80年代って、皆さんにとって、どんな時代だったのでしょうか。
私にとっては、渋谷で過ごした時代と呼べるかもしれません。
先日更新した日記の通り、青春の十年間なのです。
20年前の時間は、歴史として語るには近すぎ、
かといって、今との繋がりを考えると
ちょっと離れている。
そんな中途半端な隔たりではありますが。
文春新書「プレイバック1980年代」 村田晃嗣著 からの引用です。
おなじような題材の本として
新潮新書からの「1985年」吉崎達彦著がありますが、
両方ともに、自分が肌で感じたこと、私個人の出来事、
それらを思い出しながら、80年代という10年を振り返り、
そのときに思い描いていた、20年後と
現実との差について、思いを深めています。
「歴史は現在と過去の対話である」とE.H.カーが述べていますが、
まさしくそのことを実感しながら、ページを捲りました。
同時に、改めて、歴史の生き証人とまではならないにせよ。
生きていた時間の前半半分がかび臭い歴史になってしまう。
「明治は遠くなりにけり」と中村草田男が呼んだのは、
1936年、元号が大正に変わってから24年後のことですから、
「昭和が遠くなってしまった。」と感じるのも
当たり前のことかもしれません。
私にとっては、渋谷で過ごした時代と呼べるかもしれません。
先日更新した日記の通り、青春の十年間なのです。
20年前の時間は、歴史として語るには近すぎ、
かといって、今との繋がりを考えると
ちょっと離れている。
そんな中途半端な隔たりではありますが。
文春新書「プレイバック1980年代」 村田晃嗣著 からの引用です。
おなじような題材の本として
新潮新書からの「1985年」吉崎達彦著がありますが、
両方ともに、自分が肌で感じたこと、私個人の出来事、
それらを思い出しながら、80年代という10年を振り返り、
そのときに思い描いていた、20年後と
現実との差について、思いを深めています。
「歴史は現在と過去の対話である」とE.H.カーが述べていますが、
まさしくそのことを実感しながら、ページを捲りました。
同時に、改めて、歴史の生き証人とまではならないにせよ。
生きていた時間の前半半分がかび臭い歴史になってしまう。
「明治は遠くなりにけり」と中村草田男が呼んだのは、
1936年、元号が大正に変わってから24年後のことですから、
「昭和が遠くなってしまった。」と感じるのも
当たり前のことかもしれません。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます