こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

聖霊降臨の主日(ヨハネ20:19-23)「聖霊来てください」と祈る

2020-05-30 | Weblog
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(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://ss104313.stars.ne.jp/voice/200531.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
2020/5/31(No.1065)
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聖霊降臨の主日(ヨハネ20:19-23)
「聖霊来てください」と祈る
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(ミサ再開のため、現在は古いもののみ視聴可)
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聖霊降臨の主日を迎えました。今日を終えると教会の季節も「年間」の季節に変わっていきます。本日、ミサの派遣の祝福には、「アレルヤ」を加えて、「行きましょう。主の平和のうちに。アレルヤ」「神に感謝。アレルヤ」と答えてミサを終わります。

聖霊の賜物を受けて、今年の典礼暦年に信仰の証ができるように、願わくは信仰を同じくする兄弟姉妹が与えられるように、福音の学びを得たいと思います。朗読では、復活したイエスが弟子たちに現れ、「平和があるように」と声をかけた点と、派遣にあたり「聖霊を受けなさい」と仰って、「罪のゆるし」について強調している点が目立っています。

先に、イエスと生活を共にしている間、弟子たちがどんな場面で「平和」「罪のゆるし」を教えられ、体験したのか確かめましょう。「平和」については、弟子たちを宣教に派遣する場面が思い出されます。「実習体験」といったところでしょうか。マタイ福音書の「弟子たちの派遣」、ルカ福音書の「七二人の派遣」ですが、マタイ福音書を取り上げます。

「その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。」(マタイ10・12-13)

実習体験ですから、弟子たちは派遣してくださったイエスへの信頼の上に立って「平和があるように」と願います。弟子たちが平和の源なのではなく、遣わしてくださったイエスが平和の源です。常に師であるイエスが後ろ盾になってくださることを感じながら、弟子たちは「平和」を願い続けることができました。

聖霊降臨の主日の福音朗読でも、イエスは「あなたがたに平和があるように」と声をかけます。すでにイエスは十字架上の死を経て、復活して声をかけておられます。ここでの「あなたがたに平和があるように」との宣言は、最初に宣教実習に派遣されたときとは違って聞こえたでしょう。このたびの「平和」の源はどこにあるのでしょうか。

もちろん、かつてと変わらず「イエス・キリスト」が平和の源なのですが、私はその保証として、聖霊が与えられた、聖霊降臨の出来事があったと考えました。弟子たちがこれから宣教に出かけていく所は、必ずしも友好的な場所ばかりではありません。イエスの復活を証言することで、対立や分裂を生じるかも知れません。かつての、いわば実習の時とは違います。そこで自分たちが「平和の使者」であることを保証してくれるのが聖霊なのです。

もう一つの、「罪のゆるし」を強調している点も考えてみましょう。弟子たちと宣教生活に出かけたイエスは、どんな場面で、「罪のゆるし」を宣言なさったのでしょうか。ルカ福音書第7章で、罪深い女として登場する女性に、「あなたの罪は赦された」と仰っています(ルカ7・48参照)。もっと特徴的なのはマタイ、マルコ、ルカ福音書で共通に取り上げられている「中風の人をいやす」場面です。「あなたの罪は赦される」または「あなたの罪は赦された」と仰って、中風の人本人と、周囲の人を驚かせいたのです。

居合わせた弟子たちも、きっと驚いたことでしょう。だれもできない宣言を、大勢の人の前でおこなったからです。神お一人のほかに、罪を赦すことはできないのに、そのことばを目の前で聞いたわけです。そして今、復活したイエスは弟子たちに息を吹きかけて言われました。

「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(ヨハネ20・22-23)聖霊が、これから出かけていって神のわざを取り扱う弟子たちの保証、後ろ盾になってくださるのです。

聖霊が降臨する。聖霊が与えられる。使徒言行録の記事を読んでいると、何だか特殊撮影とか、アニメでなければ実現できないような光景が描かれています。けれどもその中心にあるのは、「復活したイエスが、いつも弟子たちと共にいてくださる保証として、聖霊が与えられる」ということであり、そのことをドラマチックに描いているのです。

ちょっと横道に逸れるかも知れませんが、使徒言行録のドラマチックな描き方を何かと比べてみましょう。たとえばそれは、結婚している夫婦のプロポーズの思い出です。海辺の公園で、燃えるような夕日が沈む直前、夕日を背にして「結婚してください」と言った。ロマンチックな場面を用意してくれたことに感激して「プロポーズをお受けします」と言った。たとえるならこういうことです。

実際には燃えるような夕日ではなかったかも知れませんが、プロポーズの経験の無い私でさえも、これくらいの描き方はできるし、大切な出来事を記憶にとどめるために、これくらいの描写はすると思います。こういう描き方が事実に反するとか大げさであるとか、私はまったく思いません。こういう描き方は有りだと思います。

とにかく、「共にいてくださる復活の主」を聖霊が理解させてくれる。そのことを記憶にとどめるために、使徒言行録のような描き方をしたと思いますし、ヨハネ福音書のように、イエスと行動を共にしたことと、聖霊を受けることとを結びつけて説明したりしているのです。

私たちに当てはめましょう。私たちにも、聖霊が与えられます。聖霊は、事あるごとに「復活した主が、共にいてくださる」と実感させてくれるお方です。道を見失ったとき、成功の陰で自分を見失ったとき、誰が本当に頼れる人なのかまったく分からなくなったとき、いろんなときに聖霊が見分ける力を与えてくださり、「自分で言うのも何だけど、イエス様っているんだなぁ」と感じさせてくれるのです。

意外と身近な所で、聖霊を受けている体験に巡り会います。気づかないことが多いかも知れません。だからこそ、私たちは機会あるごとに祈るのです。「聖霊来てください。」意識的に、このように祈ることにしましょう。

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‥次の説教は‥‥
三位一体の主日(ヨハネ3・16-18)
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ちょっとひとやすみ
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▼2008年6月2日(日)の説教は、赴任していた馬込教会の説教ではなく、郷里の鯛ノ浦教会で6月1日におこなったミサ説教を掲載している。この年の5月31日(金)に肺がんを患っていた父が亡くなり、当日通夜、6月1日(土)に葬儀ミサをおこなったのだった。
▼息を引き取る前から会話はできなくなっていたので、これといって遺言もなかった。テレビドラマで観るような最期は、通常は生じないのだとこの時実感した。ただ思い出されることはたくさんあり、最期が平凡であったとしても、波乱に満ちた生涯だった。
▼5月31日が日曜日と重なり、少し「父のことを説教で書こうかな」と思う気持ちもあったが、結果はそうはならなかった。説教は「風の吹くまま」である。聖霊の風が、説教を説教にしてくれる。だから司祭たちは、いつも聖霊に心の窓を開き、聖霊の導きを受け入れる。
▼ある司祭はそのことを「私は原稿を書いたりしない。聖霊の導きのままに話すからだ」と言っていた。私は原稿を用意していないと恐ろしくて説教台に立てない。準備しないで立つことはまずないが、原稿は私にとってはギリギリまで話したいことを確認する大切な道具だ。父の葬儀ミサ説教さえ、父と向き合いながら準備した原稿を手に握っていた。
▼もちろん、それでも「この説教は使えない。この話では伝わらない」と、直前に切り替えることもある。なぜそうなるのかは分からないが、実際に原稿を捨てて、降ってきた言葉を伝えた日もあった。原稿があってもなくても、聖霊は説教者に降るのである。
▼一度だけ、父が夢枕に立ったことがある。話がしたくて、私は懸命に話しかけたのだが、一言も返事はなかった。起きたときはがっかりしたが、夢枕に立ったことが嬉しかった。何が言いたかったのかは分からないが、次に現れたら教えてくれるかも知れない。あるいはいつも「一度だけだぞ」という人だったから、二度目はないのかも知れない。

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今週の1枚
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第672回目。本当に初めて、「ジギング」をした。3時間で釣れたのはエソ一匹。

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今週の「笑える」
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「何だっけ?典礼の『アルファとベータ』」「惜しい。『アルファとオメガ』」
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† 神に感謝 †
コメント
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