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左翼全体主義考(1)共産主義とは
(1)-1 共産主義とは
日本における左翼の全体主義的傾向と、それに起因する言論の抑圧の甚だしさについて、共産主義とはいかなるものか、ということから始めて、言論抑圧の必然性を考えてみよう。特に近年、日本において左翼による言論抑圧の傾向が強まっているように感じられるからである。まずは共産主義とはいかなるものか、である。
日本の左翼とは、共産主義者ないし、そのシンパである、と定義する。共産主義とは何か。この点に関してはソ連と言う「共産主義全体主義国家」が崩壊した今となっては、原点にかえって考えるしかない。というのは、ソ連はマルクス(マルクスとエンゲルス:以下省略)の共産主義を現実化するために、マルクス・レーニン主義という理論を考え、実践した。これは政権奪取においては暴力革命を、暴力革命の実施にあたっては、プロレタリアートは共産主義の前衛たる共産党の指導を仰ぐ、というものである。
国家の運営に当たっては、共産党一党独裁体制における、宗教の否定、私有財産制の否定と計画経済によることとした。これがソ連およびその「衛星国家」と言われる東欧諸国の基本原則であった。アジアにおいては、中共その他の「共産主義国家」が誕生したが、元々はソ連の傀儡政権であったが、誕生以降はアジアにおける古代からの専制王朝の様相を呈して現在に至っている。そしてソ連が崩壊して以来、日本の左翼が故郷と仰いだ、共産主義の御本尊が消え、一般大衆からも共産主義に対する幻想が崩壊したから、左翼も崩壊したはずであるが、そうはならなかったのである。
マルクス・レーニン主義とは、マルクスのいう共産主義国家を実現するために、マルクスから逸脱したものである。マルクスは革命とは言ったが、合法ではないにしても必ずしもレーニンが行ったような殺戮をも当然とする革命とは明言はしてはいなかった。マルクスは共産主義者がプロレタリア階級を指導することを示唆したが、労働者を愚民扱いするに等しい「前衛」などという言葉は使ってはいない。
確かにマルクスは、私有財産制度と宗教を否定した。この点は明らかである。しかし、共産党一党独裁については、論理的必然性からしてそうなることは明らかだが、共産党一党独裁についても明言はしてはいない。まして計画経済だとか、統制経済など言うものについては、マルクスはむしろ否定的であるとさえ思える。労働者「階級」が、生産用の資材を保有し、自由に働くことを求めていたようでさえある。
結局のところ、現実の共産主義国家、ソ連邦を実現するために、レーニンはマルクスにはない発明をしたのである。しかし、現実の共産主義国家を実現運営するには暴力革命も、共産党一党独裁も、計画経済も必然となった、と考えざるを得ない。たとえマルクスが生きていてそれらを否定しようが、これらの悲惨な現実は実にマルクス自身が考えたことに淵源を有すると言わざるを得ないのである。
唐突だが、後々のため、皇室と共産主義体制の関係について一言する。天皇は権力を分離して、権威として存在するようになった。だから武家政治でも明治の中央集権的国家体制にも矛盾なく適合した。維新国家は事実上立憲君主制となったが、それとも矛盾はしない。その意味で天皇をいただいた共産主義体制は天皇の側からはあり得る。
しかし、共産主義は、絶対君主を否定する。従って、共産主義者から見れば、天皇は認められないのである。マルクスの理論の帰結は、権威と権力の分離などということは認められない。マルクス主義が科学的社会主義として、宗教を否定したから、宗教と同じく権威の源泉である天皇は認められないのである。結局のところ共産主義体制は、天皇制を否定しなければならないのである。たとえ天皇の側から共産主義を受け入れられても、共産主義者は、それを認めない。
(1)-2 マルクスの理論
順は逆になってしまったが、なぜマルクスは私有財産の否定などに至ったかを示したい。マルクスの共産主義への道や共産主義について考えていた事は、端的に「賃労働と資本」と「共産党宣言」の二著がもっとも理解に適切であろう。資本論は、英国の資本主義社会の悲惨を描いたものであって、共産主義の理論を書いたものではないからである。
マルクス主義理論のエッセンスは「賃労働と資本」に書かれている。それは剰余価値説である。その理論は単純なもので、全ての工場生産品の価値は、労働者による労働のみによってだけ生まれる、というのが理論の絶対的前提である。価値が労働だけからしか生まれないとすれば、それによって収入を得る、資本家は労働者が生み出した価値を搾取している、ということになる。
労働者の生み出した価値とは何か。価値とは、労働に要した時間に相当する労働者の生活費である。マルクスの理論からは、資本家は労働者の生み出した価値の全てを労働者に分配すべきであるが、資本家が雇用しているために、そうとはならない。しかも労働者は生活のために、より低い賃金でも雇用されることを求める。あくまでも資本家の地位は揺るがないので、搾取はより多くなるようにしかならない。
