KEN ROBINSONの学校教育批判です。
TEDですから元々は欧米の教育をイメージしているので
しょうが、日本にも共通する内容でした。
というか「欧米でもやはりそうなんだ。なら日本は・・・」
先日NHKの『プレゼン』で紹介された"Schools kill creativity"
という、ケン・ロビンソンのプレゼンテーションは
2006年6月にウェブサイトにアップされて以来、
今日までに1200万回以上再生されているようです。
支持をうけている証拠でしょう。
『塾や学校では「読み書き算盤」の教育でよい』という
私の意見とは、一見180度違う話のように思えますが
そんなことはなく、まったく同感するプレゼンでした。
○
元来、全ての子供には創造性=クリエイティビティが備わるが
大人(教育)がそれを潰している、と主張されます。
大人が失敗を「負」と評価するので創造性が摩耗してゆくのです。
世界中の学校が、数学や語学を重視し、アートを下に見ます。
大学入試のために教育をしているからそうなるのです。
「数学や語学は社会に出て有用であるが芸術では喰えない」
○
私だって一般論ではそう言うでしょうね。
本音は少し別のところにあっても、とりあえずは、そう言う。
よほど才能があるのならともかく、それほどでもないならば
数学や語学に力を入れる方が、将来性を確保しやすいというのが
「常識」でしょう。
逆に言うと社会がそれを望み、政治が従っただけです。
私も誰か生徒から相談をうければ、現実はこう、と常識を
アドバイスするのが先です。
(それでも、というのなら話は別になります。
よほど才能がある人は周りが止めても止まらないでしょうし。)
他人の生涯に亘っての責任を持てない人間=私としては
(この社会での安全)が優先されますから常識先行。
CREATIVITYよりLITERACYにね。
そういう読み書き算盤重視が創造性を殺す、とケンは
云うのですが、きっと短いプレゼンでは完全には云いづらい
ところもあったのではないでしょうか。
ギャグやヒューモアに富んだとても楽しい話ですから尚更。
○
ケン・ロビンソンの主張を続けましょう。
歴史的にも社会的にもリテラシーがクリエイティビィより
重視されてきたわけですが、さて現代はどうか。
大卒は町にあふれているではないか。
リテラシーだけではとても不十分、
地球は激変し、人口も爆発している、そんな中
これからは創造性に富む人間でないと通用しないであろう。
知性とはあらゆる感覚を使って考えることではないか。
「体を動かすことでモノを考える」ということも、アリなのです。
そういう面にそった学校教育が望まれるのに
創造性を「殺す」教育ばかりである、と言われます。
次いで、ジリアン・リンという女性の話を紹介されました。
ミュージカル『キャッツ』の振付師です。(今85歳だとか)
ジリアンは小さい頃、学習障害があるとされていました。
お母さんが悩まれて、或るスペシャリスト(訳では専門家)に
相談されたのだそうです。
一定の話が済んで彼女を部屋に一人で残し、大人が退室
その時にラジオをつけて出たのだそうです。
勉強では落ち着きのなかった彼女は部屋で一生懸命踊ってた。
で、スペシャリストが
"Gillian is't sick. She's a dancer."
もしここで「落ち着いて勉強させる方法」などが押付けられてたら・・・
すべての子供には未来があります。
大人に出来ることは「それにむけ何か手助けをすること」
carefullyにwiselyに。
○
まったくその通りですね。
付け加えますが、厳しさがないと逆に自由に伸びません。
甘やかし礼讃、ではありませんので念のため。
もちろん、これはケンの御高説ではなく、私の意見です。
◎
それでは、現在の学校で芸術を沢山教えればそれでよいか?
私には大いに疑問があります。
ケン・ロビンソンさんは楽観的なように見えましたけれど。
やはり創造性を摩耗させるだけではないか、と思えます。
何を、に問題があると言うより、どう、に問題があるからです。
リテラシーを教える「から」創造性が摩耗するのかどうか?
ならば言語を使う芸術はどうなるんでしょう。
音楽・絵画・舞踊・・今の学校で教えれば創造性が保てますか?
やはりズタズタにされるでしょう。特に日本では。
問題は学校の在り方。
国家が教育することに問題の根源があります。
もう上手くいかないのです。
(組合が悪い?・・私にはよく分かりません)
解決策は、ごく簡単に云うと、学校では読み書き算盤だけ。
(ほんとうは学校もなくし、塾がやればよい。
自由競争の導入です)
野球クラブ、ダンススクール、ピアノレッスン、美容学校
茶道、などなど、官制学校から離れて好きなことに励み、
それにお金と単位認定を出せばよいのです。
就学年齢も形態も自由に。
(結局、江戸時代の手習い・寺子屋に戻って、再構築です)
経済界や官僚、現国家機構を握っている人からは
そんな自由なシステムは認められそうもないですがね。
しかし、学習する権利は個人にあります。
それをあんな国家が握りこんで良いものですか!
