話がダラダラと続いてしまいました。
これでもかなり削っているのですが。
3Aが井上でなくても大丈夫そうだと見込めたとたん
新旧交代の加速が起きてきました。
先にも述べた、組織化、室長の変更、新しい教室への
配置転換(部分的窓際族化ですね)などで始めていた
若手へのシフトの加速です。
私ですら五十の声を聞こうかというトシでしたから
ベテランの高齢化は切実な問題です。
いつまで教える力がもつのか、高い給与をどうするか。
(次第に給与カットをしていましたが、元が高い)
若手への移行、塾長の負担軽減(二代目塾長哲弘へ)
などと並んで今までの功績あるベテランをどう扱うか
大きな課題になっていたのです。
塾の組織化、仕事のマニュアル化、教材の整備などを
進めてゆくなかで、(3A)つまり私も問題だった。
それが解決する見通しが立ったのです。
○
大きな方向転換が迫る中、私は少数派代表、
非常に大きな会議を控え、敗色濃厚でしたが
言うべきことは言って・・と思っていました。
そうしたら一人暮らしの叔父が突然亡くなり
会議そのものへの出席が出来なくなりました。
(私と母で遺体引き取りから葬儀まで)
その間に、塾は決まっちゃった。。。
で、端折りますが、3度目の正直で今度こそ辞めました。
50から先の10年間は、罪滅ぼしではありませんが
やるべきと思いつつ出来なかったことを自宅でやると。
これなら何だかんだ言ってもお世話になった山口塾へ
迷惑をかけることもありません。
恭弘先生にもご納得を頂き、円満退社です。
あのまま私が3Aのノウハウを握りこんでいたら
どうなってたかなあ。
3Bなんてやるんじゃなくて・・・
私、甘かった?
○
山口塾中学部己斐教室は、楽々園教室のずいぶん後から
(私は時期尚早と反対したのですが)塾長が決定しました。
独立性を高くして競争すればよい、という小学部の考えを
尊重していましたので己斐教室のことはあまり存じません。
中学部の会議でも何も発言しないしね。
実際は楽々園とは「あえて違えて」おられたようですが。
私がいる間、当然ですが楽々園が負けたことなどなく
己斐も妙な意地をはらねば、もっと伸びたのにね。
教員の能力を超える仕組みの力が分かってなかったのかな。
ついでに言いますと己斐教室を新たに作ったのは
保護者からのご要望を頂いたこともあるでしょうが、
内部要因として(井上のチェック)もあったはずです。
中学部をブラックボックス状態では心配なのです。
(勝手が過ぎる奴)なので万一、敵にまわると困るでしょ。
私に言わせれば「それが失礼だっちゅーの」
チェック以外には己斐での教員の左遷先作り。
◎
若手(のちに造反する連中)が力を持ち始めると
「中学部は儲かっていないのに給与水準が同じなのは
納得できない」
と言い始めてもいました。
どこからそんな情報が分かったんでしょうかね。
俺たちにはもっと給料をよこせ、という意味だったのか?
私が辞めた後少しずつ世代交代も進み、ベテランには
良い熨斗をつけての退職の勧めがあったようです。
井上は辞めて何とかなってるようだ、というのもありまして
その動きが加速している最中に、何を思ったか
後を任された若手が生徒をごそっと引き抜いて新塾を作っちゃった。
私が辞めて1年後です。
やっと自分たちの天下になったハズなのに。
恭弘先生の、誰を信用すべきかの目が狂っていたのです。
二代目塾長になっていた哲弘先生も持ち逃げされたショックを
回復できないままズルズルと後退、また後退の連続。
少しずつ教員の首を切るしか能がなかった。
逃げたアイルの連中に裁判を起こしても勝てない、とは。
暫く経つと、それまで培ってきていた山口塾というブランドで
客が来てくれても「こりゃアカン」と逃げ出すような
塾になっていたのです。
この話は保護者からよく聞かされました。
「先生、そうおっしゃるけれど今の山口は、こうですよ・・・」
○
話は今年の春に飛びます。
元の楽々園教員の何人かで塾長をお招きし食事会をしました。
その席上、恭弘先生は聞かれもしていないのに
「山口塾の失敗の原因は・・・」と話し始めたのです。
「高陽に、頼まれて教室を開き、ボクが全ての生徒を見られ
なくなってから、オカシクなった。
それまでは己斐も五日市も生徒を掌握出来てたのに」
実際に、高陽には授業などの顔出しをしていませんでした。
しかしそれは私が辞めるわずか2年前の話です。
高陽を始めたときすでに十数年やっていた山口塾中学部で
塾長が一切生徒を教えていなかったことは
彼の頭の中でどうなってるんだろう。
しかも我々を目の前にして言うか?
どうも彼の意識では山口塾には中学部が入っていないのですね。
大失敗をして自分の名誉まで傷つけたことを何とか言い訳したい
気持ちは分かります。
高陽は潰れた塾を頼まれて引き受けた教室ですから
それを失敗のきっかけにしておきたい。
そこで上記の発言をあちこちでしているのでしょう。
で、はしなくも彼のホンネがバレちゃった。
小学部のためにも良い中学部を、と一生懸命に
人生を注ぎ込んだ私がバカだったということになります。
◎
その後、時折、「井上=善玉・恭弘=半悪玉」説を反芻しています。
年寄りが明け方など一端目覚めるとあと眠れない、
半分起きているような眠りかけているような、そんな時。
(私=善)は私の勝手極まる思込で、実態は、この扱いにくい者を
どうしようか、大変だったのが正解ではないか?
井上悪玉・恭弘善玉説。
「やっと辞めてくれた」とホっとしていたのではないか。
でも、それなら3Aを始めるきっかけになったツルシアゲの時に
辞めさせてりゃ良かったのにねえ。
なら私も好きな仕事ができた。
○
とはいえ、歴史に感謝もしています。
3Aの仕事は充実していました。
大変だけれど楽しかった。
多くの優秀な生徒に恵まれていましたから。
ひどかった自分も思いだされるので苦い部分もありますが。
これでもかなり削っているのですが。
3Aが井上でなくても大丈夫そうだと見込めたとたん
新旧交代の加速が起きてきました。
先にも述べた、組織化、室長の変更、新しい教室への
配置転換(部分的窓際族化ですね)などで始めていた
若手へのシフトの加速です。
私ですら五十の声を聞こうかというトシでしたから
ベテランの高齢化は切実な問題です。
いつまで教える力がもつのか、高い給与をどうするか。
(次第に給与カットをしていましたが、元が高い)
若手への移行、塾長の負担軽減(二代目塾長哲弘へ)
などと並んで今までの功績あるベテランをどう扱うか
大きな課題になっていたのです。
塾の組織化、仕事のマニュアル化、教材の整備などを
進めてゆくなかで、(3A)つまり私も問題だった。
それが解決する見通しが立ったのです。
○
大きな方向転換が迫る中、私は少数派代表、
非常に大きな会議を控え、敗色濃厚でしたが
言うべきことは言って・・と思っていました。
そうしたら一人暮らしの叔父が突然亡くなり
会議そのものへの出席が出来なくなりました。
(私と母で遺体引き取りから葬儀まで)
その間に、塾は決まっちゃった。。。
で、端折りますが、3度目の正直で今度こそ辞めました。
50から先の10年間は、罪滅ぼしではありませんが
やるべきと思いつつ出来なかったことを自宅でやると。
これなら何だかんだ言ってもお世話になった山口塾へ
迷惑をかけることもありません。
恭弘先生にもご納得を頂き、円満退社です。
あのまま私が3Aのノウハウを握りこんでいたら
どうなってたかなあ。
3Bなんてやるんじゃなくて・・・
私、甘かった?