労働者の窮乏は激しくなる一方である。窮乏が際限なくひどくなって、頂点に達すると革命が起き、労働者が権力を奪取する。従って、革命は資本主義が高度に発展した社会においてだけ起きる。それを媒介するのが共産主義者である。あけすけに言えばマルクスの考えた理論の根幹はこれだけの事なのである。
このことからマルクスはいくつかの事を敷衍する。革命は歴史的必然から生まれるものである。従って、この歩みは絶対的真理である。このことを後の共産革命の実践者は科学的社会主義であると呼んだ。科学のように普遍的真実だ、というわけである。これを否定する者を弾圧する、という考え方はここに起因する。また宗教は労働者の窮乏を、精神的に救済するものである。だからマルクスは宗教をアヘンに等しいものである、と言った。宗教は否定された。
資本家は資産によって工場を経営し、労働者を搾取するから、私有財産は搾取の手段である。従って財産の私有は禁止し、労働者の共有であるものとする。注意を有するのは価値を生むのは、工場の労働者によってのみ生まれるから、マルクスの言う労働者とは、一般に言うところの工場労働者だけである。農民も商人も価値を生み出さないから、マルクス理論においては労働者ではないという帰結となる。ソ連において、医師や技術者が低賃金におかれたのは、その実践である。レーニンはマルクスの理論に現実を合わせようとしたのである。
(1)-3 マルクスの理論の現実との乖離
これだけシンプルにマルクスの理論を見ると、今の目で見ると現実と甚だしく乖離しているのは分かるであろう。明瞭なのは、労働者には工場労働者以外の、農民、商人などは労働者としてカウントされない、ということである。現代の共産主義者はそのことは語らない。現実と乖離しているから都合が悪いからである。農民はや商人は労働者ではなく中産階級であると、マルクスは明言している。
このことをレーニンは徹底して悪用した。ソ連は西欧諸国より工業部門で立ち遅れた。近代兵器生産ができないのである。そこで行われたのが飢餓輸出である。重化学工業に投入する資本を得るために、農民から農産物を奪って資金を得て、あたかも計画経済が大躍進したように宣伝した。しかし、そのために農村では餓死者が出たのである。
マルクスの言う資本家とは、自ら資本を持ち工場を経営する者のことである。現実にはこのような者が大勢を占めたのは資本主義社会においては、ごく初期の段階だけであった。その後の大資本においては、経営者自身が工場などの資産を自ら保有することなど不可能な規模に発達したのである。現在社会で経営者が自ら資産を持って工員を雇う、などというのは規模の小さい町工場でしかない。
現在の日本の共産主義者が応援する中小企業とは、マルクスの言う、労働者を搾取する資本家そのものである。マルクスが見た当時の英国での資本家とは、その程度の発展段階のものでしかなかった。マルクスは、それが全てである、として理論を組み立てたからこのようになってしまったのである。そして科学的社会主義として、宗教を否定したから、このような矛盾はなきものとされた。
共産主義社会の最も不可解なのは、私有財産の否定である。私有財産とは何か、を考えれば分かる。金銭、不動産、その他の資産である。金も家もなければ、人間はどうやって生活すればいいのだろうか。食料を買うのにすら金が要る。金がなくて生活できる、近代社会とは何であろうか。どんなに単細胞が考えても不可解極まりない。現にソ連にも金銭はあったのである。
このようにマルクスの理論ですら、普通に考えるだけで、現実に適合しない事ばかりである。ところがこれを多くの学識あるはずの人が大真面目に信じたのである。否、ソ連が崩壊した今でも信じている人がいる。マルクス主義批判をする人ですら、マルクスの理論は巧妙精緻であるという。どうしたことだろう。それは数学を考えてみればわかる。
数学とは現実を数量化した普遍的なものである、と考えがちだがそうではない。数学とはいくつかの仮説(公理)を立てて、仮説を論理的に展開して、公理系を作る。公理系の中で矛盾が生じなければ、その公理系は成立することになる。
例えば、負の数の二乗は必ず正の数になる。これが一般的常識である。ところが数学者は二乗すると、負の数となる「虚数」という概念を発明した。これを加減乗除した数学を展開しても、矛盾が生じないことを発見した。これが虚数の世界である。現実から直観すると奇異だが、このような数学の世界は存在する。しかも、虚数を使った数学は、流体力学や伝熱工学といった現実を理論的に解析するのに有効なのである。
マルクス主義批判をする人ですら、マルクスの理論は巧妙精緻であるといったのは、このようなことではなかろうか。理論の中では矛盾のない体系が構築できるのである。しかし、 虚数を使った数学が、流体力学や伝熱工学といった現実を理論的に解析するのに有効なのに対して、マルクスの作った理論体系は、現実世界に適用は出来なかった、それだけのことではなかろうか、と思うのである。それで現代のマルクス主義者は、マルクスの作った架空の世界に生きているのであろう。それどころか、日本のマルクス主義者は現実をマルクス理論に合わせることを夢見ているのではなかろうか。その一端が言論抑圧という形で露呈しているのだと小生は思う。