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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
11/08/15(No.548)
‥‥‥†‥‥‥‥
聖母の被昇天
(ルカ1:39-56)
マリアに模範を仰いで今日を過ごす
‥‥‥†‥‥‥‥
聖母の被昇天の祭日を迎えました。福音は、マリアがエリザベットを訪問した場面と、その時にマリアの口からほとばしり出た賛美です。わたしは、朗読された出来事の中に聖母被昇天を予感させる点があると考えました。
マリアは、先に身ごもった親戚のエリザベットを訪問します。他にも、エリザベットを訪ねて行った親戚がいたのかどうか、はっきり書いていませんが、少なくとも、マリアは自分のことを横においてでも、エリザベットの身の回りのお世話をすることを優先させました。自分のことを横において、人のことを優先する。これは言うのは易しいですが、実行するのは難しいのです。
マリアは、エリザベットと時を過ごしている間に、神が自分になさったことを賛美します。大胆に神をたたえたのです。心の中でつぶやくのではなく、神がなさったことはすばらしいと、だれもが耳にするようなはっきりした態度で、神をたたえました。これも、わたしたちにできそうでできない、立派な態度です。
これらを考え合わせると、マリアは、生きておられる時からわたしたちに優れた模範を示しておられたことがわかります。隣人を自分のように愛する姿、心をつくし、力を尽くし、思いを尽くして神を愛する姿。そのどちらも、わたしたちのお手本となってくださったのです。
ですから、マリアが天に上げられたというのも、人類にお手本として示された栄冠なのだと、わたしは考えました。人は皆、天の国の栄冠を目指しています。天の国はわたしたちが最終的に目指すところですが、マリアはその目指すべき場所におられるということです。
もっと大胆に言うと、わたしたちが目指すすべての場所に、マリアはおられるのではないでしょうか。神を愛する、その最高到達点に、マリアがおられる。隣人を、自分のように愛するその最高到達点に、マリアがおられる。
わたしたちがたどり着くべきすべての場所に、マリアがおられる。わたしたちの目標のすべては、マリアをお手本とすべきだと、今日聖母被昇天のお祝いを通して、神は教えてくださっているのだと思います。
そこで、わたしたちのことを振り返ってみましょう。8月15日は、わたしたちにとってどんなことを思い出す日でしょうか。太平洋戦争が終わったということでしょうか。戦争が終わって、平和のありがたさを強調する日でしょうか。
わたしは今年初めて知ったのですが、同じ8月15日は、聖フランシスコ・ザビエルが日本に上陸した記念日なのだそうです。そうすると、今日というこの日は、わたしたちが宣教活動を意識する日と考えてもよいと思います。
いろいろ、意識する日があるわけですが、わたしたちが意識するすべてのことの理想、お手本として、今日マリアを思い出す必要があると思います。これまで考えて来たように、マリアはすべてのことにおいて、わたしたちのお手本として輝いています。今日8月15日をどのように意識し、過ごしていくか。その模範として、マリアを思い描くことは素晴らしいのではないでしょうか。
わたしたちも、マリアに倣って神をたたえましょう。その中で、わたしたちの模範としてマリアを与えてくださったことを加えて神をたたえましょう。わたしたちが目指すべき天の国に、わたしたちのどんな目標の先にも、マリアは常にそこにいてくださいます。マリアに模範を仰いで、今日一日を過ごしましょう。
‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第21主日
(マタイ16:13-20)
‥‥‥†‥‥‥‥
‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥
▼ひとりごと。8月9日夜の平和祈願ミサに参加し、教区報「よきおとずれ」の編集作業をし、紙面に割りつけて印刷所に回す。この一連の作業のため、9日(火)から12日(金)午前中までずっと大司教館に滞在していた。
▼大司教館には最上階に引退司祭の居住スペースがあり、引退司祭のためなのか、小さなチャペルも設置されている。わたしは滞在中の水・木・金、個人的なミサをした。こんなに立て続けに個人的なミサをしたのは初めてである。
▼「主は皆さんと共に」「また司祭と共に」どちらも自分で言わなければならないのだが、わたしの脳裏には、はっきりと浜串の平日のミサに参加している人たちが浮かんでいた。わたしは浜串に来てまだ1年半も経っていないのだが、わたしが思い浮かべることができたのは浜串の人々だけだった。
▼嬉しいというか、習慣は恐ろしいというか、長く滞在し、記憶している人々ではなく、目の前の人々が思い浮かんだことを、驚きつつも感謝しながらミサをささげた。面白いことに、「主は皆さんと共に」「また司祭と共に」と一人で口ずさんでも調子が出てこない。ましてや長い長い奉献文を一人で唱えていると、いつも同じ言葉なのに続きが出てこない。いてもいなくても、司祭は一人で唱えているはずなのに、いないと続かないのである。
▼やはり、みなさんと共にミサをささげるということは、素晴らしいことなのだと気づかされた。大司教館に、長崎のことをするためにいるのに、浜串に戻りたい気持ちになった。自分の居場所というか、待っていてくれる場所は、今は浜串なのだと、あらためて実感したひと時だった。
‥‥‥†‥‥‥
新企画今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第155回目。ハウステンボス、行きたかったなぁみたいな。やや、意気消沈?
