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こうじ神父
「今週の説教」
2017/11/12(No.912)
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年間第32主日
(マタイ25:1-13)
あなたの「最後の授業」を聞かせてください
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本日「黒瀬の辻殉教祭」が午後2時から予定されています。説教師はわたしなので、田平教会での説教も大枠は「黒瀬の辻殉教祭」の説教を使わせていただきます。
世界中でブームになっている授業があります。「最後の授業」というものです。「引退を迎えた教授が、お別れの日におこなった授業」ではありません。現役バリバリの教授が、「もし余命数日の宣告が下されたら?」というような設定で、すべてを賭けておこなう授業のことです。
最初にこの授業をおこなったのは、余命半年のがん宣告を医師から受けたランディ・パウシュという教授でした。彼は余命半年でありながら、希望に満ちた、エネルギッシュな授業を展開したのです。死にゆく人のメッセージではなく、聞く人にやる気を起こさせる授業でした。
先に「黒瀬の辻殉教祭」の案内をしました。この殉教祭は言わば「福者西家族を思い起こし、物語るためのミサ」です。わたしはこの説教を考える準備として、黒瀬の辻で殉教した西家族について、殉教から400年を迎えた2009年に山田教会で発行された「生月の殉教者・福者ガスパル西玄可とその家族」という青い冊子を注意深く読みました。冊子を読んだ上で、400年前を振り返るだけでなく、出来事を今どうやって生きたらよいかを付け加えて話してみたいと思いました。
冊子を読んでわたしが考えたことは、西玄可とその家族は、決してこの世を捨てて、この世に背を向けて生きていたのではないということです。時代はキリシタンにとって完全な逆風だけれども、正面から逆風に立ち向かって生き続けた人たちです。「この世に興味がないから、命を取り上げるのであればどうぞ。」そんな生き方を選んだのではありません。誠実に日々を生きて、生き方を曲げることなく貫いたのです。
わたしは、西玄可とその家族の最後の日々は、彼らが日頃から用意していた「最後の授業」だったのだと思っています。「どうせもう死ぬから、これだけは言っておこう」という気持ちで立てた証ではなくて、命に満ち満ちた、花が満開に咲いた状態で、すべてを賭けておこなった授業だったと思っています。
当時ほとんどの人が、西家族の「最後の授業」を理解しませんでした。救い主イエス・キリストのために命をささげることが、命を投げ捨てることのように思えたからです。本当は理解できたはずなのですが、伝統やしきたり、面子など自分を縛っているものから解放されるのを怖がっていたのかもしれません。
殉教祭の参加者は違います。黒瀬の辻に集まってくださるということは、西家族の「最後の授業」をもう一度聞きたい、そう思って集まるはずです。もしそうでなければ、ほかにすることはいくらでもあったはずです。それらをなげうって殉教祭に集まってくれる。西家族の「最後の授業」に価値を見つけたからです。同じ時間に放送されているテレビ、ラジオよりも、聞く価値があると考えたからここに集まっているのです。
ランディ・パウシュの「最後の授業」を受けた人たちはどうなったのでしょうか。授業を受けた人たちは、別の友人知人に、授業から学んだことを伝える人になりました。「最後の授業」をこなした教授に倣って、自らも「最後の授業」ができる人になったのです。
「最後の授業」を受けた人たちとわたしたちを重ねてみましょう。わたしたちが殉教祭に集まるなら、西玄可とその家族が命を賭けておこなった「最後の授業」を聞くことになります。そうであるなら、わたしたちもまた、友人や知人に、殉教祭で感じたことを伝えるべきです。
もっと言えば、わたしたちも西玄可とその家族に倣って「最後の授業」ができる準備を整えておくべきです。わたしたちが生きる気力に満ち満ちているときに、現役バリバリの時に、人生の終わりなどこれっぽっちも考えない時に、「最後の授業」を用意しておくべきなのです。「これ以上はできない」という最高の授業を、いつどこでも、だれにでもできるように、心の準備をしておきましょう。
「最後の授業」のテーマは自由です。与えられた福音朗読では、十人の乙女たちが「ともし火」を消さないように注意を怠りません。「ともし火」は、聖霊だと考えてみました。聖霊がわたしたちに与えられ、その大切さは十人とも理解できたのです。愚かな乙女さえも、「油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです」(25・8)と言ったのです。
