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おかあちゃん牧師の日記

新船橋キリスト教会の牧師です!
日々の生活のこと、教会のこと、
家族のことなどを書いています!

五十肩

2022-04-12 10:35:58 | 信仰 聖書
五十肩になってもう1年ぐらい経つかな。
半年ぐらいは、多少の痛みはあるけれど、
ムリに動かさなければ痛くもないし、
可動域もそれほど狭くなかった。

ところが半年ぐらいして、
教会で掃除機をかけているときに、
肘をぐきっ😬 とやって、
それ以来、右腕が自由に動かせなくなり、
そうすると肩の関節も固まり、
可動域も狭くなり、
一日デスクワークすると、
肩から腕までだるくて痛い。
夜も寝がえりで痛くて目を覚ます。

医者?行きましたよ。
加齢による五十肩ですね、
そのうち治りますよ。
それまではいつも通り運動してくださいね。
はい、シップどうぞ。
という感じ。

駐車場の料金所、
ぴったりと横付けしても手が届かない。
ポットは片手で持つと激痛。
マグカップでさえ痛い。

…そして祝祷。
両手を伸ばして高く上げて、
精一杯の思いを込めて
祝福を祈るのが好きだった。
今は、肩から上に手が上がらない( ;∀;)
ごめんね~、みんな。
でも神さまの祝福は変わらないからね~。

更年期もあると思うわ~、
今まで特に自覚してなかったけど、
からだは正直よね、
あ~全身の関節に油を刺したい(笑)

ったく、
「思い」にからだがついていかない。

だからこそ、
主の恵みによって奉仕します。
人の努力や業ではなく、
主の恵みによって。

しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。(Ⅱコリント12:9~10)








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桜の季節

2022-03-31 11:16:56 | 信仰 聖書
写真は、うちのリビングから見た桜です。
家にいながら花見ができます!

そして自宅と教会は離れているので、
片道40~45分はかかります。
でも、この季節はちっとも苦になりません。
あちこち桜が満開で、
菜の花が一面に咲いて黄色いじゅうたん!
家々の前にはチューリップやスイセンやすみれや…、
…花の名前はよく知らないけど(笑)

そして思うのです。
こーんなに美しいのに、
これは来たるべきものの影だということ。
曇った鏡に映るものを
ぼんやり見ているだけだということ。
今、被造物(自然)は虚無に服している状態だから。
(ローマ書8:18~25)

そして復活の恵みにあずかるその時、
私たちのこの体も栄光の姿に変えられて、
この美しい花や景色も、
虚無から解かれて、
完全な美しさを取り戻すのです!
これ以上美しいってどうよ(笑)
楽しみ過ぎます!!

ハレルヤ!!

今は受難節なのに、
イースターを先取りしてしまいました~😆 

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神の愛とゆるし

2022-03-10 13:48:41 | 信仰 聖書
愛せないとき、
ゆるせないときは、
愛せるように〜とか、
ゆるせるように〜とか祈るより、
神さまの愛で私を満たしてください、
私がどんなにゆるされているか教えてください、
そう祈った方がいい。
そうして、愛のみことばに耳を傾ける。
そうすれば、
自分の心を占拠している怒りや憎しみが、
神さまの愛に場所をゆずる。
そして怒っていたことが、
どーでもよくなる。

最近の発見😊
嘘だと思ったら試してごらん😊
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神はどこに?

2022-02-26 13:09:56 | 信仰 聖書

今日の家庭礼拝は詩篇42~43篇

うなだれるイスラエルの民。
捕囚から帰って来た後の惨状、
敵からのののしり。
神はどこに…?

惨状の中で神を見上げることの難しさ。
今も戦乱や迫害の中にクリスチャンたち、
本当に神を必要としているとき、
神を求めているときに、
どうして神は沈黙しておられるのか。
神はどこに…?

それは十字架上のイエスの叫びでもあった。
人々はイエスをののしった。
「他人を救ったが自分を救えない、
神はどこにいるのだ」と。

弟子たちでさえ言った。
「イエスは死んだ。」
望みも消えた…。

でもイエスの復活の朝、
み使いは言った。
「彼はここにはいない!
よみがえられたのだ!」
「ガリラヤへ行きなさい。
主は先に行っておられると。」
そして復活の主は、
弟子たちに新しい使命を与えた。

復活の主に会った弟子たちは、
神が今どこにおられるのかを知った!

神はどこにいるのか。

説教者は最後にこう結んでしました。

神の主権と人々の苦しみの交差するところにおられる。

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完全なお方で満たされる

2022-02-19 22:33:46 | 信仰 聖書
独身として豊かに生きる | Single & Flourishing

昨年、CBI(Christ Bible Institute )の
4回のオンラインセミナーを受けたのですが、
これがすごく良かったのです。

特にこの回「独身として豊かに生きる」が、
すごく私の心に響きました。
何回も見返しています。

神さまは何も寂しかったから、
何か不足を覚えて人を創造されたわけではない。
三位一体の神の交わりがすばらしく良いもので、
人もその喜びの交わりに入れたくて人を創造された。

女性エバを創造したのも同じ。
何もアダムが寂しくて、神にパートナーを求め、
神がそれに応えたわけではない。
神はただ、すばらしい三位一体の交わりを
人と人との交わりにおいても分かち合いたかったから
女性を造ったのだという。

だから私たちは結婚を通して、
三位一体の交わりのすばらしさを
表してしかるべきなのです。
ところが、人に罪が入り、
それができなくなってしまった。

人は神の完全な作品だったのに、
罪によってそれは粉々に壊れてしまった。
その破片が私たちの行く手に散らばっていて、
人は生きるとき、それらを踏んで痛いのだという。

私たちが見ている世界は、
御国のすばらしさの影。
私たちは地上でそれを垣間見ることはできる。
夫婦関係や親子関係、友人関係、
そこに幸せを感じることもあるだろう。
でもそれは完全ではない。
そこに期待し過ぎたり、
そこに満足してはいけない。
そうすると時にそれは偶像となる。

地上で私たちを完全に満たせるものはない。
完全な満足を私たちに与えるものはない。
地上のものに期待し過ぎるときに、
やがては人は失望し、傷つき、
さびしくなり、不満を持つ。

完全な良きものは、神のもとにこそある。
私たちは地上で良いものを味わうとき、
それを感謝しつつも、
そこで満足するのではなく、
その向こうにある完全な良いものに目を向け、
完全に良いお方に期待するべき。

神さまだけが、私を完全に満たすことができる。
神さまとの愛の交わりこそが私を幸せにする。

いろんな不満や欲望やつぶやきが出て来るとき、
自分に問いかける。
それを得たら私は満足するだろうか。
しない。
それを得ると、
次のものが欲しくなり、
かえって渇き、さびしくなり、つぶやく。

いつも神の愛で満たされたい。
いつも神さまだけで十分でありたい。

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つらい時だからこそ

2022-01-11 11:19:40 | 信仰 聖書
【乳がん10年】辛い闘病生活を乗り越える力をくれた出会い

私がチャンネル登録して、
応援しているYouTuberミミぽぽさんの動画です。
彼女はクリスチャンで、
乳がんから全身転移し、
余命2ヶ月の宣告を受けたとろから、
奇蹟の生還を果たしました。
動画の最後には、
必ず聖書の言葉を載せています。

いつも欠かさず見ているわけではないけど、
たまに見ると、励まされますね。
特に今回は、
「つらい時だからこそ誰かのために祈れる」
という言葉が、
本当にそうなんだろうな~と、
大きくうなずかされたことでした。

自分はそんなどん底の経験をしたことはないけど、
もし、そんな試練の中にいる人がいたら、
みみポポさんの経験が、
大きな励ましになりますように。

感謝主!

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羊飼い

2020-12-19 10:53:53 | 信仰 聖書
どうして羊飼いだったのかな。
多くの人に届けられたわけではない
キリスト誕生の御告げが、
どうして羊飼いに届いたのだろう。

ここ2週間ずーっと考えていて、
思ったこと。

やはり、彼らは救いを求めていたからだと。
物心両面、救いが必要だった。

ゴスペル、黒人霊歌は、
アメリカの黒人奴隷たちの心の叫びだった。
おかれている現状があまりに悲惨だったので、
彼らは神の救いを叫び求めた。
それが彼らの歌となった。

救い主の誕生を聞いたヘロデ王も
イスラエルの人々も
ただ「動揺する」だけだった。
祭司長や律法学者に至っては、
どこで生まれるかまで把握していたのに、
探し出そうとはしなかった。
結局現状に満足していたのだろう。
本当の意味で救いを必要としてはいなかった。

ところが羊飼いは、
「さあ、行って見届けて来よう!」
とすぐさま応答した。
この知らせに食いついた!

しかも「飼葉桶」がしるし…。
彼らが見慣れた道具。
ああ、自分たちは救いから除外されていない!
羊飼いのままで、
普段着で会いに行けるのだ。
そう思ったんじゃないかな。

このクリスマスの救いのメッセージが、
現代の羊飼いたちに届きますように。

photo:Mohamad Babayan
@mohamad_babayan
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クリスマスメッセージ

2020-12-12 17:05:36 | 信仰 聖書
アドベントに入ってから、
礼拝ではクリスマスのメッセージをしています。
アドベント一週目が「マリヤの賛歌」ルカ:1:46-55
二週目が「闇の中の光」イザヤ9:1-7
明日が「飼葉桶のみどりご」ルカ2:1-7
クリスマス主日は同じくルカの
「羊飼い」の個所からメッセージをします。
で、イブ礼拝は「東方の博士」から。

子どもの時からクリスマス大好きですが、
今年ほど、聖書のクリスマスの記事に
浸っているときはないです。
いいですね~。
BGMもクリスマス!
鼻歌もクリスマス!

