子どもの頃、父の土産に干しブドウがあった。戦争中、父は徴用で水俣の工場に汽車で通っていた。干しブドウは多分食糧の乏しい時だったので抽選だったのだろう。当たらないときは他の人から分けてもらったのかもしれない。イモとカボチャとコッパダごしかない時代だったのでうれしかった。
小さい赤紫色の粒々を手にとって一粒一粒いとおしく食べた。とろけるような甘さを少しでも口の中に長く残すため、ゆっくり食べ、飲み込むのが惜しかった。いま干しブドウを見ると懐かしく立ち止まることもある。
出水市 畠中大喜 2017/8/18 毎日新聞鹿児島版掲載
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