こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

三位一体の主日(ヨハネ3:16-18)聖霊の働きで、イエスへの信仰と結ばれた

2017-06-10 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2017/6/11(No.889)
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三位一体の主日
(ヨハネ3:16-18)
聖霊の働きで、イエスへの信仰と結ばれた
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「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」(3・16)わたしたちは主の昇天・聖霊降臨・三位一体・キリストの聖体・イエスのみ心と続く一連の祭日の期間を過ごしております。父と子と聖霊の三位一体の神をたたえる祭日にあたり、今年は聖霊について考えてみたいと思います。

今月9日に、平戸市の老舗のホテルが装いも新たにオープンしまして、これはぜひ母親を連れて、温泉旅行をしたいなと思っております。まだいつにするかは決めていませんが、曜日としては、火曜日から水曜日を押さえて親孝行の日を用意しようと思っています。もし関係者の了解が得られれば、火曜日の修道院のミサと、水曜日の朝ミサにもあずかってもらおうと思っています。

そう言っていましたら、偶然にもお隣の平戸口の先輩神父さまが、10日(土)にお母様とご家族を連れて田平教会に立ち寄られました。いちばん近いホテルは別にありますが、ひょっとしたら先を越されて、オープンしたてのホテルに親孝行に行ったか?とビックリしました。

先月、母の日のミサを子供たちの依頼でおささげしてもらいました。今月、父の日が来週巡ってきます。その時もきっと、お父さんを喜ばせるミサがささげられると思います。中田神父さまは、先にお父さんが亡くなったので、目の前のお父さんのためにおささげができる子供たちは幸せだなぁと思います。期待して待っています。

さて三位一体の祭日、父と子と聖霊の神さまのことを、毎年頭を抱えながら考えてきましたが、人間がどんなに考えても神さまのことについて完全な説明などできっこないので、それよりもむしろ3年かけて父と子と聖霊について考えたほうが、準備をするわたしのためにも、同じような話を聞く羽目になる皆さんのためにも良いのではないかと思いました。今年は、聖霊について話してみたいと思います。

与えられた朗読箇所はヨハネ福音書第3章の「ニコデモとの対話」の箇所です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」神の独り子は、受肉して世に来られました。神と、人とが一つになられました。この神秘に、わたしは聖霊の働きを思い浮かべました。

この世のもので、何かと何かが一つになるためには、繋ぐものが必要です。しかし神と人とが一つになるために、この世の何かでは繋ぎ合わせることは不可能です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」神の愛が、御子の受肉という神秘を可能にしていると考えれば、イエスにおいて神と人とが一つであるのは聖霊の働きでしょう。

聖霊が、神と人とを一つにする神の愛であれば、わたしたちの中で神に属するものとこの世のものとが一つになるためにも、聖霊の働きは必要になるでしょう。わたしたちの中では、目に見えない神、そして神が与えてくださる恵みが、わたしたちの中に宿ることを知っています。洗礼を受けた時、神の子とする恵みが、わたしと結び合わされました。

聖霊によって一つに結ばれたものは、本当は切り離すことができないはずですが、ある人は自分の中にある信仰を、あたかも脱いだり着たりする洋服であるかのように考えています。ある場面ではカトリック信者としてふるまい、別の場面ではカトリック信者であることを横に置きます。それは、聖霊の働きによって一つにしてもらった神の恵みとわたしの結びつきを、十分考えていないからではないでしょうか。

皮膚と、皮膚に覆われたからだとは、切り離すことはできません。そのような場面を想像すらできません。神の恵みは、あたかもわたしたちを覆う皮膚のように、聖霊によって一つに結ばれたものです。もしも無理にでも聖霊によって一つに結ばれたものを横に置くというのなら、それは皮膚を剥がすのと同じ行為であり、想像するだけでも痛みを伴うでしょう。

神の恵みであるイエス・キリストへの信仰を、聖霊によって一つに結ばれたものであると深く理解していた時代がありました。それはキリシタンの迫害の時代です。当時の人々にとってキリシタンの信仰は、例えて言えば体の一部でした。キリシタンの信仰を捨てるということは、体の一部を切り離すことで、とても考えられなかったのです。

わたしたちはどうでしょうか。わたしと、神が与えてくださった恵みとは、聖霊によって一つに結ばれているでしょうか。切り離したり、脱ぎ着したりできるものと思い違いをしていないでしょうか。先週お祝いした聖霊降臨、その聖霊の賜物は、わたしという止まり木につかまっている鳥のようなものでしょうか。

そんなはずはありません。わたしの中で、恵みの雨となってしみ込んだので、切り離すことも、取り外すこともできないはずです。むしろ聖霊のもたらす実を結ばせるもの、わたしの中にあるものなのです。

三位一体の神の愛、聖霊は、わたしと神の恵みとを一つにしてくださいます。それは洗礼であり、堅信であり、聖体であり、叙階の恵みです。聖霊によって一つに結ばれたものは、わたしをわたしらしくしてくれているでしょうか。父と子と聖霊の三位一体の神が、わたしの中に分けることのできない尊い恵みをくださいました。

この世に属していながら、この世に属していない神の恵みと結ばれている。わたしの生き方で、まだ三位一体の神秘に触れていない人々に証を立てましょう。脱いだり着たりできる信仰では、相手に何も伝わりません。わたしの一部となっている信仰で、出会う人に三位一体の神を告げ知らせましょう。

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‥次の説教は‥‥
キリストの聖体
(ヨハネ6:51-58)
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ちょっとひとやすみ
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▼切り離せないほど、一体のものは何か。考えているうちに行き詰ってしまい、「三位が一体である」という点にこだわらないことにした。3年かけて「父と子と聖霊」をよく学ぶ祭日になればいいなと思っている。
▼説教には直接出てこないが、結合双生児という言葉で検索して考えるヒントを探していた。記事がいくつも見つかった。わたしの知る結合双生児と言えば「ベトちゃんドクちゃん」だが、世界にはほかにもいろんな報告が上がっている。
▼人格は別だが、体は共有している。結合双生児についてのわたしの理解だ。ベトちゃんドクちゃんは分離手術を経て体を切り離した。足は片足ずつ分けた。2人のうち兄は長くは生きられなかったが、弟はその後生きて、家族を形成したと思う。
▼分離手術で切り離すのは、医学の進歩がそれを可能にしたからだが、それでも切り離せないものはあると思う。結合双生児が歩んだ人生や、彼らしか理解できない絆は、分離手術でも切り離せるものではない。
▼切り離せないもの。人間がたどり着ける「一体」という考えは、およそここまでではないだろうか。これは三位一体の神をたたえる所までたどり着けないので、直接的に触れないことにしたのである。
▼ところでわたしの机にも、もはや切り離せなくなったものがある。ラミネートしてはいけないもの。転勤する前のものだが、何とか剥がれないものかと試してみたが、とても手に負えず、あきらめて銀行に行こうと思っている。
▼はじめ、教会会計に「これ、見事に処理できたら会計に寄付するから」とお願いしてみたが、「本人でないと手続きできないと銀行に言われました」と断られた。仕方がないので、自分で行こうと思っている。

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今週の1枚
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第496回目。蛇が。女性の会も飛んで来ての大捕り物となった。かわいいのに。

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† 神に感謝 †
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