賢い五人は聖霊の火をともしつづける「油」を持っていました。「油」とは何でしょうか。それは、常日頃から準備しておく「最後の授業」「わたしなりの信仰の表し方」です。この油があって初めて、わたしたちは「聖霊の火」を人々にともし続けることができるのです。
わたしは釣りが大好きで、一週間に八日間出かけたいくらい好きです。わたしの釣り場は、水深40mから50mのところです。そこでキジハタやタイを狙っていますが、40m先の、ほんのちょっとの変化を見逃さないことが釣果を左右します。
人間の世界では40m程度ですが、神さまは人間を救うために、神さまに背を向けて離れてしまっている人間の、ちょっとした変化に神経を研ぎ澄ましています。果てしなく遠ざかっている罪びとが、一度だけ神さまに向き直った。それを神さまは決して見逃しません。その人が心を入れ替える「一生に一度のチャンス」を見逃さないのです。
これで、趣味の釣りを題材に「最後の授業」ができました。いかがですか?あなたの身の回りで起こっていることを話題にして結構です。いつチャンスが巡ってきてもよいように、あなたがどのように神さまを信じているのか、だれにでも話せる準備をしておいてください。
あなたにとっての「一世一代の授業」は、今日やってくるかもしれませんし、三年後かもしれません。西玄可とその家族は、いつでもその準備ができていました。わたしたちも、神さまをどのように信じているかを、自分の言葉で話せるように準備を整えておきましょう。
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‥次の説教は‥‥
年間第33主日
(マタイ25:14-15,19-21)
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ちょっとひとやすみ
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▼非常に意義深い上五島巡礼だった。鉄川與助の建てた教会を巡る旅でもあった。七ヶ月に迫った献堂百周年記念をどのように迎えればよいかという学びでもあった。人の温かさや人間関係を大切にする学びの日々でもあった。さまざまな学びを得て帰った。
▼いろんな百周年(小教区設立、献堂)を迎えた教会に、これから連絡を取って、何か参考になるものがあれば取り入れたいと思う。規模で言えば、青砂ヶ浦教会の(献堂?)百周年が参考になるだろう。
▼お世話になった旅館が、教会巡りのためにマイクロバスを出してくれた。付きっきりで面倒を見てくれた。お金を払ってレンタカーを考えていたけれども、「水くさいぞ」と親戚でもある旅館の経営者が車の提供と案内をかって出てくれた。つながりは大切だ。
▼メインイベントの銀祝ミサでは、とんでもないハプニングが起こった。いつもこうして原稿は出来上がっているわけだが、今回ミサの直前に説教のプリントを確認したら、三分の二くらいのところで「続きはあとで書く」と書かれたまま中断しているプリントだった。
▼真っ青になった。おそらく二ヶ月前に準備し始めたので、その時に書きかけたままの説教を完成原稿と思い込んで持って行ったのだろう。身の回りに何かないかと思ったら、すでにブログも出していたので、iPhoneを見ながら説教は何とかこなした。
▼それ以前に目の前が真っ暗になったのは、ICレコーダーを準備してなかったことだ。このメルマガと同時に、録音説教(ミサ全体を含む)もアップするのだが、今回は何も録音できなかった。
▼よく考えれば、iPhoneもあったし、誰かのレコーダーを借りることは不可能ではなかったと思うが、前晩に訪ねた教会の神父様にはお願いするのを忘れたし、当日は説教原稿がなかったのでiPhoneは塞がってしまった。
▼実を言うと、タブレット端末があったので、録音をしたつもりで銀祝ミサはささげたのだが、使用したアプリの制約で、録音時間は最大5分だったようだ。歌の練習のころに録音が始まり、ミサの開祭のころには録音は終わっていた。あとで確認して、笑うしかなかった。
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今週の1枚
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第519回目。大曾教会にて。この教会も鉄川與助の手掛けた町文化財の教会。
ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/
【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
