『折々のことば』4/26 さあ難しいですね。
『自分が何に対して自分であるかと言うその相手方が、つねに
自分を測る尺度となる』
キエルケゴール
哲学なんて分からんもんね。
どんな文脈で、本当はどんな言葉で書かれているのかも
知りません。
誰かが解説されれば、ははあ、そうですか。
別の説に出会えば、ええ、そうだったんですか。
自分というものが積極的に拘れません。
つまり、本当には身につかないのが素人にとっての哲学。
○
鷲田先生は、人との出会いとして解説されます。
自分に強い影響を与える人との出会い、
その存在からの直接間接の強い影響が自分を変えている
そこから相対的な視点で自分というものを見なさい、と
言うことなのでしょう。
でも、少なくともキエルケゴールは、訳文でみるかぎり
「その相手方」としていて(また、何に対してとも)
相手方とは人に限らないかもしれません。
(たとえば木彫の作家は、彫る相手の樹かもしれません)
(信心深い人は、霊的な存在がそれかも)
鷲田センセ、リードが少し強引じゃありません?
もちろん、先生の仰る通りかもしれません、はは。
しかしどうも哲学者が、今のことを言ってるらしいのに
つまり人間が生きる瞬間、自分を照らす話であるのに
鷲田センセの解説は、人の一生を見る話になっています。
でも、こんなイチャモン、短い訳文からの悪態で
あまり品のよい話ではありませんでした。
『自分が何に対して自分であるかと言うその相手方が、つねに
自分を測る尺度となる』
キエルケゴール
哲学なんて分からんもんね。
どんな文脈で、本当はどんな言葉で書かれているのかも
知りません。
誰かが解説されれば、ははあ、そうですか。
別の説に出会えば、ええ、そうだったんですか。
自分というものが積極的に拘れません。
つまり、本当には身につかないのが素人にとっての哲学。
○
鷲田先生は、人との出会いとして解説されます。
自分に強い影響を与える人との出会い、
その存在からの直接間接の強い影響が自分を変えている
そこから相対的な視点で自分というものを見なさい、と
言うことなのでしょう。
でも、少なくともキエルケゴールは、訳文でみるかぎり
「その相手方」としていて(また、何に対してとも)
相手方とは人に限らないかもしれません。
(たとえば木彫の作家は、彫る相手の樹かもしれません)
(信心深い人は、霊的な存在がそれかも)
鷲田センセ、リードが少し強引じゃありません?
もちろん、先生の仰る通りかもしれません、はは。
しかしどうも哲学者が、今のことを言ってるらしいのに
つまり人間が生きる瞬間、自分を照らす話であるのに
鷲田センセの解説は、人の一生を見る話になっています。
でも、こんなイチャモン、短い訳文からの悪態で
あまり品のよい話ではありませんでした。
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