浪花節は「語る」
講談は「読む」
文楽は浄瑠璃を「語る」
歌舞伎にも「語る」があり
「噺す」のは落語だけでしょうか。
落語は語るものとは言いません。
「かたる」には「騙る」で人をたぶらかす意も。
個人的な感想ですが「語る」には(完成形を)という
イメージがつきます。
「はなす」はそれらよりユルイ感じがします。
自分の爺さんが「あの時に、の」と話す
叔父が「そう、あん時はの」と話す
同じ事でもニュアンスが違うのは
喋り手の個性が反映されるからです。
同じ、『文七元結』という噺が演者によって
ずいぶんと違うものになるのも同じですね。
浄瑠璃では上手い下手の差がつき易いですが
噺家ではそれはやりづらい。
小さんと正蔵と(いずれも先代ですが)を比べる
訳にはいきません。
少なくとも「公」には。
好き嫌いがあるだけです。
上記の爺さんと叔父どちらが好きかで
話の面白さが変わってきますね。
○
八代目正蔵が、あまりに似たことをするな
と言いました。
例えば女性をえがくときにナヨナヨとさせすぎては
いけません。
声色も地声で良いのです。
なぜなら話し手の個性が大切だから。
よって噺は演者によって変化があるのです。
志ん朝などは上手すぎて、これからという時に
早死にをしました。
返す返すも残念でした。
○
浄瑠璃は「語り」ます。
それによって人形や演者が動きます。
噺ではありえないことですね。
講談は「読む」
文楽は浄瑠璃を「語る」
歌舞伎にも「語る」があり
「噺す」のは落語だけでしょうか。
落語は語るものとは言いません。
「かたる」には「騙る」で人をたぶらかす意も。
個人的な感想ですが「語る」には(完成形を)という
イメージがつきます。
「はなす」はそれらよりユルイ感じがします。
自分の爺さんが「あの時に、の」と話す
叔父が「そう、あん時はの」と話す
同じ事でもニュアンスが違うのは
喋り手の個性が反映されるからです。
同じ、『文七元結』という噺が演者によって
ずいぶんと違うものになるのも同じですね。
浄瑠璃では上手い下手の差がつき易いですが
噺家ではそれはやりづらい。
小さんと正蔵と(いずれも先代ですが)を比べる
訳にはいきません。
少なくとも「公」には。
好き嫌いがあるだけです。
上記の爺さんと叔父どちらが好きかで
話の面白さが変わってきますね。
○
八代目正蔵が、あまりに似たことをするな
と言いました。
例えば女性をえがくときにナヨナヨとさせすぎては
いけません。
声色も地声で良いのです。
なぜなら話し手の個性が大切だから。
よって噺は演者によって変化があるのです。
志ん朝などは上手すぎて、これからという時に
早死にをしました。
返す返すも残念でした。
○
浄瑠璃は「語り」ます。
それによって人形や演者が動きます。
噺ではありえないことですね。