TEDですから元々は欧米の教育をイメージしているので
しょうが、日本にも共通する内容でした。
というか「欧米でもやはりそうなんだ。なら日本は・・・」
先日NHKの『プレゼン』で紹介された"Schools kill creativity"
という、ケン・ロビンソンのプレゼンテーションは
2006年6月にウェブサイトにアップされて以来、
今日までに1200万回以上再生されているようです。
支持をうけている証拠でしょう。
『塾や学校では「読み書き算盤」の教育でよい』という
私の意見とは、一見180度違う話のように思えますが
そんなことはなく、まったく同感するプレゼンでした。
○
元来、全ての子供には創造性=クリエイティビティが備わるが
大人(教育)がそれを潰している、と主張されます。
大人が失敗を「負」と評価するので創造性が摩耗してゆくのです。
世界中の学校が、数学や語学を重視し、アートを下に見ます。
大学入試のために教育をしているからそうなるのです。
「数学や語学は社会に出て有用であるが芸術では喰えない」
○
私だって一般論ではそう言うでしょうね。
本音は少し別のところにあっても、とりあえずは、そう言う。
よほど才能があるのならともかく、それほどでもないならば
数学や語学に力を入れる方が、将来性を確保しやすいというのが
「常識」でしょう。
逆に言うと社会がそれを望み、政治が従っただけです。
私も誰か生徒から相談をうければ、現実はこう、と常識を
アドバイスするのが先です。
(それでも、というのなら話は別になります。
よほど才能がある人は周りが止めても止まらないでしょうし。)
他人の生涯に亘っての責任を持てない人間=私としては
(この社会での安全)が優先されますから常識先行。
CREATIVITYよりLITERACYにね。
そういう読み書き算盤重視が創造性を殺す、とケンは
云うのですが、きっと短いプレゼンでは完全には云いづらい
ところもあったのではないでしょうか。
ギャグやヒューモアに富んだとても楽しい話ですから尚更。
○
ケン・ロビンソンの主張を続けましょう。
歴史的にも社会的にもリテラシーがクリエイティビィより
重視されてきたわけですが、さて現代はどうか。
大卒は町にあふれているではないか。
リテラシーだけではとても不十分、
地球は激変し、人口も爆発している、そんな中
これからは創造性に富む人間でないと通用しないであろう。
知性とはあらゆる感覚を使って考えることではないか。
「体を動かすことでモノを考える」ということも、アリなのです。
そういう面にそった学校教育が望まれるのに
創造性を「殺す」教育ばかりである、と言われます。
次いで、ジリアン・リンという女性の話を紹介されました。
ミュージカル『キャッツ』の振付師です。(今85歳だとか)
ジリアンは小さい頃、学習障害があるとされていました。
お母さんが悩まれて、或るスペシャリスト(訳では専門家)に
相談されたのだそうです。
一定の話が済んで彼女を部屋に一人で残し、大人が退室
その時にラジオをつけて出たのだそうです。
勉強では落ち着きのなかった彼女は部屋で一生懸命踊ってた。
で、スペシャリストが
"Gillian is't sick. She's a dancer."
もしここで「落ち着いて勉強させる方法」などが押付けられてたら・・・
すべての子供には未来があります。
大人に出来ることは「それにむけ何か手助けをすること」
carefullyにwiselyに。
○
まったくその通りですね。
付け加えますが、厳しさがないと逆に自由に伸びません。
甘やかし礼讃、ではありませんので念のため。
もちろん、これはケンの御高説ではなく、私の意見です。
◎
それでは、現在の学校で芸術を沢山教えればそれでよいか?
私には大いに疑問があります。
ケン・ロビンソンさんは楽観的なように見えましたけれど。
やはり創造性を摩耗させるだけではないか、と思えます。
何を、に問題があると言うより、どう、に問題があるからです。
リテラシーを教える「から」創造性が摩耗するのかどうか?
ならば言語を使う芸術はどうなるんでしょう。
音楽・絵画・舞踊・・今の学校で教えれば創造性が保てますか?
やはりズタズタにされるでしょう。特に日本では。
問題は学校の在り方。
国家が教育することに問題の根源があります。
もう上手くいかないのです。
(組合が悪い?・・私にはよく分かりません)
解決策は、ごく簡単に云うと、学校では読み書き算盤だけ。
(ほんとうは学校もなくし、塾がやればよい。
自由競争の導入です)
野球クラブ、ダンススクール、ピアノレッスン、美容学校
茶道、などなど、官制学校から離れて好きなことに励み、
それにお金と単位認定を出せばよいのです。
就学年齢も形態も自由に。
(結局、江戸時代の手習い・寺子屋に戻って、再構築です)
経済界や官僚、現国家機構を握っている人からは
そんな自由なシステムは認められそうもないですがね。
しかし、学習する権利は個人にあります。
それをあんな国家が握りこんで良いものですか!
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