美しさは時代で変わる

2009-07-11 18:15:39 | 塾あれこれ
娘よ、君らだって時代が違えば可愛いと言われたかも。

平安時代の美女と現代の美女とでは基準がずいぶんと
違いますよね。

地域での違いもありそうです。
韓国と日本の男女スターを並べてみれば選択基準の
違いがあることは分かります。
整形技術の差ではないでしょう。
文化がそういう整形を要求するのです。

時代でも、今80年代の日本の化粧法を見れば
ずいぶん変わるものだなあと分りますよね。
もっとも、商売がらみで変えてゆかなければならない
ご苦労も化粧品会社ほか、おありのようで。


物が媒介としてある人間の営みでは一定の客観的評価
が可能であるが、頭脳を通してしか評価できない芸術
などは客観的にはなりえません。

ラーメンは食ってみれば分ります。
奥田元宋と平山郁夫とどっちがまともって比べられます?

客観的評価ができなくても部外者であれば一向に構わ
ないのでしょうが、芸術というもののなかで自分を
問おうとする人は、どうすればよいか決定的基準が
ないのが困りますよね。

で、たいがいは周りと同じ方向で評価しようとします。
いまその世界ではどういうことが評価されているかを
勉強するわけです。
師と見込んだ人の考えを必死に学んでみたり。

一定のレベルには上がれるのですが、そこで頭打ち。
だって皆と同じ意見に盲従するのですから。

それがどれほど危険かは、歴史が証明しています。

歴史に登場いただかなくても数十年前の流行芸術家が
いまどうなっているか、それでも分ります。
当時はこぞって天才と持ち上げていましたがね。


学校の先生も、どうしても流されやすい。
画家で食えないのが学校の先生をするのです。
今、はやりの表現がヨシとなりますね。

「う~ん、これ面白いね」

なに、今はやりの漫画チックなものの影響を受けて
いるだけなのに、まるでその子が自力で開発してる
ような評価をします。

こんな先生のいうことを真に受けて自分にはセンスが
あるなどと将来を決め、どれほどの人が・・・

学校の先生が「オモシロイネ」というと、危ない!

子供にわけのワカラン固まりをつくらせて、どうよ?

たとえ下手でもその子なりの表現法が上達することに
努力する授業などはなされず、一部のオモシロイ子供
と遊んでいる先生が多いのではないでしょうか。
(「みんなオモシロイ」なんて嘘でしょう。
  全員を平等に扱っているハズがありません。)

天才などは学校の先生を必要としません。
むしろ邪魔であるようです。

ならば教師は何のために・・・


美術の先生の悪口ではありません。

国語なら国語でどんな詩の書き方を教えているか。
自分が書けもしない先生が「世の中のハヤリ」を
真似させているのではないか?

では教師、教員とはどのようなスタンスで仕事が
可能なのでしょう?


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