今週説教の準備をしながら気づいたこと。
マリアって、一人で赤ちゃんを取り上げたの?
原語を見ると、
前の節の「マリアは月満ちて」を引き継ぐ形で、
「産んだ」も「布にくるんで」も「寝かせた」も、
すべて主語は三人称単数なのです。
マリアは一人で赤ちゃんを取り上げ、
布にくるんで、
飼葉桶に寝かせたってこと?
もしそうだとすると、
これって、すごい光景よね。
いやいや、産婆さんはいないにしても、
ヨセフは手伝ったよね。
誰かお産手伝ってくれる人がいたと信じたい。

でも…、
時々誰も助けてくれなくて、
自宅で一人で産んだり、
公衆トイレで赤ちゃん生まれちゃったとか
そんなニュース流れるじゃない?

で、どうしていいかわからなくて、
そのまま遺棄したり…
殺したり…

マリアさん一人で産んだとしたら、
そんな悲しいママたちの励ましになるかな。
誰かに助けを求めてみようって、
何とかこの命を助けようって
思わないかな。

クリスマスのメッセージ。
そんな孤独な妊婦に届きますように。



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道が閉ざされたとき

2020-11-10 11:13:18 | 信仰 聖書
イエスさまを信じたばかりの人が
試練に遭うと、
主よ。まだいいじゃないですかと思う。
もう少し主とのハネムーンのようなときを
過ごさせてあげてくださいと思う。

わかっている。
信仰者は試練の中で信仰が成長する。
でも、もうちょっと待ってと思うときがある。

神さまのなさることの意図も
神さまのタイミングも
私たちには知らされていないから。

「シモン、シモン。見なさい。
サタンがあなたがたを
麦のようにふるいにかけることを願って、
聞き届けられました。」

全ては神の主権と許しの中で起こる。
サタンは人を信仰から引き離そうとして
試練を与えるのだけれど、
神がそれを許されたいうからには、
必ずその人はその試練を乗り越えられる。

見込まれちゃったんだね。
神さまに。

毎朝メールで配信されてくる
デボーションメッセージがある。
ネットで偶然(いや導きで)出会って、
申し込んだ。
今日はこんなメッセージが送られてきたので、
すぐに試練に中にあるその人に送った。


11月10日
《道が閉ざされた時》

「ミシア地方の近くまで行き、ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった。それで、ミシア地方を通ってトロアスに下った。その夜、パウロは幻を見た。」(使徒言行録16:7-9a)

 使徒パウロはシラスとテモテと共に宣教のためにアジア州へ渡ります。ところが、そこで聖霊が彼らの歩みにストップをかけられたのです。悪いことをしていてストップがかかるのは当たり前です。
でも、宣教することは御心であり、地の果てまで福音を伝えることはイエスさまのご命令です。ところがその「イエスの霊」である聖霊が道を閉ざされたのです。
しかし話はそれで終わりませんでした。そこで立ち止まり御心を求めて祈ったパウロに、今度は「マケドニアの幻」が示され、後の教会史に絶大な影響をもたらすヨーロッパへの伝道のきっかけが与えられていくことになりました。
ですから、あの時、道が閉ざされていなければ、そのことで立ち止まり祈ることもなく、ましてやヨーロッパ伝道につながる「マケドニアの幻」を示されることもなかったことでしょう。
 ところで、今、コロナ禍にあって、生活の様々な領域で道が閉ざされるような経験をしています。ある方は、受験、就職、結婚、不慮の病など、そうしたことによって人生の岐路に立たされ、今、道が閉ざされるような経験をされているかもしれません。
でも振り返ると、道が閉ざされたことによって、より豊かな神さまの恵みにあずからせてくださったとしみじみ思える時が必ずやってきます。ですから希望を持つことができる。ギリギリのところで失望せずに守られるのです。
使徒パウロも、「神は真実な方です。・・・試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(1コリント10:13)と語ります。
閉ざされた道の横に、恵みの深みへと導く別の道を、神はあなたのために用意しておられます。

いってらっしゃい。

カンバーランド高座教会 
牧師 松本雅弘
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初代教会の女性

2020-07-09 11:52:13 | 信仰 聖書
先主日の礼拝説教でも少し触れたんだけど、
聖書には、ちょっとした場面で
よく女性の名前が出てきます。

例えばこの間の説教個所で、
「マルコと呼ばれるヨハネの母マリアの家」で、
多くの人々が集まって祈っていたと。

たぶん裕福な家で、
大きなお屋敷があって、
集まるのに好都合だったのでしょう。

でも、あれ?
世帯主の名前は?
と思うわけです。

たぶんこの家を仕切っていたのは、
マリアという女主人だったのでしょう。

そして、彼女は教会でも中心的なメンバーで、
よく教会に仕え、人望も厚かったのでしょう。
当時女性執事がいたかはわからないけど、
恐らく教会でもかなりの発言権を持っていた思う。

今でもそうだけど、
中東の方では女性の地位が低い。
当時も間違えなくそうだったでしょう。

でも教会の中は違ったみたい。
女性は差別されたり、
軽んじられたりされることなく、
生き生きと、のびのびと活動し、
発言権もあったのでしょう。

のびのびしすぎちゃって、
パウロが教会宛てた手紙の中では、
「ちょっと教会では黙っていなさい」
「そんなに派手にケンカをしないように」
とか注意されちゃった…(^_^;)

そんなことかな~と思ったりして。

そう思いながら聖書を読むと楽しいね♪

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