毎日のできごとの反省

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山本長官の真意

2021-05-07 14:03:11 | 大東亜戦争

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 真珠湾攻撃の図上演習で日本空母は全滅に近くなる、という結果が出たのに平然と無視して強行したのは、誰あろう山本長官である。これは、自分の都合がいいように解釈する日本海軍の悪癖に帰されているが、不利な対米戦に反対した合理主義者として持ち上げられている山本長官にしてこのていたらくである。しかしそれだけだろうか。そして山本長官は真珠湾で米艦隊を全滅させて早期講和に持ち込むつもりだったとされている。しかし早期講和論者であるにしても真珠湾攻撃だけで講和に持ち込めると考えるほど単純だったのだろうか。

 山本長官は条約派と言われているが、実際には主力艦の制限の軍縮条約に賛成する大蔵省の官僚を怒声で恫喝するほどの艦隊決戦派であった。航空機の威力は認めても最後の決戦は戦艦同士で決すると考えていた、こう考えると謎が解けるのではないか。もし真珠湾で徹底的に太平洋艦隊を殲滅するつもりなら、空母を使うにしても最後は戦艦の主砲でとどめを刺すはずであるが、戦艦は遥か後方において海戦に参加させなかった。

 つまり真珠湾攻撃は日露戦争開戦直後の旅順港攻撃と同じで、敵主力の勢力を減殺するつもりだったのではないか。旅順港攻撃には主力艦を使わず、水雷艇の魚雷攻撃を行ったのと同様に空母を使ったのである。旅順港攻撃はほとんど戦果を上げることはできなかった。真珠湾では航空機を使えば空母は全滅するにしても、旅順港よりはるかに大きな戦果を上げることができる、と考えたのではなかろうか。図上演習で空母が全滅すると出ても、主力艦たる戦艦は残るから強行したのである。

 そうすれば来るべき戦艦同士の艦隊決戦で有利に戦え、本当の勝利を上げることができ講和ができると考えたのである。旅順港の体験からは、どのみち真珠湾内では徹底した戦果は得られず、洋上での艦隊決戦によって勝利は得られると考えた。だから真珠湾攻撃では空母を犠牲にして戦艦を温存しようとしたのである。山本長官は図上演習の結果を無視したのではなかった。真珠湾攻撃で日本側の艦艇の損失は零に等しく、航空機だけで大戦果を上げるという予想外の結果に、山本長官は舞い上がってしまった。ミッドウェー攻略でも山本長官は空母の全滅のシュミレーションを無視したが、これは真珠湾攻撃の成功のために、今度こそ自信過剰のために図上演習を信頼しなくなったのである。

 山本長官に躁鬱の気質があったというのが正しければ舞い上がり方は激しい。そのためそれ以後航空機を重用するようになった。だが珊瑚海海戦でもミッドウェー海戦でも戦艦を活用しなかったのは、基本的にはそれが艦隊決戦だと考えなかったためではなかろうか。両海戦ともに、島嶼の攻略作戦であり艦隊決戦ではないと考えたのである。日本海海戦で勝利した日本海軍の首脳は、山本も含め艦隊決戦とは上陸作戦等の具体的な作戦が決行される際に、それを阻止しようとする敵艦隊との衝突のために起こるという、現実的な考え方はなかったのである。

日本海海戦の勝利に酔った日本海軍にとっての艦隊決戦とは、競技場のスポーツのように、互いに艦隊を並べてヨーイドンで戦闘が始まるものであった。だからガダルカナルの攻防で山本長官は艦隊決戦に主力艦を温存するために、艦上機を陸上に上げたり陸攻を使ったりして艦船攻撃をさせて敵兵力の損耗を図った。来るべき艦隊決戦のために。ところが1000kmにもなる途方もない長距離攻撃を漫然と繰り返して大量の航空機を消耗した。戦艦を使って飛行場砲撃を行うにしても、艦齢が最も古い旧式な金剛型を使用した。万一損失しても艦隊決戦への影響は少ないからだ。海戦に空母を活用するのなら、むしろ最も高速の金剛型は温存すべきで、同じく旧式でも主砲の数が金剛型の五割増しの扶桑型の方が陸上砲撃に適しているが、やはり金剛型より砲力と防御力に優れた扶桑型は艦隊決戦に残したかったのであろう。

山本長官はやはり艦隊決戦の勝利による講和に固執したというのが本項の仮説である。航空戦力さえ整えれば対米戦には自信がある、と山本長官は考えていたとされるが、それは根本的に戦艦より航空を戦力として重視したのではなく、航空機による敵主力艦の減耗によって米艦隊との主力艦による艦隊決戦に勝利する自信があると考えていたのではなかろうか。艦隊決戦に勝つことが対米戦争に勝つための唯一の戦略である、というのが日本海軍の戦略なき「戦略」だったのである。 

小生の疑問を付記すれば、何故海軍がそうなったか、である。闘将として知られる山口多聞中将ですら艦隊決戦主義以上の戦略を持っていたようには思われない。こうなった原因のスタートは、日本海海戦の勝利とそれによる講和の成立である。当時の国際法上の戦争は、戦況の有利不利によって最終的に停戦して講和する。日本海海戦が圧倒的勝利に終わり、そのことが講和をもたらしたのである。

だから艦隊決戦に勝利することが講和と言う戦争の決着に直結する、と言う発想が生まれ兵学校や海大などで教育され海軍中枢に引き継がれていったのである。しかも海軍にとって都合がいいことに、艦隊決戦が講和をもたらしたのは海軍が陸戦のサポートや補給の保護と言った、陸軍の支え役であるという補助的本質が否定されたのである。だから海軍は艦隊決戦こそ国軍の最大任務であると、陸軍と張り合ったのである。このことから艦隊兵力の予算獲得だけが海軍政策の最大任務となった。海軍の戦略は艦隊充実のための予算獲得である。

石原莞爾も自覚していたように、日露戦争の陸戦は辛勝であった。建前はともかく、このことは士官学校や陸大に行って真面目に資料を研究すれば分かったはずである。だから陸軍は、日本海海戦は、グロッキー寸前の日本が最後にラッキーパンチを当ててロシアをノックアウトしたのに過ぎなかったことを知っていたのである。奉天の会戦の勝利も、まともに戦えば勝てるロシア陸軍が、ナポレオン戦争と同じく、退却して日本軍を奥地に引っ張り込んで、補給線が伸びきったところを叩くつもりだつたのである。その上大陸に進出した陸軍は満洲鉄道とともにロシアや支那と対峙して統治の一環として軍事を位置づけざるを得なかったのである。だから陸軍には石原莞爾のような戦略家はいても、海軍に戦略家はいなかった。これが本項の仮説である。