こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第31主日(マタイ23:1-12)まったく違うところで、願うものを探しなさい

2017-11-04 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2017/11/5(No.911)
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年間第31主日
(マタイ23:1-12)
まったく違うところで、願うものを探しなさい
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典礼の年間の季節も押し迫ってくる第31主日に、鯛之浦教会へお招きいただいて銀祝の記念ミサをささげることができました。感謝申し上げます。ひょっとしたら25周年を迎えられるかもしれないとは思っていましたが、まだ遠い先の話と高を括っておりましたらその日はあっという間に来ました。これからという神父様方にはくれぐれも、遠い話ではないということを念押ししておきたいと思います。

さて今日皆さんにお伝えしたいことは、「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕えるものになりなさい」(23・11)ということです。わたしたちの一般常識で、いちばん偉い人はどこにいるのでしょうか。いちばん偉い人は、椅子に座っているかもしれません。「社長の椅子」「総理大臣の椅子」などです。成績がいちばんの人を昔は「首席」と言っていました。これも椅子みたいなものです。だいたいは、いちばん偉い人は椅子に座っているようです。

ではイエス様が示した「いちばん偉い人」はどこにいるのでしょうか。その人は「仕えるもの」の中にいると言います。誰かに仕える人は、椅子になんか座っている暇はありません。汗を流し、せっせと働いているはずです。イエス様が示す「いちばん偉い人」は、一般常識に当てはまりません。

これを簡単に言うと、イエス様が示す「いちばん偉い人」は、「常識とまったく違うところで探さなければならない」ということです。お金持ち、人並みの生活、有名人、なりたい職業のトップ10、こんな常識とはまったく違う場所を探さなければ、イエス様が言う「いちばん偉い人」にはなれないのです。

最近韓国語を勉強しています。ある文法規則を「実に面白い」と思いました。故郷のおじいちゃんおばあちゃんが昔言っていた言葉を、韓国語の文法表現の中に見つけたのです。わたしのおじいちゃんおばあちゃんは、「うわ~」と言いたいときに「あよ~」と言っていました。「そう、その通り」と言いたいときに、「およ~」と言っていました。けれども、おじいちゃんおばあちゃんが使っていた「あよ~」「およ~」という言葉、今は誰も使っていません。せいぜい、「そんな言葉使っていたなぁ、懐かしいなぁ」くらいです。

ところが。韓国ではおじいちゃんおばあちゃんどころか、最先端の若い人たちも「あよ~」「およ~」と言っていることを発見したのです。例を挙げると、「良い」を韓国語で「チョッタ」と言いますが、日常会話では「チョアヨ」と言います。「美味しい」は「マシッタ」ですが、実際の会話では「マシッソヨ」と言います。五月の連休に韓国一人旅をしてきましたが、今どきの若者たちが「アヨ」「オヨ」「アヨ」「オヨ」と繰り返していたのに唖然としたのです。その光景にわたしは思わず「あよ~」と言いました。

もちろん使い方には違いがあります。けれども「アヨ」「オヨ」活用を反復練習しているうち、幼い頃のおじいちゃんおばあちゃんと結びつき、何十年もあとにまったく違う場面で再会して、あーこれは11月5日に使える!と直感したのです。そこまで閃いたので、おかしかったのです。

もはや「死語」とも言える「あよ~」「およ~」に、まったく違う場所で再会した。これは、わたしたちの人生にも当てはまるのではないでしょうか。ここにいる子供たち、若い人たちがもし「いちばん偉い人」を目指しているとしたら、一般常識の中ではおそらくたどり着けないでしょう。

「社長の椅子」「総理大臣の椅子」「首席」またはお金持ち、人並みの生活、有名人、なりたい職業のトップ10など。ほとんど当てが外れて、悲しい思いをすると思います。わたしはそんな思いを皆さんにしてほしくないのです。

むしろ、まったく違う場所に、目指している「いちばん偉い人」はあるのです。想像したこともない、まったく違う場所で探すときにはじめて、あなたが求めていた「いちばん偉い人」を見つけると思います。もうすぐ話は終わりに近づきますが、ここにいる皆さんが、考えたこともない、想像もつかない、まったく違う場所とはどこでしょうか。最後にその場所を示して終わりたいと思います。

鯛之浦教会に集まっている皆さんは、もうすでに見ています。中田神父が立つこの祭壇です。誰も思いつかなかったでしょう。だれもが思いつきそうな場所では、イエスが言う「いちばん偉い人」にはなれません。むしろまったく予想しない場所、ミサをささげているこの祭壇がその答えです。ここに立つためには何が必要でしょうか。そうです。「司祭になる」ということです。ここに、イエスが招く「いちばん偉い人」の椅子があります。

これからの時代、よくできたロボットが作り出されて、ほとんどの仕事がロボットの仕事になるでしょう。今まで目指していた「いちばん偉い人」はほとんどロボットに取られてしまうでしょう。でも大丈夫。ロボットにはミサをささげることができません。動作は完ぺきに身につけるかもしれない。けれども教会はロボットに資格を与えないのです。

医者は手術をします。しかし将来ロボットが、医者よりも正確に手術ができるようになるでしょう。すると医者でさえもロボットの仕事になると思います。国は、ロボットに手術を許可する時代が来るでしょう。そんな時代がやってきても大丈夫、教会はロボットにミサをささげることを許可しません。

考えもしなかった場所に、「いちばん偉い人」の姿があります。この祭壇はその一つです。この祭壇を含め、「司祭職を生きること」ここならイエスが教える「いちばん偉い人」を見つけることができます。わたしが次にあいさつするのは25年後です。その時にはここにいる人は誰もいません。したがってこれは皆さんへの「最後の授業」です。

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‥次の説教は‥‥
年間第32主日
(マタイ25:1-13)
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ちょっとひとやすみ
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▼メチャメチャうれしい出来事があった。お父さんたちの月例の集まり「木曜会」で、前日に行われた葬儀ミサについて感想を述べている場面での一コマ。この葬儀で送られていくおじいちゃんの孫にあたる若い司祭がわたしと一緒に葬儀ミサをささげてくださり、説教と告別式を引き受けてくれていた。
▼木曜会の参加者たちが「初めて見る参列者の数だった」とか「盛大な葬儀だった」という声のほかに、「孫にあたる2年目の神父さんに比べ、主任司祭は落ち着きも風格も違ったね。」「そりゃそうだろうよ。25年も司祭の務めを果たしてきたわけだから。」涙が出るほど嬉しいじゃありませんか。
▼やはり司祭を育てるのは信徒だとつくづく思った。このお父さんたちに納得してもらうような説教をするところまで来るのに、25年も育ててもらっていたわけだ。加えて言えば、「褒めて育てよ」ということか。
▼25年前のことを思い出す。主任司祭の説教は易しい言葉しか使われていない説教で、「簡単な説教をするなぁ」と思っていたが、あの易しい言葉に説教を落とし込むためには、長い経験に裏打ちされていなければならなかったのだと。
▼一生懸命説教しても、届いているのはごくわずかだ。力の抜けた、見た目には雑談でもしているような話し方の説教でなければ、信徒の心の底まで落ちていくことはないのだと25年たってみてつくづく思うのである。

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今週の1枚
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第518回目。チャンスがあれば、鯛之浦教会銀祝ミサ祝賀会の様子。ないかも。

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コメント (2)
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