛しているから、律法があるのだよと伝えるだけでなく、神が人を愛しているから、必要とあれば人間のために神は独り子を十字架の上で献げることもためらわない。十字架のいけにえによって掟は完成したと示すのです。

私たちは堅信の秘跡を受けています。今日新しく5人が堅信の秘跡を受けます。天主の十戒も教会の掟も、守るべき祝日も知っています。イエスは堅信を受けた人に、「あなたはそこまでで十分完成した」と仰るでしょうか。私は違うと思います。掟を忠実に守るだけでなく、神の掟のために、ときには命を張ることも必要になるのです。「命に手をかけてはいけない。私はこの命を、生涯かけて守る。」こんな勇気を、イエスは堅信を受けた人皆に求めるのです。

教皇フランシスコは「すべての命を守るために」日本においでになりました。堅信の秘跡を受けた今こそ、「自分も、すべての命を守る。そのためには必要だったら命を張って守る」そんな決意を持って欲しいと思います。イエスは十字架の上で、すべての律法を完成させてくださいました。堅信を受ける皆さんをも、イエスは十字架上から招き、完成させてくださいます。完成されたキリスト者に近づくため、今日の堅信の秘跡を大きな希望をもって受けることにしましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第7主日(マタイ5:38-48)
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ちょっとひとやすみ
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▼堅信組の筆記試験で珍回答があった。「○○○○補佐司教」という空欄に、選択肢の中に混ぜておいた「トマス中田輝次」を堂々と記入していた。後で考えてみたのだが、「パンチの効いたジョーク」だったのかもしれない。いくら何でも「補佐司教」の空欄に大真面目で主任司祭の名前を書かないだろう。そうだとしたら、肝が据わっているぞ。
▼「明治は遠くなりにけり。」昔こんな言葉を聞いたことがある。私にとっては「バレンタインは遠くなりにけり」となるだろうか。浦上教会の時はミカン箱を二つ用意して、お返しも150個とか、洋菓子店に頼みに行くのもちょっとしたイベントだった。今年はゼロか?と思いきや、土曜日15日に急展開となった。
▼ちなみにゼロでなかったことは念を押して言っておく。その上さらに、15日には引退した神父様が訪ねてこられ、「チョコレートよ(笑)」と言って箱を渡された。透明のフィルムに入っていたのですぐに物は分かった。まさかまさか、大先輩が「バレンタインプレゼント」を用意してくれていたのである。
▼志を同じくする者は、必要としているものも言わなくても理解できる。私がネット通販で「これ欲しいなぁ。でも買うほどでもないかなぁ」と思っていた部類の商品を、引退神父様が気前よく買ってくれた。まったく同じメーカー、シリーズのものではないが、「この手の品物があったらなぁ」と思っていたまさにそれを買ってくれていたのだ。
▼大先輩も今年は「ダイヤモンド祝」の年。何と言っても私に鯛ノ浦教会で洗礼を授けてくださった神父様だ。たとえ説教の準備で頭抱えている真っ最中でも、たとえ今日の面会人が何人も重なっていたとしても、たとえ「話しが長くなると時間が・・・」と頭をよぎったとしても、そんなことは問題ではない。

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今週の1枚
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第654回目。据え置き型の高級品は私の腕前に似合わないが、欲しかった品。

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† 神に感謝 †
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