こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

復活徹夜祭(マルコ16:1-7)あなたは何に死んで、復活の神秘を掘り下げますか

2021-04-03 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。
↓↓聖週間の説教一覧はコチラ↓↓
http://ss104313.stars.ne.jp/2021holyweek.pdf

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://ss104313.stars.ne.jp/voice/210403.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2021/4/3(No.1115)
‥‥‥†‥‥‥‥
復活徹夜祭(マルコ16:1-7)
あなたは何に死んで、復活の神秘を掘り下げますか
‥‥‥†‥‥‥‥

主の復活おめでとうございます。B年マルコ福音書を頼りに、今年の復活の喜びまでの道を辿ってきました。四旬節第4主日あたりからしきりに触れてきたことですが、「沈黙を守るイエス」からも、栄光の姿を読み取る信者に成長する必要があります。

今年の学びを得るきっかけとして「教会の祈り」に目を向けたいと思います。司祭や奉献生活者が日頃から唱えているものに「教会の祈り(または時課の典礼)というものがあります。日本語に翻訳されていますが、実は海外のものと比べると不完全です。日本語版は、一年中の季節を一冊で済ませようとした簡略版すが、外国語版、たとえば英語版は四冊に分かれていて、待降節・年間主日①・四旬節と復活節・年間主日②となっています。

この半年、試みに海外の物を使っております。もちろん外国語ですからお祈りが完璧に理解できているわけではありませんが、日本語版では到底気付けなかった部分が見えます。英語版の教会の祈りで一つ取り上げると、「四旬節と復活節とは、離れがたく一つに結ばれている。いわば表裏一体なのだ」ということです。

教会の祈りの特徴は詩編をふんだんに唱えることです。毎日、朝の祈り・昼の祈り・晩の祈り・寝る前の祈りと唱え、更に読書の祈りも加わります。これらの祈りにふんだんに詩編が用いられているのです。

手元にあるこの「四旬節・復活節用」の、「読書の祈り」第一朗読を唱えながら、「へぇ。こうなってるんだ」という気付きがありました。詩編を唱える前に先唱があるのですが、四旬節中に使う先唱と、復活節中に使う先唱とでは、「アレルヤ」が付くかつかないか、それだけしか違いがないのです。

日本語の教会の祈りですが、同じ「読書の祈り」の第一朗読に添えられている先唱は、例外を除いて残念ながら一年中同じ箇所を唱えています。四旬節と復活節が表裏一体であるということを連想させる作りにはなっていません。今後、本来の姿、つまり四冊セットの完全版ができることを心から願っています。

さて教会の祈りの完全版が私に気付かせてくれたことは、「四旬節と復活節とは、離れがたく一つに結ばれている。表裏一体だ」ということでした。四旬節に唱えていた「読書の祈り第一朗読」に添えられている先唱に「アレルヤ」を付け加えるだけで、そのまま復活節の「読書の祈り第一朗読」に変身する。これは何を意味しているのだろうか。その答えを探し求めながら、四旬節の期間祈りを唱えていたのです。

そしてようやく、この原稿を用意する直前に答えらしきものが見えました。それが、先ほどから言っている「四旬節と復活節は、表裏一体なのかな」という思いでした。もう少し踏み込んで言うと、イエスの受難と復活は表裏一体だと、完全版の教会の祈りを唱えていて気付いたのです。

もしこの仮定が的を射ているなら、私たちの日々の苦しみにも光が差します。誰でも何かしら体の不調があり、また病気を抱え、障害を抱えています。いっさい体の不調がない完璧な肉体をもつ人などまずいないでしょう。完璧な肉体をもつ人が仮にいたとしても、その人はきっと、僅かな体の不調を持つ人さえ理解できないかも知れません。

私は見た目には健康そうにしていますが、四種類の薬を服用しています。尿酸値を下げる薬、血中コレステロールを低下させる薬、更には血圧を下げる薬も服用しています。「薬を日頃から持ち歩く生活になったらもうおしまいだ」と、若い頃は本気で思っていました。

けれども今、薬を持ち歩く生活が日常になってみるとよく分かるのです。薬を服用している人の気持ちなど、何も気にしていなかった。自分が同じ立場になって、かつては「薬を何錠も飲む人の人生はもう終わっている」と思っていたけれど、そうではない。「その人生は終わっている」と決めてかかっていた生き方にいったん自分を置いて、初めて見える世界があるということです。

今なら、薬を飲み始めたという人に、こう言ってあげるでしょう。「ようこそ。」自分が、受け入れられないと言っていた状態に一旦死んでみて、人は初めて復活するのです。
イエスが先に、死と復活が切り離せないもの、表裏一体だと証明してくださいました。私たちもこれまで思い描いていた自分に死ぬことで、復活の栄光にあずかる者となれます。

どれだけ働いても疲れなかった人が急に倒れて入院し、退院して初めて仕事の量を考える人になる。一度死を味わったことで、その先の復活を体験できたのです。

神の使いも言っています。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」(12・6)いろんな思い込みに死ななければ、私たちはイエスが招く場所にたどり着けないのです。

復活の喜びをしみじみと味わうために、私たちは何かの形で死を味わうべきだと思います。故意に命を危険にさらす必要はありませんが、思い込みや偏見は、一度死ぬべき最上位のものです。今年も、復活の喜びを深く掘り下げる材料を探しましょう。私たちが更に一つ、何かに死ぬならば、そこで味わう苦痛や惨めさや沈黙を通して、復活の神秘をより深く学ぶことになるのです。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
復活の主日(日中)(ヨハネ20:1-9)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼今年、受難の火曜日に行われた「聖香油ミサ」からの帰り、大司教館に立ち寄った時のこと。大司教館におられる「法務担当司祭」の司祭から声をかけられた。私からすれば雲の上のような存在の先輩司祭だ。その先輩が奇妙なことを私に言うのだ。
▼「中田さん。正直に言ってみて。何か隠し事をしてないか?」私も過去を追求されて何もホコリが出ない聖人ではないので、一瞬青ざめたが、次の言葉で吹き出しそうになった。「中田さんの頭、教区行事のたびに眺めているけれど、最近『うぶ毛』が生えてきてるよね?何かした?ひょっとして、ニューモ?」
▼「そんなの何もしてませんよ。ただ、シャンプーはたしかに変えました。」そう答えるとシャンプーを詳しく聞いてきた。そこで「コスモス」に買いに行って、プレゼントしようと思っている。突然聞かれたことが「頭髪」のことだったので、拍子抜けした。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第722回目。聖金曜日、食卓に並んだ。何もないところから生えてきた?

http://ss104313.stars.ne.jp/200403.jpg
ホームページもご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 聖金曜日(ヨハネ18:1-19:42)... | トップ | 復活の主日(日中)(ヨハネ20... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事