当メルマガをご購読いただき、ありがとうございます。
(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/110828.mp3
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/110828.mp3
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
11/08/28(No.550)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第22主日
(マタイ16:21-27)
示された道はだれも選ばない道
‥‥‥†‥‥‥‥
最近いろいろとついてないです。大雨の中250ccのバイクで走っていてバイクが故障し、業者に引き取ってもらおうと、その場で携帯電話から連絡を取っていたら、携帯電話も使えなくなりました。今バイクは何とか引き取ってくれる業者が見つかり、携帯電話は新しいものを手に入れましたが、ここ半年のデータを失ってしまいました。これ以上悪いことが続かないことを願っています。
バイクと言えば、道路を走る時、みなさんは前にだれかがいると邪魔だなぁと思うでしょうか。都合がいいなと思うでしょうか。わたしはよほど急いでいるとき以外は、前にだれかがいるのは都合がいいなと思います。
なぜかと言うと、前の車が、いろんな情報を早めに知らせてくれるからです。障害物があって、それを交わさなければならない時、先にいる車やバイクが交わしている様子を見て、「あ、何かがあるのだな」と前もって知ることができます。速度を守るためにも、前の車についてけばかなり楽でもあります。そういうわけで、わたしは先を行く車がいた方が安心します。
長距離のロードレースに参加したことのある人は経験があるでしょう。長い道のりを1人で走り抜くよりも、だれか適当な人にくっついて走り、勝負どころまで力を温存させた方がはるかに楽に走ることができます。前を行く人の後ろにつくというのは、たくさんの点で有利なのです。
今週の福音朗読で、イエスはご自分の死と復活を予告し、それを聞いたペトロが「主よ、とんでもないことです。」(16・22)と答えました。イエスはそのペトロを「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」(16・23)とお叱りになります。この一連のやり取りは、「道を行くイエス」という見方で考えると、説教の初めに考えたことが生きてくると思います。
イエスがご自分の死と復活を予告したこと、これは、ご自分の歩く道を示したと考えることができます。復活に至る前に、十字架上で死ななければならない。このような道を示したのはイエスが初めてです。この先どんなことが待っているかわからないのですから、わたしたちの経験から言うと、イエスの後を従うことが大切です。
ところが、ペトロは「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と答えました。これは、イエスに待っているこれからの道に、後をついていく態度ではなくて、前に立ちはだかり、道をふさごうとする態度だったのです。これから何が起こるかもわからないのに、イエスの前に立ちふさがっては、人は神の望みを全うすることはできないのです。
そこでイエスは、あえてペトロにきつい言葉をかけました。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」御父への道、救いの完成への道、復活への道を歩き通すには、あなたはわたしに従うべきである。この道がどのように続くのか、わたしの歩く姿を見て、学びながらついてきなさいと諭しているのです。
イエスは明らかに、自分の後ろに引きさがれと求めます。イエスの後を従う時、イエスの思いを理解するようになります。なぜ、十字架上の死を通る必要があるのか、だれも分からないのですから、後に従って学ぶ以外にありません。
わたしたちは、イエスの後に従う生き方を受け入れることができるでしょうか。イエスの後に従う生き方が、御父の思いを知る生き方、イエスの思いを知る生き方だと、固く信じてついていくことができるでしょうか。
もしかしたら、イエスが示す道は、この日本で誰も選ぼうとしない道かもしれません。自分を捨てて、自分の十字架を背負ってついていく道です。誰も、喜んで選ぼうとしないかもしれません。
けれども、イエスが示す道を、イエスの後から従う人がいなければ、自分の命を救うこともできないでしょうし、多くの人の命を救うこともできません。だれか、イエスが示す道を選んで生きてみようと、決心してほしい。心からそう願います。
本当に、だれも選ぼうとしない道かもしれません。だれかに相談しても、何でそんな生き方を選ぶの?そんなの間違っていると、ペトロのように心配して言ってくれる人がいるかもしれません。けれども、イエスが示す道は、確かにあるのです。
たとえばそれは、司祭を目指す道や、シスターを目指す道です。今この日本で、司祭やシスターを目指すと言ったらだれも理解してくれないかもしれません。同級生も、学校の先生も、家族も、理解できないと言うかもしれません。けれども、この道はイエスのために自分の命を失って、それを得る生き方です。
1人くらい、だれにも理解できない生き方を選ぶ人がいてもよいではありませんか。1人くらい、イエスのために命を失って生きる道を選んでもよいではありませんか。だれも理解できない道を、もし選んでくれるなら、わたしはずっと応援します。物心両面で応援します。
