蕎麦喰らいの日記

蕎麦の食べ歩き、してます。ついでに、日本庭園なども見ます。風流なのが大好きです。

清水園  梅雨入り直前

2014-06-16 22:29:01 | 古民家、庭園
戦国後期からの新発田の藩主、溝口家の下屋敷である。


清水園の名称は、この一体が清水谷と呼ばれていたことに由来するようだが、清水園の名は昭和半ば以降から使われたようである。


この土地は苔の生育に非常に適した気象環境にあるようだ。
京都東山にも劣らない見事な苔が、自然に育つという。


下屋敷であっても大名を迎えた格の高い座敷が備わる。
いつ訪れても多くの人で賑わっている書院であるが、この日は不思議な程に人出が少なく、書院を独占する瞬間を持てた。これは、実に希有な事に思われる。




この庭は、縣宗知により作庭され、その遥か後に田中泰阿弥により手が入れられたようだ。
しっとりとした感覚を伝える水の庭である。規模は確かに多くの京都の寺院のものより大きい。回遊式庭園の風景の展開が実に数多く用意されている。


書院手前の廊下部分にある腰高障子は、火災を起こした新発田城から持ってこられたもの。風雪により障子が傷むのを防止する工夫がなされている。


書院の西側は、二分割されて床の間が2つ設けられている。格の上下は床の間の深さなどで明確に分けられているが、やや不思議な造りである。しかし、そういえば、上越市郊外の林 富永邸の奥座敷にも、2つの床の間が設けられていたと記憶している。
林 富永邸の案内人の説明では、2つ設けられた床の間の使い分けは不明との事であった。


この庭の味わいの深さは過去に何度もご紹介した。何度も同じような画像を繰り返し掲載するのも能がないように想い、この2点のみを新規に掲載することとした。
梅雨入り直前でも、結構な雨が降ったためかこの庭へ導かれる流れがほとばしる。


母屋の前から遊び心で池に舟を浮かべ池をわたり、茶室へ望む。そういうストーリーを無視するように、船着き場の前に障害物のような石を立てたのは泰阿弥か?
それとも宗知の時からの装置なのだろうか。