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こうじ神父
「今週の説教」
2017/11/12(No.912)
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年間第32主日
(マタイ25:1-13)
あなたの「最後の授業」を聞かせてください
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本日「黒瀬の辻殉教祭」が午後2時から予定されています。説教師はわたしなので、田平教会での説教も大枠は「黒瀬の辻殉教祭」の説教を使わせていただきます。
世界中でブームになっている授業があります。「最後の授業」というものです。「引退を迎えた教授が、お別れの日におこなった授業」ではありません。現役バリバリの教授が、「もし余命数日の宣告が下されたら?」というような設定で、すべてを賭けておこなう授業のことです。
最初にこの授業をおこなったのは、余命半年のがん宣告を医師から受けたランディ・パウシュという教授でした。彼は余命半年でありながら、希望に満ちた、エネルギッシュな授業を展開したのです。死にゆく人のメッセージではなく、聞く人にやる気を起こさせる授業でした。
先に「黒瀬の辻殉教祭」の案内をしました。この殉教祭は言わば「福者西家族を思い起こし、物語るためのミサ」です。わたしはこの説教を考える準備として、黒瀬の辻で殉教した西家族について、殉教から400年を迎えた2009年に山田教会で発行された「生月の殉教者・福者ガスパル西玄可とその家族」という青い冊子を注意深く読みました。冊子を読んだ上で、400年前を振り返るだけでなく、出来事を今どうやって生きたらよいかを付け加えて話してみたいと思いました。
冊子を読んでわたしが考えたことは、西玄可とその家族は、決してこの世を捨てて、この世に背を向けて生きていたのではないということです。時代はキリシタンにとって完全な逆風だけれども、正面から逆風に立ち向かって生き続けた人たちです。「この世に興味がないから、命を取り上げるのであればどうぞ。」そんな生き方を選んだのではありません。誠実に日々を生きて、生き方を曲げることなく貫いたのです。
わたしは、西玄可とその家族の最後の日々は、彼らが日頃から用意していた「最後の授業」だったのだと思っています。「どうせもう死ぬから、これだけは言っておこう」という気持ちで立てた証ではなくて、命に満ち満ちた、花が満開に咲いた状態で、すべてを賭けておこなった授業だったと思っています。
当時ほとんどの人が、西家族の「最後の授業」を理解しませんでした。救い主イエス・キリストのために命をささげることが、命を投げ捨てることのように思えたからです。本当は理解できたはずなのですが、伝統やしきたり、面子など自分を縛っているものから解放されるのを怖がっていたのかもしれません。
殉教祭の参加者は違います。黒瀬の辻に集まってくださるということは、西家族の「最後の授業」をもう一度聞きたい、そう思って集まるはずです。もしそうでなければ、ほかにすることはいくらでもあったはずです。それらをなげうって殉教祭に集まってくれる。西家族の「最後の授業」に価値を見つけたからです。同じ時間に放送されているテレビ、ラジオよりも、聞く価値があると考えたからここに集まっているのです。
ランディ・パウシュの「最後の授業」を受けた人たちはどうなったのでしょうか。授業を受けた人たちは、別の友人知人に、授業から学んだことを伝える人になりました。「最後の授業」をこなした教授に倣って、自らも「最後の授業」ができる人になったのです。
「最後の授業」を受けた人たちとわたしたちを重ねてみましょう。わたしたちが殉教祭に集まるなら、西玄可とその家族が命を賭けておこなった「最後の授業」を聞くことになります。そうであるなら、わたしたちもまた、友人や知人に、殉教祭で感じたことを伝えるべきです。
もっと言えば、わたしたちも西玄可とその家族に倣って「最後の授業」ができる準備を整えておくべきです。わたしたちが生きる気力に満ち満ちているときに、現役バリバリの時に、人生の終わりなどこれっぽっちも考えない時に、「最後の授業」を用意しておくべきなのです。「これ以上はできない」という最高の授業を、いつどこでも、だれにでもできるように、心の準備をしておきましょう。
「最後の授業」のテーマは自由です。与えられた福音朗読では、十人の乙女たちが「ともし火」を消さないように注意を怠りません。「ともし火」は、聖霊だと考えてみました。聖霊がわたしたちに与えられ、その大切さは十人とも理解できたのです。愚かな乙女さえも、「油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです」(25・8)と言ったのです。