そして、だれも選ばなかった道が間違っていないのだと、人々の前に証明しましょう。イエスが示した道を選んで、最後まで歩き通す人が現れるよう、ミサの中で願うことにしましょう。
‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第23主日
(マタイ18:15-20)
‥‥‥†‥‥‥‥
‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥
▼ついてないけれども、人とたくさん出会った1週間だったかも。250ccバイクに乗っているときに、今年流行の「局地的な豪雨」に見舞われ、水が入ってはいけない部分に水が入り、3度エンストを起こして動かせなくなった。さんざん電話して、中古車販売をしている若い青年社長にバイクを見てもらえることになった。本人がバイク好きだという。
▼雨の中で、カバンに入れていたものはすべて水に濡れてしまった。携帯電話も使えなくなり、5000円も払って交換する羽目になった。2011年以降のデータはすべて失ってしまった。それでも、ケータイを失ったおかげで知り合えた人もいた。同じ経験をした人だったり、子供たちが同じ経験をしたんだと話しかけてくれる人だったり。嬉しかった。
▼先週も、巡礼者が来てくれた。今回の巡礼者はかなり五島に入れ込んでいる方で、巡礼帳にほぼすべてのスタンプが押されていた。船をチャーターしででもお目当ての教会に行こうという熱意には頭が下がる。本来の職業の話や、どのようにして自分がカトリックの信仰に導かれていったのか、カトリックの信仰ゆえに思い悩んでいることとか、勢いよく話してくれた。
▼日本では、カトリックの信仰は現実には少数派だ。1億2千万人以上いる中で、日本人のカトリック信者は40万人くらいだろう。100分の1で120万人。さらにその3分の1なのだから、0.33%しかいないのである。1000人いて、3人か4人なのである。特に首都圏では、カトリック信者に出会った場合、カトリック教会を知る窓は、出会った希少なその人がすべてとなる可能性がある。
▼わたしは、先週来てくれた人と言い、その前に来てくれた人と言い、カトリック教会を知る窓として十分に役割を果たすことのできる人たちだと思う。願わくは、もっともっとたくさんのカトリック信者が、自分自身は最初で最後、出会うかもしれないカトリックを知る窓なのだと思って、日々を過ごしてほしい。
‥‥‥†‥‥‥
新企画今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第157回目。今年も巡礼に来てくれました。ほぼすべての教会を巡り記念の一枚。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/110828.jpg
ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/110828.mp3
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/110828.mp3
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
11/08/28(No.550)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第22主日
(マタイ16:21-27)
示された道はだれも選ばない道
‥‥‥†‥‥‥‥
最近いろいろとついてないです。大雨の中250ccのバイクで走っていてバイクが故障し、業者に引き取ってもらおうと、その場で携帯電話から連絡を取っていたら、携帯電話も使えなくなりました。今バイクは何とか引き取ってくれる業者が見つかり、携帯電話は新しいものを手に入れましたが、ここ半年のデータを失ってしまいました。これ以上悪いことが続かないことを願っています。
バイクと言えば、道路を走る時、みなさんは前にだれかがいると邪魔だなぁと思うでしょうか。都合がいいなと思うでしょうか。わたしはよほど急いでいるとき以外は、前にだれかがいるのは都合がいいなと思います。
なぜかと言うと、前の車が、いろんな情報を早めに知らせてくれるからです。障害物があって、それを交わさなければならない時、先にいる車やバイクが交わしている様子を見て、「あ、何かがあるのだな」と前もって知ることができます。速度を守るためにも、前の車についてけばかなり楽でもあります。そういうわけで、わたしは先を行く車がいた方が安心します。
長距離のロードレースに参加したことのある人は経験があるでしょう。長い道のりを1人で走り抜くよりも、だれか適当な人にくっついて走り、勝負どころまで力を温存させた方がはるかに楽に走ることができます。前を行く人の後ろにつくというのは、たくさんの点で有利なのです。
今週の福音朗読で、イエスはご自分の死と復活を予告し、それを聞いたペトロが「主よ、とんでもないことです。」(16・22)と答えました。イエスはそのペトロを「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」(16・23)とお叱りになります。この一連のやり取りは、「道を行くイエス」という見方で考えると、説教の初めに考えたことが生きてくると思います。
イエスがご自分の死と復活を予告したこと、これは、ご自分の歩く道を示したと考えることができます。復活に至る前に、十字架上で死ななければならない。このような道を示したのはイエスが初めてです。この先どんなことが待っているかわからないのですから、わたしたちの経験から言うと、イエスの後を従うことが大切です。
