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お寺さんぽ Ver.03

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地黄八幡の名将 「北条綱成」 前編

2008年04月24日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
戦国時代では”北条ファンクラブ”なひでるさん。
今回プッシュするのは、北条家武将でも随一と言っても過言でないだろう、武勇に秀でた名将「北条綱成(ほうじょう・つなしげ)」さまです。

苗字が同じでも、即血族という訳でないのが武士らのややこしいところ。
このブログで何度か名前を出しているPCゲーム「信長の野望 戦国群雄伝」の発売は昭和六十三年(1988)のことでしたか。
もう随分昔のことなんですねー。
その頃、まだ歴史に疎かったひでるさんは、北条家など”同じ姓の武将だけを集合”させる遊びをしていました。
いわゆる一族郎党プレイですね(笑)
その際に主力となっていたのが、今回主役の「北条綱成」さまだったんですが…主家と直接に血の繋がりがなかったことを後に知って、大変驚いた記憶があります。
そう、この方はもともと北条さんでなく、福島さんだったのです。

永正十二年(1515)
北条家では三代目となる「北条氏康」が誕生した、ちょうど同じ頃。
後の「北条綱成」は、今川家家臣にして遠江・高天神城主「福島正成(くしま・まさなり)」の嫡男として誕生しました。
(※秀吉配下の彼と似た名前ですが、まったくの無関係ね。いちおう)
幼名は「勝千代」
大領主・今川家と共にすくすくと育つ…と簡単にはいかないのが戦国時代。

父正成は「今川氏親」の命によって甲斐へ侵攻したものの、「武田信虎」の迎撃を受け、あえなく討死。
…あるいは、氏輝の死後に勃発した家督争い「花倉の乱」にて、「今川義元」側ではなく「玄広恵探(げんこうえたん)」を支持したことで主家と不和(※皆様ご存じな通り、家督争いには義元側が勝利した)になり、甲斐へ逃走した際に「武田信虎」に攻撃されて討死。
という二説が伝えられております。
このうち、前説が真実であれば、わざわざ主家を鞍替えする必要もないような気がします。たぶん。
もし、後説が正しいのなら、時期としては天文五年(1536)頃のはずなので…。
そうすると、綱成は二十一歳。
とっくに初陣をすませ、働き盛りの立派な武将に成長していたと思われます。
北条家へ入った彼がすぐに気に入られているようなので、こちらのが正しい気もしますが…どうなんでしょう。

ともかく、父の討死後に北条家へと身を寄せた綱成。
ここで武士としての器量を二代目当主「北条氏綱(※写真)」に認められ、同じ「綱」の一字を拝領する栄誉を賜ると共に、娘を与えられて北条一族へと迎えられるのでした
おそらくは、幾度かの合戦にてその武勇を発揮したのかもしれません。
まったくの新参者であった彼を過度に遇しているところからも、氏綱の大変な気に入りようが伺えます。

天文六年(1537)から各地へ転戦したという綱成は、定期的に「八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)」へ戦勝を祈願しておりました。
戦場では陣頭指揮をとる勇猛果敢なタイプで、
勝った!!
と叫びながら敵陣へ突撃していたのだとか。
なお、五色に編成された北条軍では黄備を担当。
その有名な旗指物は”黄色い布地の四隅に八幡と書かれたもの”で、「地黄八幡(じきはちまん)」と称されておりました
武名は関東一帯にまで鳴り響き、黄色の旗を見た敵勢はそれだけで震えあがり、味方は出馬を知って大い勇み立ったとされております。


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※こちらですね。
 テンキー操作に慣れたひでるさんはマウス操作したくないんですが…。
 この点、なんとかならないもんかなぁ。


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