goo blog サービス終了のお知らせ 

毎日のできごとの反省

 毎日、見たこと、聞いたこと、考えたこと、好きなことを書きます。
歴史、政治、プラモ、イラストなどです。

書評「海軍の選択・再考 真珠湾への道」

2020-07-17 20:47:51 | 大東亜戦争

相澤淳著 中公叢書

 この本は巷間言われている山本五十六や米内光政を中心とした海軍が対米戦争反対の平和主義だったという迷信を、いとも簡単に打破してくれる。そのポイントは軍縮問題、支那事変、三国同盟、対米開戦の4項目について見れば充分だろう。

 山本は海軍軍縮会議の第一次ロンドン会議の際に随員として行った際に、大蔵省の随員だった賀屋興宣が財政面から軍縮の意見を述べると「賀屋黙れ、なお言うと鉄拳が飛ぶぞ」と脅迫した(P17)。しかしこの話はこの本の独自の情報ではなく、有名な話である。平成23年から上映された山本五十六の映画など海軍シンパは故意にこの事実を無視する。一体、この話のどこをどう解釈したら、山本が海軍軍縮推進の条約派だということになるのだろう。 

 米内光政は支那事変初期には不拡大であった。この理由は昭和6年に蒋介石に会って米内が好印象を持って「蒋介石はえらい奴だ」と述べるなどして、シンパシーを持ったことが根底にある、というのだ(P92)。えらく馬鹿げた感情論に基づく単純な話ではないか。ところが中国空軍機が海軍の軍艦や陸戦隊本部を爆撃すると、態度が一変して陸軍より強硬になったという(P106)。初期には対中日本優越論を持っていたのに、支那の中央政権が本気で向かってくることが分かり、態度を一変させたという(P108)のである。前述の蒋介石好感論と同様に、戦略などない軽薄の極みである。 

 米内や山本は英国との対立を恐れて三国同盟に反対したのではなく、三国同盟に対する賛否の判断は海軍の伝統的な北守南進論にあるというのだ(p202)。当初は陸軍の北進=三国同盟に抵抗したという。要するに三国同盟を結べば、陸軍の北進論が優位になるから反対である、というのに過ぎない。海軍が米内首脳部から及川首脳部に代わったために海軍が急に三国同盟賛成に転じたという通説も間違いであるとする(P187)。

 第二次大戦が昭和14年に始まると、ドイツと提携することによって、南方進出する好機だとして、南進論の海軍が賛成に転じたというのである(P206)。そもそも米内は親独ソ、反英だったという(P150)のだから対英融和による反対説などあり得ないのである。こうなると米内が反対したのも賛成したのも説明がつく。 ちなみに米内には、ソ連のハニートラップにかかっていたという説すら全くのデマとも言い切れない行動が目につくのである。

山本は海軍次官時代「航空軍備の充実があれば対米作戦は大丈夫だ」と語っていた(P223)。昭和16年の時点では航空軍備は充分ではなかったから山本は「対米戦能力は、せいぜいが一年から一年半」と言ったというのだ。つまり対米反戦からの開戦反対ではなかった。 山本の不見識は駐米武官をして、米国民性に接する機会を得ながら、米国の戦争が、いいがかりに等しい「リメンバーアラモ」「リメンバーメイン」と呼号して、メキシコやスペインと戦争を始めていることに何らの顧慮もなく、真珠湾攻撃を強行して、「リメンバーハールハーバー」と言わしめたことである。真珠湾攻撃の動機たるや、開戦即日にして米国民の戦意を喪失させる、というのだから、山本は米国にいて、米国民性も米国のやり口を何も知らなかったのだから、論外である。

 これだけチェックすれば充分であろう。そもそも海軍が北進に反対したのも平和主義のためではなく、対ソ戦備優先となれば予算を陸軍に持っていかれるという官僚的発想に過ぎなかったし、それが南進となって予算獲得に有利になるという、これも官僚の典型的悪弊である。だから本当に対米戦が起きることになると、対米戦に勝てる自信なし、などとは口が裂けても言えなかったのである。米内にしても、山本にしても同じである。


栗田艦隊の謎ではない反転事件

2020-06-19 14:10:28 | 大東亜戦争

  大東亜戦争の海戦史で必ず語られるのが、フィリピン沖海戦の「栗田艦隊謎の反転」である。空母を基幹とする小沢艦隊が囮となって米機動部隊を北方に集めている隙に、栗田艦隊がレイテ湾に突入して、米戦艦部隊と上陸部隊を撃滅する、というものである。そしてハルゼー艦隊を北方に誘う囮作戦自体は成功した。ところが米艦上機の執拗な攻撃で武蔵などを失った栗田艦隊は、レイテ湾の目前で突入を行わず、北方の敵機動部隊を攻撃する、と称して帰投してしまったのである。

 これに対して、レイテ湾の米戦艦群は西村艦隊との夜戦で主砲弾を消耗していたから、突入したら大和以下の栗田艦隊が撃沈して、上陸部隊も艦砲射撃で撃滅できたから、栗田中将は臆病風に吹かれたのだと言う説が戦後定説であったように思う。その後、レイテ湾の米艦隊の残弾数を算定して、実際にはかなり砲弾が残っていたから返り討ちになってしまうのが落ちだし、上陸は既に成されていたから、栗田艦隊は空の輸送船を砲撃出来たのに過ぎない、と言う説が出てかなり信憑性があるようである。また囮作戦の成功を栗田艦隊が受電しなかったので仕方ない、と言う説もある。肝心の栗田は戦後も生き残ったが真相を語らず、僅かに「疲れていたからだ」とだけ語ったとされている。

 最近はネットなどでも、囮が成功しようとしまいと、小沢艦隊の全滅を犠牲にした、乾坤一擲の作戦なのだから、突入した後の成否に関係なく、予定通り突入を決行するのが当然である、と書かれているがその通りであろう。これ以後連合艦隊の戦艦群は呉で浮き砲台となって組織的行動は取れず日本海軍はフィリピン沖海戦で壊滅したのに等しい。それ以後の海戦と言えば僅かに、何の戦果もない大和の沖縄特攻作戦を行っただけだから、栗田が戦艦を保全して帰ったのには意味が無いのである。

 私にとって不思議なのは、北方にいる機動部隊を攻撃する、といって実質逃避したことに対する批判が少ないことである。栗田艦隊がレイテ湾突入を断念したのは、サマール沖海戦で艦隊の隊列が混乱したために米空母群の追跡を諦めて艦隊の陣形を再度整えて、再度レイテ湾に突入しようとしたところ、北方に米機動部隊がいるという無電があったから突入を止めて機動部隊に向かった、というのである。これがどんないい加減な話かと戦史家は思わないのであろうか。サマール沖で戦った相手は、護衛空母艦隊に過ぎなかったが栗田艦隊は正規空母群すなわち機動部隊と見做していたのである。目の前にいる機動部隊から逃げ出して、いるかいないか分からない不確かな北方の機動部隊を追跡する、と言うのはどう考えても理解できる話ではない。

 栗田が陣形を立て直して、レイテ湾への突入を止めるのなら、まず現に確実にいる機動部隊の攻撃に再度向かうべきであろう。北方に機動部隊ありとの無電を発した日本軍部隊は未だに知られていない。護衛空母を救うための、あるいはレイテ湾突入を防ぐための米軍の偽電であるという説もある。果ては入電は栗田艦隊の司令部のでっちあげである、という説さえある。だが無電の真偽などはどうでもよい。北方の機動部隊を攻撃するため、ということを口実に戦場から逃げ出した、と言うことだけが確かなことである。

  ただ一言だけ日本海軍のために弁じたい。かの伊藤正徳氏は「連合艦隊の最後」においてフィリピン沖海戦について「無理の集大成であり、そして無理は通らないという道理の証明に終わった」と書いている。実に正しい評価である。しかしレイテ湾米軍上陸のあの時点で、連合艦隊は他にいかなる効果的な作戦を実施すべきであったろうか。寡聞にして代替の作戦計画の提案した戦史家を小生は知らない。この作戦の場合、代替案のない批判は無意味ではなかろうかと思うのである。


書評・F機関-アジア解放を夢見た特務機関長の手記 藤原岩市・バジリコ㈱

2020-03-17 16:12:10 | 大東亜戦争

F機関-アジア解放を夢見た特務機関長の手記 

 古今東西これほど高潔な軍人がいた、と言う事をこの本を読むまで知らなかった事は恥じ入る限りである。最も重要なのは弱冠三十三歳の藤原少佐の編成した少数のF機関の働きがインド国民軍(INA)の設立を促し(P132)、INAがインパール作戦に参加したことである。戦後INAが英印軍に対して反乱を起こしたとして、裁判にかけられたことがきっかけで収拾がつかない全国的な暴動が発生し膨大な死傷者を出したために、英国は統治権を返還、つまりインド独立を認めざるを得なかった。

F機関ひいては大東亜戦争がインド独立の直接の契機であったのは間違いない。F機関が高潔で私心のない藤原少佐に率いられたからこそ、インドやビルマの人たちを結束させたのである。そんな組織を作った陸軍の見識も見事である。本人が経験も資質もないと誇示するのに敢えて命令したのは、軍幹部もそれなりの見識があったのに違いないのである。軍のバックアップには問題があったにしても、全ての軍人に藤原氏の高潔を求めるのは、理想主義に過ぎる。F機関の創設をさせたということだけで、国家組織としては充分高潔と言える。もし大東亜戦争がなければインドの独立は三十年遅れたとも書かれているが、単に遅れただけでは済まない。現在でもインドの公用語には英語もあるように、独立が遅ければ遅いほど、インド文化は喪失していったであろう。三十年は恐ろしく長い時間なのである。日本軍によるアジア侵略と信じ込まされている人たちはこの本を読んで、よく考えていただきたい。

日本軍人の責任感の強さを伝えるエピソードがある。二名の日本兵が、若干の銀製食器類とマレイドルをマレイ人家庭から略奪したが、藤原少佐が咎めて部隊長に報告するよう命じて帰したところ、その日のうちに自決した、というのである(P106)。他にもマレーで略奪を行った日本兵を処罰する場面がある(P169)シンガポール占領の際、山下将軍は混乱を避けるため、市内には治安維持のための一部の憲兵を入れただけで、軍の主力は郊外に駐留した(P217)。

これは米軍のフィリピン侵攻の際に、山下将軍が市内を無防備都市宣言をして市街戦を避け郊外で戦おうとしたことと同じで、市民の被害を極限しようとしたのである。ところが海軍の反対で市街戦を戦ったためにマニラ市民が米軍の攻撃で多数殺された。今でもフィリピン人は、米軍は市民を殺し過ぎたと心底では思っているそうである。そして陸軍にはこのような判断ができたのであって、戦闘を知らない海軍の誤断による失敗が大東亜戦争の陸戦に随所にみられる。太平洋の島嶼戦でも海軍は多数のイージーミスを犯している。

インパール作戦は、戦闘としては大惨事となり失敗ではあるが、インド独立、ひいては全世界の植民地の解放につながり、現在の自由貿易社会はそれによって生まれた戦後日本の高度成長は植民地の解放なくしてはあり得なかったのである。インパールの犠牲者には犬死ではなかったと言うべきである。戦後の英軍の裁判でINAが告発されたのはINAが日本軍とともに英軍と戦ったからである。自由インド仮政府は英国に宣戦布告したのであり、INAの唯一の戦争がインパール作戦であった。独立の英雄チャンドラ・ボースは「・・・死傷の続出、補給の途絶、餓死も、進軍を中止にする理由にはならない・・・」(P308)と叫んで日本軍の作戦終了に最後まで抵抗したのである。英軍による裁判が行われている時期にインドの新聞は、インパール作戦においてINAが英軍に武勲をあげたと報道して支援した。

 インド独立におけるチャンドラ・ボースの功績は絶大なものがある。それはINAの創設とインパール作戦に対するINA将校の処罰に対するインド国民の反乱がインド独立の直接の契機となったからである。確かに、ガンジーの非暴力の抵抗卯運動は、インド国民に対して反英精神を涵養した。しんし、独立のきっかれを作ったのはチャンドラボースである。ガンジーはインド独立の父と呼ばれているようである。しかし、独立の父と呼ぶべきは、チャンドラボースである。反英精神を地道に涵養した、と言う点において、ガンジーは独立の母と呼ばれるべきではなかろうか。

いわゆる日本軍の残虐行為の記述については同意しかねる箇所がある。戦後間もなく書かれたことと、少佐の高潔な性格の故で同胞に対しても厳しかったのであろうと思うが残念である。マレーに進駐した日本軍は、華僑が晴天白日旗を掲揚する事を、一度は藤原少佐の要請で許可したものの、その後禁止した(P125)。英統治下でも彼らの祝日には祖国の国旗を掲揚していたのに、というのである。これに対する反感を英軍と共産系華僑が利用して、後方撹乱やスパイ行為を行った結果、華僑の摘発と虐殺と言う汚点を残したと言う(P230)。

中島みち氏の「日中戦争いまだ終わらず」に書かれているように、史実はこんなナイーブなものではなく、計画的な不法行為に対する摘発であって虐殺ではない。藤原氏は支那事変についての日本軍の違法行為の噂も信じているのであるが、これも支那側の宣伝を容易に信じる少佐のナイーブさの証明であるが、だからこそこのような崇高な任務を行う事が出来たのであるから、絶対矛盾である。支那事変においては日清日露の当時より不法行為が増えているのは事実であるが、それは支那兵が行った日本軍捕虜の目を覆いたくなるような惨殺体を頻繁に目撃した兵士が、怒りにかられて行った同情の余地のあるものである。支那兵は国際法違反の便衣兵や女子供によるテロ行為など卑劣な戦法を常習した。ベトナム戦争でのソンミの虐殺などもこれに類することである。北ベトナム軍は米軍兵士や南ベトナム人を卑劣な手段で虐殺したが、日本ではその声が聞こえないのである。

「訊問」の章ではチャンギー刑務所における残虐非道な捕虜への取り扱いが次のように書かれている。

刑務所の有様は、さながら地獄の涯、賽の河原を思わせるものであった。畜生を扱うに等しい警備兵の仕打ち、飢餓ぎりぎりの乏しい粗食、陰険苛烈な尋問、神の裁きを詐称する前近代的な復讐裁判、獄の一角で次々と執行される絞首刑等、陰惨を極めた。将兵は、骨皮同然に痩せさらばえ、渋紙のように陽焼けし憔悴していた。

これが戦後捕虜を人道的に扱ったと宣伝される連合国の実態である。まして誰も見ることのできない植民地で、欧米諸国がアジアの人々をいかに過酷に扱ったか想像できるではないか。フィリピンでは反抗する30万人の人をバターン半島に追い込み餓死させ、インドでは機織り職人の右手首を切り落とし仕事を奪った、などというのは氷山の一角にもならないのであろう。ナチスの蛮行は欧米人自身が告発している。しかし同じ欧米人が同じような事を植民地でしなかったはずはないのである。現にアメリカインディアンは絶滅したに等しい。ニュージーランドのアボリジニーはただの一人も残すことなく絶滅させられた。オーストラリア人の狩猟遊びのターゲットとして殺戮されたのである。

藤原氏は現代日本人に重大な警告を発している。戦後日本人は占領下の痛苦に耐えて国土の再建を期していた終戦直後の祖国と同胞を知っていた、と言いながら直後に「その後浅ましく変貌したが」と書いているのだ(P337)。最後に藤原少佐の女婿の冨澤氏が、英軍将校にF機関の成功の理由について質問されたときの藤原少佐の答えを紹介している。これがこの本の全てを語っているが、諸氏は本書を読んでいただきたい。私はこれを書くに高潔と言う言葉を繰り返した。藤原氏を表わすのに語彙の貧困を恥じる次第である。

 現代日本では反中共ネットワークとして、日米印の提携が言われている。それもINAが実現したインド独立のなせるわざである。ただし、インドは敵の敵は味方の戦略で、主要な兵器はソ連に依存している。国際関係の複雑のゆえである。


開戦の一撃の敗北で講和した国はない

2020-03-05 12:55:19 | 大東亜戦争

 山本五十六が真珠湾攻撃を行ったのは、国力の差で、長期戦となったら勝ち目がないから、一撃で徹底的な被害を与えて、講和に持ち込む算段だった、というのが一般的に言われているのだと思う。阿川弘幸の山本五十六にも、海軍大臣に送った「戦備に関する意見書」で「勝敗を第一日に於て決するの覚悟(下巻P28)」と書いている。しかし、同書を他の個所を読んでも必ずしも、真珠湾攻撃後、継戦することがないと考えていたとも言い切れない。一撃で決戦するつもりかどうか、山本の戦略はまことに判然としないのである。

冷静に考えてみれば、世界の戦史に領土も占領されずに、開戦劈頭の一度の大敗で敗北を認めて講和した、という例はないと思う。開戦の通告が事前に行われていれば、米国は大被害のショックから、日本が講和を申し入れれば受け入れる、と考えるのは歴史的常識として、荒唐無稽という他ない。

 荒唐無稽とも思われないのは、駐米大使館の無様な不手際から、開戦の通告が遅れたために、米国世論が一気に参戦に転じたという説がまかり通っていて大問題視され、もし通告が遅れなかったら、ということが痛恨事として肥大化していって、そこで思考停止してしまった。そこで、遅れなかった時の、その後の米国の対応がどうなっていたか、ということに想像力を働かすことをしないことにあるように思う。

 「未完の大東亜戦争」で渡辺望氏は、米国にとって真珠湾攻撃は米本土決戦に等しく、本土空襲などは、その報復として行われ、仕上げとして日本本土決戦を予定した、というのだが、あり得る話でも考え過ぎである。ハワイはアジア進出の橋頭保として併合したもので、州に昇格したのは戦後の話である。本土の一部と言う意識が米国人にあったとは考えにくい。米大統領が戦時中ことあるごとに真珠湾攻撃を持ち出したのは、アラモ砦やメイン号と同じく戦争の大義として利用していたのに過ぎない。

 もし、山本五十六が本気で真珠湾攻撃の一撃で講和できる、と考えていたとしたら愚か過ぎるから、そんなことはないであろう。このような説は、後年の伝記作家や海軍関係者が、反戦主義だった山本は早期講和を望んでいたという根拠として、流布したものだろう。

 山本の意図は、日露開戦劈頭の旅順港攻撃にならったもので、旅順港攻撃が攻撃の不徹底によって失敗したための教訓を取り入れたものである、という説を読んだことがあるが、これが正しいのだと思う。旅順港のロシア太平洋艦隊を、開戦と同時に撃滅して制海権を奪う、という発想と真珠湾の太平洋艦隊を撃滅する、という発想は類似していて、海軍軍人としては自然な発想である。

 この発想は、永年海軍が想定して戦備を整えていた、開戦と同時にフィリピンを攻略すると、米艦隊が一挙に攻めてきて、フィリピン沖か小笠原沖あたりの西太平洋で、日米の艦隊決戦が起り日本が勝利する、という構想と全く異なる。そのため、突然真珠湾攻撃に転じたのは、戦争のドクトリンを突如変更することで、極めて無理がある、と言う説を唱える人も多い。小生もそのこと自体は正しいと思う。

 だがそれ以前に、海軍の西太平洋での艦隊決戦ドクトリンが、対米戦の構想として現実的ではない、と考えている。米艦隊がフィリピン方面に攻めてくるのは、フィリピンに逆上陸してフィリピンを奪還するためである。米艦隊は上陸支援をしにくるのである。現実に、フィリピン沖海戦は、複雑な様相を呈し、連合艦隊と米太平洋艦隊による単純な艦隊決戦とはならなかったのである。

真面目に対米戦を考えるなら、開戦劈頭に米太平洋艦隊を奇襲して、戦力を大幅に奪っておこう、と考えるのは自然である。西太平洋沖の艦隊決戦を構想したのは、海軍は対米戦を想定していたのではなく、陸軍と張り合って予算を獲得する算段をしていたのである。

 だから、日米の全艦隊が西太平洋で一度限りの艦隊決戦を行う、という空想をして、勝利のためには艦隊戦力は米国の七割でなければならない、と主張したのである。だが艦隊決戦の根拠となった日本海海戦が、バルチック艦隊と連合艦隊が互いに持てる艦隊の全力をあげて戦う結果となったのは、バルチック艦隊が日本攻撃のために出撃して衝突したのではない。ひとまずウラジオストックに全艦隊を一斉に回航しようとしたのである。

 ウラジオストックに無事ついたら、再度全艦隊が一斉に出撃する理由もない。バルチック艦隊の任務は、日本軍の大陸への補給を遮断し、大陸の日本軍を孤立させ、軍需物資が枯渇したところをロシア陸軍が反撃に転じて殲滅し、戦争に勝利することであろう。

 確かに山本が突如ドクトリンを変更して、突如真珠湾を攻撃したことは間違いである。しかし、本当に対米戦をすることを考えると、真珠湾に太平洋艦隊がいる限り、真珠湾を攻撃して太平洋艦隊の主力艦を漸減しておかなければならない、という発想が生まれるのである。日本海軍の永年のドクトリンが真面目に対米戦を考えていなかった、という所以である。

 ちなみに陸軍は、帝国国防方針に基づき、フィリピン上陸作戦を考慮し、上陸作戦用の大発動艇や強襲揚陸艦の世界的先駆と言うべき、神州丸やあきつ丸を開発した。これらの船は大発動艇などを搭載している本格的なものである。大発は米国が参考にして上陸用舟艇を開発したという先駆的なものである。これらの上陸用艦艇は、支那事変や大東亜戦争でも活用されているから、陸軍には実戦を想定した先見の明がある。

 その一方で、第一次大戦でドイツ潜水艦による通商破壊の絶大な効果を知りながら、補給遮断に潜水艦を活用することもなく、船団護衛の艦隊を編成したのは戦争末期であり、効果を発揮するには遅すぎたし、対潜機材の開発も極めて遅れていた。小生は、海軍の戦備構想が、陸軍に比べ実戦を想定していない、空想的なものであると言わざるを得ない。


ある顕彰碑その2(忠霊塔)

2020-01-10 19:20:23 | 大東亜戦争

 前回「ある顕彰碑」に書かれていた言葉は、実は「忠霊塔」に付随するものであったことを、改めて昔の写真を見返して思い出した。写真は全て平成十六年に撮影したものである。顕彰碑の他にもセットで「忠霊塔改修の詞」が掲げられているのであるのにも気づいた。その要点となる一部を取り出して下記に記す。

 

忠霊塔改修の詞

 この忠霊塔の本体は、旧御殿場町当局、在郷軍人会会員および町民の絶大な御支援御協力奉仕によって、昭和十七年夏に起工して翌年夏に功成ったものであります。時あたかも十七年六月のミッドウェー海戦を境に戦局は急転を告げ、軍需資材はむろん、日常生活物資も窮迫その極に達し、所要石材等の入手難から遠く茨城の産地に赴き、諸種手を尽くして資材を確保、加之輸送もまた意の如くならない中を万策を講じ精魂の限りをこめて建立して下されたものであります。

中略

 昭和五十年終戦三十周年を記念して関係者相議り、先ず塔の両そでに殉国英霊の芳名を刻むことを一決、続いてこの機会逸せず碑石その他を改修して聖域を整備することとなりました。

 

昭和五十年十一月十六日

 

 顕彰碑の本体である、忠霊塔は昭和十七年の夏、すなわち国民にとっては、大東亜戦争大勝利の連続であった緒戦の時期に計画建設されていたのであった。ミッドウェー海戦の大敗などと言うことは戦後知られたのであって、当時は連戦連勝であると信じられていたのである。

だから緒戦の勝利に酔っていたと言われている時期にもかかわらず、殉国の英霊を供養する、忠霊塔なるものを建設したということは、大東亜戦争が、日清日露の戦争と比べても、大変な国難であることを国民は直観していたのに違いない。

 

 顕彰碑は、昭和五十年の忠霊塔改修にともない設置されたものであり「忠霊塔改修の詞」にある通り、改修の際に,忠霊塔の両そでに御殿場町出征の英霊の名前を刻したのである。ちなみに顕彰碑には三百九十余柱とあるが、近傍に建てられた木杭には、戦没者三百六十八柱と墨書されている。この違いは大東亜戦争戦没者とそれ以前の戦没者も含めたものの違いかも知れないが、真相は不明である。英霊には、二十二歳の若さで戦病死した、小生の叔父も含まれていることを付言する。

 いずれにしても、当時の御殿場町の人口は一万人程度であったから、町民の三十人に一人が戦没した。当時の一家族は十人近いのも稀ではなかったから、三~四家族に一人は戦没者がいたのである。考えてみれば当時の日本の人口は一億に満たず、三百万人余の犠牲者を出しているから、御殿場町の戦没者数は全国平均的なものであったろう。ちなみに忠霊塔は小学校校庭の四角の一辺を成す、陵墓にも似た小山の裾を利用して建てられており、階段を含めれば高さが10mを超える壮大なものである。すぐ近くには浅間神社がある。

 

 さむらい小平次さんより「このような碑が作られ、いまだに撤去もされないのは御殿場の土地柄との関係があるのではないか」という意味の貴重なコメントをいただいたので、元市民として、今の御殿場市民が忘れたであろう、小生の知ることを簡単に記す。

 戦前富士の裾野は陸軍の演習場があつた関係だろうと思われるが、戦後米軍が進駐して基地の町となった。要するに戦前から軍隊との関連は強かったのである。榴弾砲の弾着があるたびに、薄っぺらな小生の家のガラス窓は、ビリビリと震えた。弾着地点からは十キロは離れていたのにである。繁華街の一角には、米軍様専用の歓楽街があった。

 小生などの子ども達は米軍ご用達の飲み屋に、道端のカタツムリを集めて売るバイトをした。エスカルゴ、というわけです(^^♪。だから米兵などは無教養の馬鹿だと思っていた。しかし金髪の米兵の落とし子がいたくらいなので、怖い連中だとも思っていた。

 演習場で薬莢拾いのバイトをしていたおばさんが射殺される事件も一度や二度ではなかったと思うが、何ら問題にもされなかった。対策は何と演習時間の町民への周知徹底だけだった。小生の記憶には米兵の射的遊びの犠牲者だと信じるだけの傍証はある。米軍の横暴は現在の沖縄の米軍の比ではない。だから人道的米軍などということは、到底信じないのである。そんなこんなが御殿場の風土にはあった、と今にして思う次第である。

 


ある顕彰碑

2020-01-07 20:48:36 | 大東亜戦争

 このブログに興味を持たれた方は、ここをクリックして小生のホームページも御覧ください。

富士山の麓の街を旅して、ある小学校の校庭に「顕彰碑」なるものを見つけました。次に記すのは、縦書きを横書きにしただけで、文体等はそのままです。

顕彰塔誌 

 霊峰富士を仰ぐ、この地に建立されたこの忠霊塔には、西南の役以来幾多の戦役に従軍し、一命を 皇国にささげられた旧御殿場町在籍の英霊三百九十余柱が鎮まります。

 顧みれば、英霊は明治維新の大業成り、国民皆兵の義務のもと、皇国の防衛と国権の維持に力を注ぎ使命感に徹し忠君愛国の精神を堅持して、西南の役日清日露両戦役に従軍し国威を全世界に宣揚した勇士や続く満州事変日支事変に際して国家の権益擁護に敢闘し一死国恩に報じた列士、更には八紘一宇の大理想と東亜被征服民族を開放し、万邦をして各々その所を得しめんとの、大義名分を旗印とする大東亜戦争に及ぶや感泣勇躍、陸海空を所狭く転戦中忠孝の道きわまり散華した義士であります。この聖戦に散男女青少年学徒、一家の柱石等総力を傾注して戦い、天に三百十余万の生命を犠牲にしましたが昭和二十年八月十五日終に敗戦といふ結果を招きました。

