アイデンティティは、
「自分らしさ」や「自己同一性」を
意味する言葉です。
アイデンティティを確立するということは、
「自分は何者か」
「自分は何のために存在しているのか」
などの質問に、
答えられるということかな?
聖書のガラテヤ書2章19~20節にはこうある。
「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」
「もはや私が生きているのではなく、
キリストが私のうちに生きておられるのです」
この意味が、私は長くわからなかったけれど、
最近になってやっとちょっとわかってきた気がする。
これはつまり、
私のアイデンティティが、
自分ではなく、
キリストにあるということ。
例えば、
誰かから拒絶されたり、
否定されたり、
傷つけられたとき、
その痛みを
自分ではなく、
実はキリストが、
全部引き受けてくださっているということ。
だから私は傷つかなくていい。
だから人間関係が大胆になれる。
体当たりできる。
目の前の、
自分では乗り越えられないような壁があるとき、
自分でそれを乗り越えることは、
絶対不可能だけど、
私の内に住むキリストには、
できないことはないから、
God can do anythingだから、
きっと乗り越えさせてくださると信じていい。
だから何事もチャレンジできる。
恐れと不安、孤独の中にあるとき、
私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、
神の御子が、私の中で生きていることを思うと、
私は何も恐れることはないし、
不安がる必要もない。
この間、
とても孤独を感じたことがあって、
結局人はひとりぼっちなんだなって思いが、
わーっと襲ってきた。
でも、その時も、
「わたしがいるじゃないか」と、
イエスさまの語りかけを聞いたよ。
私は、絶対一人ぼっちになることはない。
永遠に。
こうやって言っていても、
いつも古い自分がゾンビのように出てきて、
(ゾンビは実は死んでいる)
(ゾンビは実は死んでいる)
一人で痛みを受け止めたり、
一人で戦ったり、
一人で壁を乗り越えようとしたり、
孤独を感じたりしてしまうから、
何度でも、
ここに帰ってこないといけない。
私のアイデンティティはイエスさまにある。
「もはや私が生きているのではなく、
キリストが私のうちに生きておられるのです。
今私が肉において生きているいのちは、
私を愛し、
私のためにご自分を与えてくださった、
神の御子に対する信仰によるのです。」
アーメン