○
山口塾中学部己斐教室は、楽々園教室のずいぶん後から
(私は時期尚早と反対したのですが)塾長が決定しました。
独立性を高くして競争すればよい、という小学部の考えを
尊重していましたので己斐教室のことはあまり存じません。
中学部の会議でも何も発言しないしね。
実際は楽々園とは「あえて違えて」おられたようですが。
私がいる間、当然ですが楽々園が負けたことなどなく
己斐も妙な意地をはらねば、もっと伸びたのにね。
教員の能力を超える仕組みの力が分かってなかったのかな。
ついでに言いますと己斐教室を新たに作ったのは
保護者からのご要望を頂いたこともあるでしょうが、
内部要因として(井上のチェック)もあったはずです。
中学部をブラックボックス状態では心配なのです。
(勝手が過ぎる奴)なので万一、敵にまわると困るでしょ。
私に言わせれば「それが失礼だっちゅーの」
チェック以外には己斐での教員の左遷先作り。
◎
若手(のちに造反する連中)が力を持ち始めると
「中学部は儲かっていないのに給与水準が同じなのは
納得できない」
と言い始めてもいました。
どこからそんな情報が分かったんでしょうかね。
俺たちにはもっと給料をよこせ、という意味だったのか?
私が辞めた後少しずつ世代交代も進み、ベテランには
良い熨斗をつけての退職の勧めがあったようです。
井上は辞めて何とかなってるようだ、というのもありまして
その動きが加速している最中に、何を思ったか
後を任された若手が生徒をごそっと引き抜いて新塾を作っちゃった。
私が辞めて1年後です。
やっと自分たちの天下になったハズなのに。
恭弘先生の、誰を信用すべきかの目が狂っていたのです。
二代目塾長になっていた哲弘先生も持ち逃げされたショックを
回復できないままズルズルと後退、また後退の連続。
少しずつ教員の首を切るしか能がなかった。
逃げたアイルの連中に裁判を起こしても勝てない、とは。
暫く経つと、それまで培ってきていた山口塾というブランドで
客が来てくれても「こりゃアカン」と逃げ出すような
塾になっていたのです。
この話は保護者からよく聞かされました。
「先生、そうおっしゃるけれど今の山口は、こうですよ・・・」
○
話は今年の春に飛びます。
元の楽々園教員の何人かで塾長をお招きし食事会をしました。
その席上、恭弘先生は聞かれもしていないのに
「山口塾の失敗の原因は・・・」と話し始めたのです。
「高陽に、頼まれて教室を開き、ボクが全ての生徒を見られ
なくなってから、オカシクなった。
それまでは己斐も五日市も生徒を掌握出来てたのに」
実際に、高陽には授業などの顔出しをしていませんでした。
しかしそれは私が辞めるわずか2年前の話です。
高陽を始めたときすでに十数年やっていた山口塾中学部で
塾長が一切生徒を教えていなかったことは
彼の頭の中でどうなってるんだろう。
しかも我々を目の前にして言うか?
どうも彼の意識では山口塾には中学部が入っていないのですね。
大失敗をして自分の名誉まで傷つけたことを何とか言い訳したい
気持ちは分かります。
高陽は潰れた塾を頼まれて引き受けた教室ですから
それを失敗のきっかけにしておきたい。
そこで上記の発言をあちこちでしているのでしょう。
で、はしなくも彼のホンネがバレちゃった。
小学部のためにも良い中学部を、と一生懸命に
人生を注ぎ込んだ私がバカだったということになります。
◎
その後、時折、「井上=善玉・恭弘=半悪玉」説を反芻しています。
年寄りが明け方など一端目覚めるとあと眠れない、
半分起きているような眠りかけているような、そんな時。
(私=善)は私の勝手極まる思込で、実態は、この扱いにくい者を
どうしようか、大変だったのが正解ではないか?
井上悪玉・恭弘善玉説。
「やっと辞めてくれた」とホっとしていたのではないか。
でも、それなら3Aを始めるきっかけになったツルシアゲの時に
辞めさせてりゃ良かったのにねえ。
なら私も好きな仕事ができた。
○
とはいえ、歴史に感謝もしています。
3Aの仕事は充実していました。
大変だけれど楽しかった。
多くの優秀な生徒に恵まれていましたから。
ひどかった自分も思いだされるので苦い部分もありますが。