こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

待降節第4主日(マタイ1:18-24)我々と共におられる救い主を両手で受ける

2019-12-21 | Weblog
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http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/191222.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
2019/12/22(No.1036)
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待降節第4主日(マタイ1:18-24)
我々と共におられる救い主を両手で受ける
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「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」イザヤ書を引用して、マリア様が身ごもっている方の未来を天使ガブリエルがヨセフに示した言葉です。「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ(た)」(1・24)とあるようにヨセフは人間としてのためらいを横に置いて行動します。ご降誕ももうすぐそこまで来ていますから、私たちもためらうことなく行動を起こしましょう。

先週の説教に少し触れたいと思います。日本においでになったフランシスコ教皇が、刷新のために選ばれた方、今の時代に必要な方として選ばれたということはお話ししました。教皇様は特に社会の手を必要としている人、さらに社会から必要な支援を受けられない人にまで近く寄り添ってくださる方として知られています。

一つ例を挙げると、教皇様は「焼き場に立つ少年」を示してくださいました。原子爆弾の犠牲となった兄弟をおぶって、火葬してもらう順番を待つ少年です。日本で起こった出来事ですから日本人の私たちのほうが知っていて良さそうな話です。しかしあの写真の少年を知ったのは、教皇様を通してでした。教皇様は、最も助けを必要としている人に寄り添う姿を、私たちに示してくださったのです。

それだけでも日本全体が驚きましたが、教皇様はさらに、私たちのそば近くに来て、寄り添う姿勢を見せてくれたのです。82歳で、足もとが少し不安そうに見えました。けれども教皇様はご自身の心配を横に置いて、日本のカトリック信徒に、日本の教会に、日本の社会に、最も助けを必要としている人に目を向けて寄り添ってあげなさいと模範を示しに来たのです。

ところで、皆さんも少しは聞いたことがあるかも知れませんが、教皇様は80歳以下の枢機卿様による選挙によって選ばれます。2013年当時、世界の枢機卿様は151名いまして、そのうち80歳以下の、選挙権を持つ枢機卿様が115人いました。この115人が選挙して、フランシスコ教皇を選んだのでした。実は教皇ベネディクト16世が選ばれた時、二番目に票を集めたのがベルゴリオ枢機卿、のちのフランシスコ教皇だったそうです。

枢機卿団は、高齢で選ばれたベネディクト16世の後継者は、もっと若い、60代後半から70代前半の人が選ばれるべきだと考えていたそうです。もう一つ、推薦の票が次点だった人が次の選挙で教皇様に選ばれたことは過去に一度も無かったそうです。そうなると、ベルゴリオ枢機卿は候補から漏れていたはずですが、神様は次の教皇様として、「最も助けを必要とする人のそば近くにいてくれる指導者」を必要としていて、選挙の行方を導いていたのだと思いました。

ですから、今、カトリック教会に必要な指導者は、「最も助けを必要とする人のそば近くにいてくれる指導者」ということです。この必要な指導者の姿を完全な姿で示してくださるのは、言うまでもなくイエス・キリストです。今年のクリスマス説教のテーマも、「最も近くに来てくださった救い主」という形で示そうと思っています。来日したフランシスコ教皇様は、このイエス・キリストを見える形で、私たちに示してくださったわけです。私はその意味で、教皇フランシスコは今年最大の、神様からのプレゼントだったと考えています。

「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」救い主の誕生は、「神は我々と共におられる」ということの証です。私たちが受け取るのは、人となって幼子の姿で現れた神様というだけでなく、「我々と共におられる」神様を受け取るのです。

幼子の姿に、すでに示されているものがあります。幼子は、腕に抱きかかえなければ、その場から動くこともできません。私たちと共にいるために、最も近くいるために示された姿が幼子という姿だったのです。すると、私たちが幼子イエスを迎えるために必要な準備があります。一つは、私たちは両手を空にして、幼子の誕生を待つ必要があります。もう一つは、「神は我々と共におられる」というメッセージを受け入れ、繰り返し思い起こしながら生きる覚悟です。

ヨセフはマリアと一緒になるために、思い悩みを捨てる勇気が必要でした。「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」(1・19)人間の思いを両手一杯抱えていましたが、身ごもっているマリアを受け入れるために、両手を空にする勇気が必要でした。人間にはできないことですが、夢に現れた天使の言葉をよく考え、神の助けに信頼し、まもなくお生まれになるイエスを、両手で受け取ることにしたのです。

マリアと、幼子イエスを受け入れたヨセフには、これからいくつもの困難が待ち受けています。けれどもヨセフが両手で受け取ったイエスは、「神は我々と共におられる」このメッセージの見えるしるしでした。たとえヘロデに命を狙われても、たとえエジプトでの生活が見通せなくても、「神は我々と共におられる」このしるしであるイエスを抱いて、毎日を過ごします。ヨセフの中にすでに、私たちに必要な準備のお手本があります。

さらに私たちは、教皇フランシスコを通して「神は我々と共におられる」この証しに生きるお手本を頂きました。まもなく迎えるご降誕は、「インマヌエル」「神は我々と共におられる」を受け取る日であり、「神は我々と共におられる」と証しする日の始まりでもあります。最も助けを必要とする人のそば近くにいてくれる指導者を私たちは見ました。私たちも証の生活をしながら、私たちの支えを必要としている人に寛大に心を開く。両手を空にして、残る日々の準備を急ぎたいと思います。

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‥次の説教は‥‥
主の降誕(夜半)(ルカ2:1-14)
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ちょっとひとやすみ
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▼教皇フランシスコの訪日は、今年最大の神様からのプレゼントだった。私たちに宣教者のあるべき姿を植え付けてくれた。最近読み続けている教皇フランシスコの人柄を紹介する本に、教皇になる直前の修道女への黙想の中で「イエスは戸口に立って叩いているのではなく、今や外に出してくれと戸を叩いている」と語ったという場面があった。
▼日本でのキリスト教の宣教も、きっとそのような状況だ。さまざまな宣教の手詰まり状態を、外に原因を求めて(宗教への無関心、経済優先の社会、価値観の多様化)、自分たちがイエスを閉じ込めてしまっていることを棚に上げているのだと思う。
▼教皇フランシスコは外へ出て宣教した。アルゼンチンで布教していた時も、バチカンに移られてからも。私たちは外に出もしないで、外の状況をああでもないこうでもないと議論している。外に出てみれば分かる。外に出なければ、拾える声も拾えない。
▼小学生と中学生の赦しの秘跡をしてクリスマスの準備をさせた。子供達がクリスマスに向けて少しずつ準備し、その日を迎えるのを見るのは大きな希望だ。子供のときにどんなクリスマスを過ごしていたかを覚えたなら、きっとこの時期は教会に足が向く、そんな大人に成長していくだろう。

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今週の1枚
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第643回目。夜半のミサ前のキャンドルサービス。保育園児の記憶力には驚く。

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