ところが、ペトロは「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と答えました。これは、イエスに待っているこれからの道に、後をついていく態度ではなくて、前に立ちはだかり、道をふさごうとする態度だったのです。これから何が起こるかもわからないのに、イエスの前に立ちふさがっては、人は神の望みを全うすることはできないのです。
そこでイエスは、あえてペトロにきつい言葉をかけました。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」御父への道、救いの完成への道、復活への道を歩き通すには、あなたはわたしに従うべきである。この道がどのように続くのか、わたしの歩く姿を見て、学びながらついてきなさいと諭しているのです。
イエスは明らかに、自分の後ろに引きさがれと求めます。イエスの後を従う時、イエスの思いを理解するようになります。なぜ、十字架上の死を通る必要があるのか、だれも分からないのですから、後に従って学ぶ以外にありません。
わたしたちは、イエスの後に従う生き方を受け入れることができるでしょうか。イエスの後に従う生き方が、御父の思いを知る生き方、イエスの思いを知る生き方だと、固く信じてついていくことができるでしょうか。
もしかしたら、イエスが示す道は、この日本で誰も選ぼうとしない道かもしれません。自分を捨てて、自分の十字架を背負ってついていく道です。誰も、喜んで選ぼうとしないかもしれません。
けれども、イエスが示す道を、イエスの後から従う人がいなければ、自分の命を救うこともできないでしょうし、多くの人の命を救うこともできません。だれか、イエスが示す道を選んで生きてみようと、決心してほしい。心からそう願います。
本当に、だれも選ぼうとしない道かもしれません。だれかに相談しても、何でそんな生き方を選ぶの?そんなの間違っていると、ペトロのように心配して言ってくれる人がいるかもしれません。けれども、イエスが示す道は、確かにあるのです。
たとえばそれは、司祭を目指す道や、シスターを目指す道です。今この日本で、司祭やシスターを目指すと言ったらだれも理解してくれないかもしれません。同級生も、学校の先生も、家族も、理解できないと言うかもしれません。けれども、この道はイエスのために自分の命を失って、それを得る生き方です。
1人くらい、だれにも理解できない生き方を選ぶ人がいてもよいではありませんか。1人くらい、イエスのために命を失って生きる道を選んでもよいではありませんか。だれも理解できない道を、もし選んでくれるなら、わたしはずっと応援します。物心両面で応援します。
そして、だれも選ばなかった道が間違っていないのだと、人々の前に証明しましょう。イエスが示した道を選んで、最後まで歩き通す人が現れるよう、ミサの中で願うことにしましょう。
‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第23主日
(マタイ18:15-20)
‥‥‥†‥‥‥‥
‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥
▼ついてないけれども、人とたくさん出会った1週間だったかも。250ccバイクに乗っているときに、今年流行の「局地的な豪雨」に見舞われ、水が入ってはいけない部分に水が入り、3度エンストを起こして動かせなくなった。さんざん電話して、中古車販売をしている若い青年社長にバイクを見てもらえることになった。本人がバイク好きだという。
▼雨の中で、カバンに入れていたものはすべて水に濡れてしまった。携帯電話も使えなくなり、5000円も払って交換する羽目になった。2011年以降のデータはすべて失ってしまった。それでも、ケータイを失ったおかげで知り合えた人もいた。同じ経験をした人だったり、子供たちが同じ経験をしたんだと話しかけてくれる人だったり。嬉しかった。
▼先週も、巡礼者が来てくれた。今回の巡礼者はかなり五島に入れ込んでいる方で、巡礼帳にほぼすべてのスタンプが押されていた。船をチャーターしででもお目当ての教会に行こうという熱意には頭が下がる。本来の職業の話や、どのようにして自分がカトリックの信仰に導かれていったのか、カトリックの信仰ゆえに思い悩んでいることとか、勢いよく話してくれた。
▼日本では、カトリックの信仰は現実には少数派だ。1億2千万人以上いる中で、日本人のカトリック信者は40万人くらいだろう。100分の1で120万人。さらにその3分の1なのだから、0.33%しかいないのである。1000人いて、3人か4人なのである。特に首都圏では、カトリック信者に出会った場合、カトリック教会を知る窓は、出会った希少なその人がすべてとなる可能性がある。
▼わたしは、先週来てくれた人と言い、その前に来てくれた人と言い、カトリック教会を知る窓として十分に役割を果たすことのできる人たちだと思う。願わくは、もっともっとたくさんのカトリック信者が、自分自身は最初で最後、出会うかもしれないカトリックを知る窓なのだと思って、日々を過ごしてほしい。
‥‥‥†‥‥‥
新企画今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第157回目。今年も巡礼に来てくれました。ほぼすべての教会を巡り記念の一枚。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/110828.jpg
ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===