元旦礼拝では、イザヤ書46:3-4
「ヤコブの家よ、わたしに聞け。イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。」 (2017年版新改訳聖書)
「わたしは」「わたしは」とおっしゃる主。
私たちは担がれ運ばれてここまで来たのだし、
これからも黙って主にゆだねて担がれていればいい。
なんという慰め!
安心して今年も歩み出そう。
そして今年初めの礼拝の説教は申命記11:8-15から。
「あなたがたは、私が今日あなたに命じるすべての命令を守りなさい。それは、あなたがたが強くなり、あなたがたが渡って行って所有しようとしている地を所有するため、 また、主があなたがたの父祖たちに誓って、彼らとその子孫に与えると言われたその土地、すなわち、乳と蜜の流れる地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。なぜなら、あなたが入って行って所有しようとしている地は、あなたがたが出て来たエジプトの地のようではないからである。エジプトであなたは、野菜畑でするように、自分で種を蒔き、自分の力で水をやっていた。 しかし、あなたがたが渡って行って所有しようとしている地は、山と谷の地であり、天からの雨で潤っている。 そこは、あなたの神、主が求められる地で、年の初めから年の終わりまで、あなたの神、主が絶えずその上に目をとどめておられる地である。もしわたしが今日あなたがたに命じる命令、すなわち、あなたがたの神、主を愛し、心を尽くし、いのちを尽くして仕えよという命令に、あなたがたが確かに聞き従うなら、わたしは時にかなって、あなたがたの地に雨、初めの雨と後の雨をもたらす。あなたは穀物と新しいぶどう酒と油を集めることができる。 また、わたしはあなたの家畜のため野に草を与える。あなたは食べて満ち足りる。」 (2017年版新改訳聖書)
年ごとに主が備えておられる約束について語られています。
神さまは今年も私たちの勝利と繁栄を約束してくださっている。(v.8-9)
カナンの地に入る前に、神さまはヨルダンの川を渡らせ、エリコの城壁を陥落させた。イスラエルの民は何もしていない。ただ主に従っただけ。これはカナンの地に入る前のレッスンだった。主に従うことが我々の強さであり、主はそこに力と確信を与えられる。そしてそれが私たちに強さとなって、日常生活の勝利につながる。
大いなる恵みの約束 (v.10-12)
エジプトでは自分で種をまき、自分の力で水をやらなくてはならなかった。しかし、カナンの地では違う。主がすべて必要な食物を与え潤してくださり、絶えず主が目を注ぎ、心にかけてくださる。主に従うなら、何一つ不足のない地である。そこはすべて神さまが用意しておられる地だからである。だから、エジプトでそうだったように、もう自分の力により頼まなくてもよい。
大いなる備えの約束 (v.13-15)
はじめの雨とのちの雨によって潤してくださる主は、私たちの実生活にも豊かな備えと満たしを与えてくださる。いつでも与えるのは主。私たちは受け取るだけ。
主はもたらす→わたしは集める
主は与える→わたしは満ち足りる
不信仰のゆえに神さまの祝福を見失うことのないように。
そしてもう一つ。
私たちは言うかもしれない。「主に従えば祝福がある。わかっている。だけどそれができないから困るんだ」と。
しかし主は、私たちのそのような弱さや考えで変わるお方ではない。
従うものに祝福との原則は変わらない。
だから主は私たちに聖霊をくださり、聖霊によって歩むように言われた。
聖霊さまに助けていただいて、主に従えるようにしてくださった。
今年も聖霊により頼んで主に従って歩み、主からの大いなる祝福を受けたい。
感謝主!!
*どちらも新鎌ヶ谷聖書教会の玉井邦美先生の説教です♪