今年4月に全日本学習塾連絡会議というところが
千頁を超える分厚い『学習塾百年の歴史・
塾団体五十年史』を出版されました。
山口塾もその組織のメンバーで、塾長・恭弘先生も
重要な役職を務めておられたようです。
上記の本に、各塾の歴史を簡略に記すコーナーがあり
塾長も文をよせておられます。4000文字くらいかな。
その中に以下の文があり、少しく私の実感と異なるので
私から見た中学部を書いてみたく思います。
恭弘先生の文は限られた紙幅で長い歴史をまとめておられ
中学部への言及が少なくならざるをえないのです。
私が訂正したり補正したりという「をこの沙汰」を
しようというつもりではないことを断っておきますね。
あくまで私から見えていた山口塾中学部の姿です。
○
まず恭弘先生の文を引用しましょう。
「全国私塾連盟を通して、他地域の先生方との交流も
深まり、広島においては昭和61年(1986)に生徒・保護者の
要望もあり、G学院のJ先生と広島市佐伯区楽々園に
中学部を開設することとなった。」(表記一部修正)
中学部に触れてあるのは上記だけです。
その後などにも触れておられません。
これではさすがに分かりづらいでしょ?
○
まず、中学部スタートの前史から。
私が社会人になってマル9年の東京生活を終え
けっこうボロんチョになって広島に戻ったのは
30代になってすぐのことでした。
母と同居するにしても収入のアテは必要です。
悩んだ末ではありますが(←学習塾業界ってアヤシイ)
山口塾に仮採用をして頂きました。
収入は手取りで1/4以下になりましたけれども(1/5か?)
ド素人ですからやむをえません。
すぐに5、6年生など教えられませんから初めは小4。
当時はその学年はお遊び感覚でしたね。
小4は楽しかった!
前田先生と二人で小4を「儲けの出る学年」「必要な学年」
に育てたのはだれあろう・・へへへ・・・わ、た、し。
でも時間割の関係で小4だけでは夜がガラ空きになる私です。
ちょうどその時に中学受験で失敗した生徒保護者から
引き続き面倒をみてくれ、というお話があったのです。
(初めは3名)
あとで分かったのですが、こんな依頼はその以前にも随分
あったのですが、アルバイトなどでお茶を濁していると
中1の夏休み前後で来なくなるのですね。
塾長としてみればダメモト、ちょうどヒマな奴がいるから
「井上やってみろ」ということになったのです。
私としては一生懸命やらざるをえません。
少人数で気持ちも入ったしね。
生徒も皆、可愛かった。
途中で若干増員もあり最後は男3女7の計10人
一学年だけの持ちあがりで、パイロット版をやった感じに
なります。
(教室は己斐教室の空き部屋を転々と)
場当たりのなりゆきまかせで3年が過ぎました。
何しろ小学部からすればジャマですからねえ。
○
高校受験では男の子は修道不合格でしたが
女の子のうち3名が清心に合格(ジャ~ン)
10名位の合格しか出さなかった中で驚きの数字です。
後から助っ人に入ってくれた二人の講師とともに
喜びましたねえ。
それが確かS59年の春です。
塾長が突然「中学部をやる、井上がやれ」と言いだし
己斐の責任者H先生は大不満。
じゃ五日市で空き教室を使ってやれという結論になりました。
Hさんには「井上は裏で汚いことをやって塾長に中学部を
任せてもらうようにしたんだろ」と数時間に亘って
ネチネチ言われてしまいました。
後で分かったのですが、ずっと以前(多分10年くらい前)、
塾長と約束をし、中学部はHがやるとなっていたようです。
あくまで伝聞ではありますが、納得できる話でしたね。
○
さて五日市、旧塾舎という耐震性ゼロの予備校舎があり
そこの二階(倉庫みたいになってた)をあてがわれました。
生徒は20名弱。
外付けの階段ではヤモリが5匹10匹といる
・・これで雰囲気は伝わるでしょうか。
そこからスタートして2年目は中一、中二の2学年と
少しずつ育っていきました。
3年目の春に、楽々園で広電駅ビルが出来あがり
中学部はそこへ行けということになったのです。
それが上記の塾長の文に繋がるのですが
スミマセン、また明日。
○
本文の下に出る広告は私=井上とは全く無関係です。
というより私の価値感と正反対のものが多そうですね。
私がそれなりに一生懸命書いてもあいつらの宣伝になる?
千頁を超える分厚い『学習塾百年の歴史・
塾団体五十年史』を出版されました。
山口塾もその組織のメンバーで、塾長・恭弘先生も
重要な役職を務めておられたようです。
上記の本に、各塾の歴史を簡略に記すコーナーがあり
塾長も文をよせておられます。4000文字くらいかな。
その中に以下の文があり、少しく私の実感と異なるので
私から見た中学部を書いてみたく思います。
恭弘先生の文は限られた紙幅で長い歴史をまとめておられ
中学部への言及が少なくならざるをえないのです。
私が訂正したり補正したりという「をこの沙汰」を
しようというつもりではないことを断っておきますね。
あくまで私から見えていた山口塾中学部の姿です。
○
まず恭弘先生の文を引用しましょう。
「全国私塾連盟を通して、他地域の先生方との交流も
深まり、広島においては昭和61年(1986)に生徒・保護者の
要望もあり、G学院のJ先生と広島市佐伯区楽々園に
中学部を開設することとなった。」(表記一部修正)
中学部に触れてあるのは上記だけです。
その後などにも触れておられません。
これではさすがに分かりづらいでしょ?
○
まず、中学部スタートの前史から。
私が社会人になってマル9年の東京生活を終え
けっこうボロんチョになって広島に戻ったのは
30代になってすぐのことでした。
母と同居するにしても収入のアテは必要です。
悩んだ末ではありますが(←学習塾業界ってアヤシイ)
山口塾に仮採用をして頂きました。
収入は手取りで1/4以下になりましたけれども(1/5か?)
ド素人ですからやむをえません。
すぐに5、6年生など教えられませんから初めは小4。
当時はその学年はお遊び感覚でしたね。
小4は楽しかった!
前田先生と二人で小4を「儲けの出る学年」「必要な学年」
に育てたのはだれあろう・・へへへ・・・わ、た、し。
でも時間割の関係で小4だけでは夜がガラ空きになる私です。
ちょうどその時に中学受験で失敗した生徒保護者から
引き続き面倒をみてくれ、というお話があったのです。
(初めは3名)
あとで分かったのですが、こんな依頼はその以前にも随分
あったのですが、アルバイトなどでお茶を濁していると
中1の夏休み前後で来なくなるのですね。
塾長としてみればダメモト、ちょうどヒマな奴がいるから
「井上やってみろ」ということになったのです。
私としては一生懸命やらざるをえません。
少人数で気持ちも入ったしね。
生徒も皆、可愛かった。
途中で若干増員もあり最後は男3女7の計10人
一学年だけの持ちあがりで、パイロット版をやった感じに
なります。
(教室は己斐教室の空き部屋を転々と)
場当たりのなりゆきまかせで3年が過ぎました。
何しろ小学部からすればジャマですからねえ。
○
高校受験では男の子は修道不合格でしたが
女の子のうち3名が清心に合格(ジャ~ン)
10名位の合格しか出さなかった中で驚きの数字です。
後から助っ人に入ってくれた二人の講師とともに
喜びましたねえ。
それが確かS59年の春です。
塾長が突然「中学部をやる、井上がやれ」と言いだし
己斐の責任者H先生は大不満。
じゃ五日市で空き教室を使ってやれという結論になりました。
Hさんには「井上は裏で汚いことをやって塾長に中学部を
任せてもらうようにしたんだろ」と数時間に亘って
ネチネチ言われてしまいました。
後で分かったのですが、ずっと以前(多分10年くらい前)、
塾長と約束をし、中学部はHがやるとなっていたようです。
あくまで伝聞ではありますが、納得できる話でしたね。
○
さて五日市、旧塾舎という耐震性ゼロの予備校舎があり
そこの二階(倉庫みたいになってた)をあてがわれました。
生徒は20名弱。
外付けの階段ではヤモリが5匹10匹といる
・・これで雰囲気は伝わるでしょうか。
そこからスタートして2年目は中一、中二の2学年と
少しずつ育っていきました。
3年目の春に、楽々園で広電駅ビルが出来あがり
中学部はそこへ行けということになったのです。
それが上記の塾長の文に繋がるのですが
スミマセン、また明日。
○
本文の下に出る広告は私=井上とは全く無関係です。
というより私の価値感と正反対のものが多そうですね。
私がそれなりに一生懸命書いてもあいつらの宣伝になる?