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書評・新世代の国家群像・明治における欧化と国粋

2018-08-11 15:36:26 | 維新

書評・新世代の国家群像・明治における欧化と国粋

 ケネス・B・パイル著・松本三之介監訳・五十嵐暁郎訳

 俯瞰的に、維新後の明治の日本思想史をこれほどコンパクトにまとめたのには感心する。この手の日本の思想の著書は概ね個人史によるものだから、欧米人がこれほど日本の事を研究していることは恐れ入る。

 大雑把に言えば、維新から三〇年位は、儒教などによる国の伝統的教育による立場と、西欧の文化文明の摂取の必要性のふたつのニーズに対して、このふたつをいかにミックスするか、という観点から様々な立場が派生して互いに論争していた、ということである。一つの極論は伝統的立場にだけたち、欧化を排斥する考え方、その対極が西欧一辺倒である。意外であったのは、かの徳富蘇峰がかなり長い間は後者の典型であったと言うことである。現在では、蘇峰は国粋主義の権化のように言われているから、現代の日本人は思想が軽薄である。

 漱石などの漢籍による教育と西欧を受けた、明治育ちの文学者がこのふたつの極に対して苦悩した、ということについては、個々の文学者についての評論により書かれている。しかし本書の方が、明治思想家の流れを説明している中で、文学者が例示されるので、日本で言われる鴎外漱石などの文学者の「苦悩」なるものが明快かつ論理的に理解できる

 蘇峰を中心に書かれているにもかかわらず、明治も三十年を経て蘇峰が急速に国粋主義化したことについて、変化した内容の説明が極めて少ないばかりでなく、変化の理由や経緯についての説明がほとんどなされていないきらいがある。しかも維新三〇年を経て、日本全体が国粋主義化していった、という論調は単調かつ陳腐であるし、国粋主義化の理由の説明がほとんどなされていないように思われる。

 大正、昭和から敗戦まで、日本には議会制民主主義の根幹は崩れていなかったし、現在の中共等の残忍な独裁体制に比べれば、遥かに自由で民主的でもあり続けた。もちろん日本流ではあるが。それは欧米諸国の自由と民主主義がそれぞれの民族なり国家なりの伝統に基づくのと同じことである。そう考えるとパイル氏が、日本における伝統と欧化の相克は、現代の発展途上国のものと同じである、と断ずるのは見当違いに思われる。日本が未開文明から、突如欧化したという欧米人流の先入観であろう。

 日本の伝統の崩壊に関しては、「日本の古い価値観が、その情緒的な力を二十世紀まで保持し得たのは、ひとつには日本社会が持っている二重の性質のゆえである。産業の発達は都市部において伝統破壊的な態度を助長したにもかかわらず、日本の農業形態の並外れた継続性に助けられて、地方においては古い価値観が持続したのである。(P173)」と書いているがその通りである。

 しかし、戦後日本では急速に「日本の農業形態」は崩壊し、その受け皿となったのは小室直樹氏のいうように、会社社会であろう。だが会社社会は、農村コミュニティーの代替となっても、「日本の古い価値観」の継承には多くは寄与し得ていないように思われる。これは個人的感想で論をなしていないが、東京のような大都会の真ん中でも、古い価値観の受け皿たるコミュニティーは存在しているように思われる。

 以前、三社祭の日に浅草界隈を自転車で走っていた時である。裏町の角々に、老若男女がはっぴを着て車座になって雑談している光景があった。これは都会ですらコミュニティーが存在している証拠のように思われた。小生の近隣でもそうだが、このコミュニティーの中心となっている人たちの多くは自営業であろう。

 自営業であれば、地元に根をおろし生活をともにする、という意味ではかつての農業形態と同じであろう。我家の近所の町内会では、その中の裕福な自営業の経費持ちで、毎年豪華な旅行に行くそうである。これは農村社会の相互扶助と変わりはない。これなどはパイル氏の言う「古い価値観」の維持にどの程度役立っているか分からないにしても、日本の精神的継続性に寄与していることは間違いない。

 ちなみに小生は、古い農村コミュニティーにどっぷりつかりながら、たまたま憎悪を内包した同族コミュニティーに育った体験から、地域コミュニティーに本能的嫌悪を抱いているので溶け込めない。自慢しているのではない。僻んでいるのである。



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