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ホームページもご覧ください。
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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こうじ神父
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11/08/15(No.548)
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聖母の被昇天
(ルカ1:39-56)
マリアに模範を仰いで今日を過ごす
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聖母の被昇天の祭日を迎えました。福音は、マリアがエリザベットを訪問した場面と、その時にマリアの口からほとばしり出た賛美です。わたしは、朗読された出来事の中に聖母被昇天を予感させる点があると考えました。
マリアは、先に身ごもった親戚のエリザベットを訪問します。他にも、エリザベットを訪ねて行った親戚がいたのかどうか、はっきり書いていませんが、少なくとも、マリアは自分のことを横においてでも、エリザベットの身の回りのお世話をすることを優先させました。自分のことを横において、人のことを優先する。これは言うのは易しいですが、実行するのは難しいのです。
マリアは、エリザベットと時を過ごしている間に、神が自分になさったことを賛美します。大胆に神をたたえたのです。心の中でつぶやくのではなく、神がなさったことはすばらしいと、だれもが耳にするようなはっきりした態度で、神をたたえました。これも、わたしたちにできそうでできない、立派な態度です。
これらを考え合わせると、マリアは、生きておられる時からわたしたちに優れた模範を示しておられたことがわかります。隣人を自分のように愛する姿、心をつくし、力を尽くし、思いを尽くして神を愛する姿。そのどちらも、わたしたちのお手本となってくださったのです。
ですから、マリアが天に上げられたというのも、人類にお手本として示された栄冠なのだと、わたしは考えました。人は皆、天の国の栄冠を目指しています。天の国はわたしたちが最終的に目指すところですが、マリアはその目指すべき場所におられるということです。
もっと大胆に言うと、わたしたちが目指すすべての場所に、マリアはおられるのではないでしょうか。神を愛する、その最高到達点に、マリアがおられる。隣人を、自分のように愛するその最高到達点に、マリアがおられる。
わたしたちがたどり着くべきすべての場所に、マリアがおられる。わたしたちの目標のすべては、マリアをお手本とすべきだと、今日聖母被昇天のお祝いを通して、神は教えてくださっているのだと思います。
そこで、わたしたちのことを振り返ってみましょう。8月15日は、わたしたちにとってどんなことを思い出す日でしょうか。太平洋戦争が終わったということでしょうか。戦争が終わって、平和のありがたさを強調する日でしょうか。
わたしは今年初めて知ったのですが、同じ8月15日は、聖フランシスコ・ザビエルが日本に上陸した記念日なのだそうです。そうすると、今日というこの日は、わたしたちが宣教活動を意識する日と考えてもよいと思います。
いろいろ、意識する日があるわけですが、わたしたちが意識するすべてのことの理想、お手本として、今日マリアを思い出す必要があると思います。これまで考えて来たように、マリアはすべてのことにおいて、わたしたちのお手本として輝いています。今日8月15日をどのように意識し、過ごしていくか。その模範として、マリアを思い描くことは素晴らしいのではないでしょうか。
わたしたちも、マリアに倣って神をたたえましょう。その中で、わたしたちの模範としてマリアを与えてくださったことを加えて神をたたえましょう。わたしたちが目指すべき天の国に、わたしたちのどんな目標の先にも、マリアは常にそこにいてくださいます。マリアに模範を仰いで、今日一日を過ごしましょう。
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ちょっとひとやすみ
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▼ひとりごと。8月9日夜の平和祈願ミサに参加し、教区報「よきおとずれ」の編集作業をし、紙面に割りつけて印刷所に回す。この一連の作業のため、9日(火)から12日(金)午前中までずっと大司教館に滞在していた。
▼大司教館には最上階に引退司祭の居住スペースがあり、引退司祭のためなのか、小さなチャペルも設置されている。わたしは滞在中の水・木・金、個人的なミサをした。こんなに立て続けに個人的なミサをしたのは初めてである。
▼「主は皆さんと共に」「また司祭と共に」どちらも自分で言わなければならないのだが、わたしの脳裏には、はっきりと浜串の平日のミサに参加している人たちが浮かんでいた。わたしは浜串に来てまだ1年半も経っていないのだが、わたしが思い浮かべることができたのは浜串の人々だけだった。
▼嬉しいというか、習慣は恐ろしいというか、長く滞在し、記憶している人々ではなく、目の前の人々が思い浮かんだことを、驚きつつも感謝しながらミサをささげた。面白いことに、「主は皆さんと共に」「また司祭と共に」と一人で口ずさんでも調子が出てこない。ましてや長い長い奉献文を一人で唱えていると、いつも同じ言葉なのに続きが出てこない。いてもいなくても、司祭は一人で唱えているはずなのに、いないと続かないのである。
▼やはり、みなさんと共にミサをささげるということは、素晴らしいことなのだと気づかされた。大司教館に、長崎のことをするためにいるのに、浜串に戻りたい気持ちになった。自分の居場所というか、待っていてくれる場所は、今は浜串なのだと、あらためて実感したひと時だった。
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