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矢作川のほとりで枝下(しだれ)用水を、
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逵(つじ)志保のページです

2018年1月20日「童男山ふすべ」(福岡県八女市山内)

2018-02-17 23:44:59 | 徐福伝説
更新が遅くなりました。
2018年1月20日、福岡県八女市山内でおこなわれる徐福の祭り「童男山ふすべ」に出かけました。

久しぶりー、っていったいどのくらい久しぶりなんだろうって写真データを探ってみると、
2000年に修士論文執筆のために初めて訪ねて以来、4年連続でかけ、
その後、宮崎県東臼杵郡南郷村(現在は美郷町)の百済王伝説にゆかりあると伝わる師走祭りの調査の日と重なってしまうため、こちらに来ることができず、
2007年は両者の祭りの日程がいい具合にずれたのでこれたものの、それ以来、つまり10年以上も来ていなかったことがわかりました。
とは言っても八女のみなさんの徐福顕彰の活動は年々盛んになっていて、中国や韓国、あるいは日本国内のどこかのイベントでみなさんとお会いすることもあるので、そんなに会っていないような気はしないのです。

前夜、韓国の巨済をはじめ、神奈川、佐賀など各地徐福会が集合、
八女のみなさんが腕をふるってくださった美味しい食事をいただき、大いに盛り上がりました。

当日朝、始まる前に生前お世話になった世話役のMさんの仏壇に手を合わせに行き、
久しぶりの「童男山ふすべ」を楽しませていただきました。
祭りは小さなところから着々と変わっていくもの、
10年前にはなかった子どもたちの紙芝居についたBGM、地元の女性たちの演し物、
時が流れたことを感じました。
そしてなによりも感激したのは、以前は地元郷土史家が徐福伝説を語るところで登場したのが
この祭りの紙芝居を描いた木附光雄さんの息子さんだったことでした。


童男山を地元の人は「どうなんさん」とは呼ばず「とうなんさん」と呼ぶこと、それは耳が「とおならんさん」(とおくならない=よく聞こえる)につながるものだったという話でした。
何でも徐福にしてしまわないという点で、この話はとても重要なことで私も論文に書いたのですが、
こうして父親の紙芝居がいまもなお続けられ、自分が継いでいることは感慨深いことだろうなと思いました。

それにしても主催の方たちは繰り返し「60年前から」とこの祭りの起源を話していらっしゃいましたが、私が調べた限りではこの紙芝居のスタートは1948(昭和23)年です。もう70年が経っています。戦後の学校行事が少しずつ形を変えながらもこんな風に続いていることは、それを支えるみなさんの努力があったからだろうと思いました。

午後からは会場を変えて、八女市岩戸山歴史文化交流館 いわいの郷にて「九州徐福フォーラムin八女」(主催 八女徐福会/後援 八女市、八女市教育委員会、日本徐福協会/協力 童男山・犬尾城址保存会、韓国巨済徐福会)があり、赤崎敏男さんをコーディネーターに九州の八女、佐賀、筑紫野、延岡に韓国巨済が特別参加し、各会の活動報告が行われました。


九州というくくりでこうしたイベントがおこなわれることは初めてのことではなかったかと思います。各地のみなさんが徐福を楽しんでいる様子が手に取るようにわかり、またこうしたイベントがきっかけになり地域間がネットワークをより強固にしていけるといいのだろうなと感じました。

準備にそして当日に、多くの方のご尽力があってこの一日が終わりました。本当にありがとうございました。また機会をつくって再訪したいと思います。



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