今日は学園の祈祷日でした。
説教者が今や売れっ子大嶋重徳先生なので、
いつもながら、
いつもながら、
私は外部の人間だけど…
とぶつぶつ言いながら、
それでもチャペルに行って来ました。
「祈りの力」と題して、
使徒の働き12章1~17節のメッセージでした。
メッセージの終わりに先生が言っていました。
聞かれない祈りはないと。
私たちの祈りがどんな祈りでも
私たちの祈りがどんな祈りでも
神さまは聞いておられると。
そんなこと知っとるわいと思ったけれど、
ふと、子どもが思春期の頃のことを思い出しました。
うちの子たちは思春期の反抗期みたいなのはなかったけれど、
あまり親に話をしなくなった時期はありました。
あまり親に話をしなくなった時期はありました。
そんな時、親の方から話しかけても、
あまり相手にしてくれないし、
しつこくすると嫌われるので、
しつこくすると嫌われるので、
放置していました。
でも、時々子どもが機嫌がいい時には、
そばに来て、
そばに来て、
いろいろ話してくれるときがありました。
そんな時は、
せっかくのチャンスなので、
急ぎの仕事をしていても、
イヤホンで何かを聞いていても、
一旦手を止めて、
ゆったりと子どもの話しを聞くようにしていました。
嬉しかったからです。
ああ、神さまもそんな感じなのかなとふと思ったのです。
私たちの方は気まぐれで、
なかなか本気で神さまに向かい合わない。
なかなか本気で神さまに向かい合わない。
習慣的にただ言葉を並べたり、
どうせだめだろうと期待もなく祈ったり、
あきらめて祈るのをやめてしまったりするのです。
でも、神さまはそんなわたしたちの祈りさえ、
「おっ、祈ってるな」
「なになに?」
「うん、そうかそうか」
と私たちの祈りに耳を傾けてくださる。
全力で祈りに応えようとなさる。
誠実なお方だから。
私たちを愛しているから。
祈りに向ける本気度が違うのか。
祈りに対する重みが違うのか。
祈る側と聞く側にある温度差。
だから私たちも、
祈る時は本気で、
身を乗り出して聞いてくださっている
神さまを意識して、
期待と信仰とをもって祈らないと…。
そう思わされたことでした。
感謝主!!
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