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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2023/11/5(No.1263)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第31主日(マタイ23:1-12)
神の権威を徹底的に認めることから
‥‥‥†‥‥‥‥
「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。」(23・2-3)これは宗教指導者たちに向けられた非難ですが、私は教会の司祭たちにこれが当てはまっていないか、ご迷惑をかけているのではないかと心配しています。
かつては分かりませんが、今、信徒の司祭に対する見方は非常に厳しくなっていると思います。司祭が祭壇でお世話することよりも、司祭の日常の言葉や振る舞いで迷惑をこうむっていることのほうが多いかもしれない。それでもかつての信徒は黙っているかも知れません。
今は違います。司祭が説教台から話すことは、司祭のお手本がなければ聞いてもらえません。「自分がしていることを棚に上げている」と、はっきり指摘を受けます。自分自身、下五島地区に来てからのことを振り返ってみると、自分のしたいことのためには時間を使うけれども苦手なことや面倒なことには時間を使わず、それでいて信徒の皆さんへの要求は天井知らず。これでは説教に耳を傾けてはもらえません。
川原義和神父様という先輩がおられました。教区の会計を長く務めていました。私が半年間カトリックセンターに住まわせてもらって、センターから滑石教会に通勤していた時期があり、そのご縁でいろんな話を聞かせてもらいました。その中でいちばん印象に残っている言葉が、「長崎教区の司祭は『なんもせんもん家』が多い。驚くほど何もしない。」という話です。専門的な勉強をしている「専門家」ではなく、何もしない「せん・もん」家だ、と言っていたのです。
教区に提出する予算・決算、年6回やってくる特別献金の送金、年一度の現勢報告と財産目録の提出など。都度提出してくだされば何も問題ないのに、その時期になると報告のない小教区があって教区会計の仕事が止まります。しかたなく、教区会計職員の方が電話で催促します。結局対応したのは評議会役員でした。
特別献金も日本の教会全体でまとめるために一定の期限を切って受け付けています。送金がまだの小教区に、またも職員の方が催促の電話です。司祭は役員に務めを押し付け、当たり前のことが当たり前にできません。それを揶揄して、「教区司祭はなんも『せん・もん』家だ」と言っておられたのです。二つ目の教会の助任だった中田神父はその話を身のすくむ思いで聞いておりました。
そんな「せんもん家」の司祭にも、態度を改める機会は何度かあったと思います。長い司祭生活です。思い通りにいかない時期もやって来ます。その時期に「自分の言葉や態度がうまくいかない原因ではないだろうか」と考えて、本来の「仕える者」になる。へりくだる者として一つ一つの奉仕に心を込める。そうすると、結果も付いてくるわけです。
どんな務めでも、心がけや取り組み方が違えば果たした務めの価値は違ってきます。司祭が急に呼ばれる場面と言えば、病者の塗油だと思います。「忙しいのに・・・」と心の中で考えて病者の塗油に出かけていくのと、「これは、イエスが言われた『病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ』(マタイ25・36)に倣う絶好の機会だ」と思って出かけるのでは、果たした務めの価値は違うわけです。
「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。」(23・11)イエスの招きを真に理解するためには、「権威」は神お一人にあると、心から受け入れることが必要です。教会の中では「権威」は神のものです。それを心から受け入れる時、「権威」を振りかざし、言うだけで実行しない「なんもせんもん家」の司祭は長崎教区から居なくなるのだと思います。
‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第32主日(マタイ25:1-13)
‥‥‥†‥‥‥‥
‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥
▼転勤して半年過ぎたが、まだまだ訪ねたことのない場所がある。その中に、管轄の教会が一つあって、半年遅れの初赴任となる。それが玉之浦教会。信徒の皆さんには大変お待たせした。どんな人たちがいるのか、とても楽しみにしている。
▼玉之浦教会と同じく、「大瀬崎灯台」も訪ねたことのない場所だ。正確には玉之浦教会も大瀬崎灯台も訪ねたことはあるかもしれないが、自分の足で行くのは初めてのことになる。両方を訪ねてみて、下五島の魅力を感じることができた。
‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第870回目。大瀬崎灯台。灯台そのものまで訪ねていくのは、次の機会に。
ホームページもご覧ください。
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† 神に感謝 †
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こうじ神父
「今週の説教」
2023/11/5(No.1263)
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年間第31主日(マタイ23:1-12)
神の権威を徹底的に認めることから
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「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。」(23・2-3)これは宗教指導者たちに向けられた非難ですが、私は教会の司祭たちにこれが当てはまっていないか、ご迷惑をかけているのではないかと心配しています。
かつては分かりませんが、今、信徒の司祭に対する見方は非常に厳しくなっていると思います。司祭が祭壇でお世話することよりも、司祭の日常の言葉や振る舞いで迷惑をこうむっていることのほうが多いかもしれない。それでもかつての信徒は黙っているかも知れません。
今は違います。司祭が説教台から話すことは、司祭のお手本がなければ聞いてもらえません。「自分がしていることを棚に上げている」と、はっきり指摘を受けます。自分自身、下五島地区に来てからのことを振り返ってみると、自分のしたいことのためには時間を使うけれども苦手なことや面倒なことには時間を使わず、それでいて信徒の皆さんへの要求は天井知らず。これでは説教に耳を傾けてはもらえません。
川原義和神父様という先輩がおられました。教区の会計を長く務めていました。私が半年間カトリックセンターに住まわせてもらって、センターから滑石教会に通勤していた時期があり、そのご縁でいろんな話を聞かせてもらいました。その中でいちばん印象に残っている言葉が、「長崎教区の司祭は『なんもせんもん家』が多い。驚くほど何もしない。」という話です。専門的な勉強をしている「専門家」ではなく、何もしない「せん・もん」家だ、と言っていたのです。
教区に提出する予算・決算、年6回やってくる特別献金の送金、年一度の現勢報告と財産目録の提出など。都度提出してくだされば何も問題ないのに、その時期になると報告のない小教区があって教区会計の仕事が止まります。しかたなく、教区会計職員の方が電話で催促します。結局対応したのは評議会役員でした。
特別献金も日本の教会全体でまとめるために一定の期限を切って受け付けています。送金がまだの小教区に、またも職員の方が催促の電話です。司祭は役員に務めを押し付け、当たり前のことが当たり前にできません。それを揶揄して、「教区司祭はなんも『せん・もん』家だ」と言っておられたのです。二つ目の教会の助任だった中田神父はその話を身のすくむ思いで聞いておりました。
そんな「せんもん家」の司祭にも、態度を改める機会は何度かあったと思います。長い司祭生活です。思い通りにいかない時期もやって来ます。その時期に「自分の言葉や態度がうまくいかない原因ではないだろうか」と考えて、本来の「仕える者」になる。へりくだる者として一つ一つの奉仕に心を込める。そうすると、結果も付いてくるわけです。
どんな務めでも、心がけや取り組み方が違えば果たした務めの価値は違ってきます。司祭が急に呼ばれる場面と言えば、病者の塗油だと思います。「忙しいのに・・・」と心の中で考えて病者の塗油に出かけていくのと、「これは、イエスが言われた『病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ』(マタイ25・36)に倣う絶好の機会だ」と思って出かけるのでは、果たした務めの価値は違うわけです。
「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。」(23・11)イエスの招きを真に理解するためには、「権威」は神お一人にあると、心から受け入れることが必要です。教会の中では「権威」は神のものです。それを心から受け入れる時、「権威」を振りかざし、言うだけで実行しない「なんもせんもん家」の司祭は長崎教区から居なくなるのだと思います。
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‥次の説教は‥‥
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ちょっとひとやすみ
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▼転勤して半年過ぎたが、まだまだ訪ねたことのない場所がある。その中に、管轄の教会が一つあって、半年遅れの初赴任となる。それが玉之浦教会。信徒の皆さんには大変お待たせした。どんな人たちがいるのか、とても楽しみにしている。
▼玉之浦教会と同じく、「大瀬崎灯台」も訪ねたことのない場所だ。正確には玉之浦教会も大瀬崎灯台も訪ねたことはあるかもしれないが、自分の足で行くのは初めてのことになる。両方を訪ねてみて、下五島の魅力を感じることができた。
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今週の1枚
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第870回目。大瀬崎灯台。灯台そのものまで訪ねていくのは、次の機会に。
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† 神に感謝 †