賢い五人は聖霊の火をともしつづける「油」を持っていました。「油」とは何でしょうか。それは、常日頃から準備しておく「最後の授業」「わたしなりの信仰の表し方」です。この油があって初めて、わたしたちは「聖霊の火」を人々にともし続けることができるのです。
わたしは釣りが大好きで、一週間に八日間出かけたいくらい好きです。わたしの釣り場は、水深40mから50mのところです。そこでキジハタやタイを狙っていますが、40m先の、ほんのちょっとの変化を見逃さないことが釣果を左右します。
人間の世界では40m程度ですが、神さまは人間を救うために、神さまに背を向けて離れてしまっている人間の、ちょっとした変化に神経を研ぎ澄ましています。果てしなく遠ざかっている罪びとが、一度だけ神さまに向き直った。それを神さまは決して見逃しません。その人が心を入れ替える「一生に一度のチャンス」を見逃さないのです。
これで、趣味の釣りを題材に「最後の授業」ができました。いかがですか?あなたの身の回りで起こっていることを話題にして結構です。いつチャンスが巡ってきてもよいように、あなたがどのように神さまを信じているのか、だれにでも話せる準備をしておいてください。
あなたにとっての「一世一代の授業」は、今日やってくるかもしれませんし、三年後かもしれません。西玄可とその家族は、いつでもその準備ができていました。わたしたちも、神さまをどのように信じているかを、自分の言葉で話せるように準備を整えておきましょう。
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年間第33主日
(マタイ25:14-15,19-21)
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ちょっとひとやすみ
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▼非常に意義深い上五島巡礼だった。鉄川與助の建てた教会を巡る旅でもあった。七ヶ月に迫った献堂百周年記念をどのように迎えればよいかという学びでもあった。人の温かさや人間関係を大切にする学びの日々でもあった。さまざまな学びを得て帰った。
▼いろんな百周年(小教区設立、献堂)を迎えた教会に、これから連絡を取って、何か参考になるものがあれば取り入れたいと思う。規模で言えば、青砂ヶ浦教会の(献堂?)百周年が参考になるだろう。
▼お世話になった旅館が、教会巡りのためにマイクロバスを出してくれた。付きっきりで面倒を見てくれた。お金を払ってレンタカーを考えていたけれども、「水くさいぞ」と親戚でもある旅館の経営者が車の提供と案内をかって出てくれた。つながりは大切だ。
▼メインイベントの銀祝ミサでは、とんでもないハプニングが起こった。いつもこうして原稿は出来上がっているわけだが、今回ミサの直前に説教のプリントを確認したら、三分の二くらいのところで「続きはあとで書く」と書かれたまま中断しているプリントだった。
▼真っ青になった。おそらく二ヶ月前に準備し始めたので、その時に書きかけたままの説教を完成原稿と思い込んで持って行ったのだろう。身の回りに何かないかと思ったら、すでにブログも出していたので、iPhoneを見ながら説教は何とかこなした。
▼それ以前に目の前が真っ暗になったのは、ICレコーダーを準備してなかったことだ。このメルマガと同時に、録音説教(ミサ全体を含む)もアップするのだが、今回は何も録音できなかった。
▼よく考えれば、iPhoneもあったし、誰かのレコーダーを借りることは不可能ではなかったと思うが、前晩に訪ねた教会の神父様にはお願いするのを忘れたし、当日は説教原稿がなかったのでiPhoneは塞がってしまった。
▼実を言うと、タブレット端末があったので、録音をしたつもりで銀祝ミサはささげたのだが、使用したアプリの制約で、録音時間は最大5分だったようだ。歌の練習のころに録音が始まり、ミサの開祭のころには録音は終わっていた。あとで確認して、笑うしかなかった。
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今週の1枚
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第519回目。大曾教会にて。この教会も鉄川與助の手掛けた町文化財の教会。
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【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †