湯島

2016-12-04 16:25:50 | 食べる
「君はFさんと仲が良いそうじゃないか」

小さな会社で1Fに70人くらいが働いていました。
そこで営業本部長から若手に直に話が来ます。

お客さんを湯島で接待するのだが少しだけ遅れる、
自分が行くまでの間、場つなぎをせよ、との
急なお達しです。

子供の使いじゃあるまいし、とは思いましたが
東京の営業本部で一番偉い人からの命令です。
「俺だって仕事がある」と言いたかったですがね。

会社は上野松坂屋の真向かい、行けと言われた料亭は
そこから歩いて数分とは思えない湯島天神の坂下、
当時は知る人ぞ知る割烹でした。

私の懐では入れない店です。
(今も続いているようですがセコさが目立ちます)

Fさんに詫びを申し上げ「すぐに参りますから
何か召しあがってお待ちください」

私が一緒に食べるわけにはいきません。
「仕事の途中で」と断わりを言い
話相手になりました。

幸い本部長が早い目に来たので助かりました。

その間、Fさんはつまみで一献。
肴は何だと思われますか?

「雲丹をくれ。それだけで良い。
 後は接待主が来てからだ」

カウンターの向こうから丼鉢に近い大きさの
器が出てきたのには驚きました。

Fさん「うん、雲丹だけ。これでよい」

デパ地下で見かける雲丹の舟が2~3枚は
入っていたでしょう、たぶん。

覗いてみたかった。

隠れた名店として池波正太郎もよく通った
という割烹です。
さて、幾らくらいするもんだか。

2016-12-04 10:15:14 | 塾あれこれ
私が就職してすぐ、父が亡くなりました。
享年57

家族の間で、皆から嫌われた人です。

今から思い返せば、本当は気が小さな人だった
ようでもあります。
しかし生前は、我々には「厳父」でした。

小さな体に様々な病気、アル中。

やはりシベリア抑留が堪えていたようです。
他の方よりひと冬長い抑留で、体調を壊してから
帰国を許されたと聞きます。

子供から見た父は怖い人でしたね。

手をあげられたことは一度もありません。
口で怒鳴るなども皆無。

それでも怖かった。
内面に貯め込んだ自分では処理できないうっ屈を
酒がかき乱し、小さな子供には理解不能であって
それが怖さを伝えて来るのでしょう。

家族のなかで孤立していました。


根は優しい人で軍隊も合わなかったようです。

それらを隠せ、というのが戦前の空気で
「男なら」と生きていく筈でした。
が、シベリア体験で心も体も傷を負ったようです。


小さな子供には怖いですよね。

酒を飲むと、もっと危険。
体内から暗い闇があふれ出るのです。
飲み始めは機嫌が良いのですけれど。

高血圧など酒に寄る病気も多かったハズですが
医者にも行きませんでした。
まるで長い自死

晩年は働くこともできず、母が家計を支えました。
夫婦間でもモメますよね。

酷い大喧嘩が何度もありました。

父を見て、「あんなにはなりたくない」
これだけが私の得た教訓です。


大喧嘩の揚げ句、どうなるかというと
父が家を出て行きます。
3,4日は帰って来ません。

こちらからすると、何とも情けない話ですが
父なりの解決法だったのでしょう。

結局、酒だけが頼り。
弱い人だったか、体験が厳し過ぎたのか。

不器用、この上なし。

でも、私ならどう生きるか。
自信がありません。