落語は話す

2016-12-09 11:54:53 | 塾あれこれ
浪花節は「語る」
講談は「読む」
文楽は浄瑠璃を「語る」
歌舞伎にも「語る」があり

「噺す」のは落語だけでしょうか。
落語は語るものとは言いません。

「かたる」には「騙る」で人をたぶらかす意も。

個人的な感想ですが「語る」には(完成形を)という
イメージがつきます。

「はなす」はそれらよりユルイ感じがします。

自分の爺さんが「あの時に、の」と話す
叔父が「そう、あん時はの」と話す
同じ事でもニュアンスが違うのは
喋り手の個性が反映されるからです。

同じ、『文七元結』という噺が演者によって
ずいぶんと違うものになるのも同じですね。

浄瑠璃では上手い下手の差がつき易いですが
噺家ではそれはやりづらい。

小さんと正蔵と(いずれも先代ですが)を比べる
訳にはいきません。
少なくとも「公」には。

好き嫌いがあるだけです。

上記の爺さんと叔父どちらが好きかで
話の面白さが変わってきますね。


八代目正蔵が、あまりに似たことをするな
と言いました。

例えば女性をえがくときにナヨナヨとさせすぎては
いけません。
声色も地声で良いのです。

なぜなら話し手の個性が大切だから。

よって噺は演者によって変化があるのです。

志ん朝などは上手すぎて、これからという時に
早死にをしました。
返す返すも残念でした。


浄瑠璃は「語り」ます。

それによって人形や演者が動きます。

噺ではありえないことですね。