 国破れて山河あり。この冷厳な事実を直視した国民は異口同音に日本を再建しなければならない、その再建は日本人自身の不屈の努力によらなければならない、他人の援助や偶然を期待してはならないとの眞剣な自覚を促すにいたった。この自覚の由来は実に英霊が身を以て実践垂範せられた遺産に外なりません。一度は敗れたとはいえ 外、東亜諸民族は相次いで独立した。正に英霊は身を殺して仁を為すと称せらるべきもの。内にしては、焦土と化した大小都市に高層建築を林立せしめ、剰え今日世界屈指の経済大国を形成せしめた。これまた、英霊各位の遺徳偉勲の賜ものに外なりません。終戦三十周年に当たり顕彰塔詞を建立して、その遺徳を万世に伝える次第である。

    昭和五十年十一月十六日

 私は、この碑が昭和50年と言うそれほど古くない時代に、しかも戦後30年の記念として作られた事に驚いている。現代日本のように、自虐史観が跋扈すると同時に大東亜戦争を肯定的に評価する書籍も多く出ている時代と違い、戦時中に青春を過ごした人たちが多く生き残って、戦争の実相を知っていたのにもかかわらず、人々は戦争について黙して語らなかったからである。この碑のように維新以後戦後までの日本の歩みについてこれほど簡潔に述べたものを私は知らない。当時の市井の人々は語らずとも、精神は健全だったのである。

 そのわずか10年後の昭和60年には、国会においては、侵略戦争の謝罪決議などと言う運動が出てきた。その間に日本は洗脳されつくされたのである。現代にこのような碑を学校のような公的な場所に建てようとしたら、反対運動で実現不能であるのは間違いない。

 


対日戦の動機に関する疑惑(2)

2019-11-25 19:58:25 | 大東亜戦争

 本稿については、以前に書いた。しかし、間違いと気付いたことがあるので、修正する。それは、米国の対日独以前に全く反戦運動がなかった、ということが明白な間違いである、ということである。米国内の反戦運動については、「リンドバーグ第二次大戦日記」で書いていたから気付いていたはずなのにあまりに迂闊であったことを反省する。このことを含めて改定する次第である。また、以前は第二次大戦が始まった(欧州において)時点からの記述であったが、もっと遡ることにする。その方が米国の動機がより明らかになると考えるからである。さて本論に入る。

 通説は、米国政府が日本を挑発し、対日戦を開始した動機は裏側からの対独参戦である、とされている。つまりドイツによって崩壊しそうになった英国を救うためである。ルーズベルト大統領は、既に始まっていた欧州戦争への参戦を嫌う米国民に対して絶対に参戦しないことを公約して3選を果たした。そこでドイツと軍事同盟を結んでいる、日本に最初の一発を打たせることによって国民を引っ張ろうとした、というのだ。

 

 この見解に小生は以前から疑問を持っている。歴史年表を見てみよう。歴代米大統領政権についても付記した。

 

・明治19年3月~大正2年3月・・・マッキンリー、セオドア・ルーズベルト、タフトの共和党政権

・大正2年3月~大正10年3月・・・ウィルソン民主党政権

・大正10年3月~昭和8年3月・・・ハーディング、クーリッジ、フーバーの共和党政権

・大正11年2月・・・ワシントン軍縮条約署名、主力艦等の制限

・昭和4年3月・・・フーバー大統領(共和党)就任

・昭和5年4月・・・ロンドン軍縮条約署名、巡洋艦以下の制限

・昭和6年9月・・・満洲事変

・昭和7年3月・・・満洲国成立

・昭和8年3月・・・F.D.ルーズベルト大統領(民主党)就任

・昭和12年7月・・・北支事変勃発

・昭和12年10月・・・FDRの隔離演説

・昭和14年7月・・・日米通商航海条約破棄通告

・昭和14年9月・・・第二次大戦開始

・昭和14年11月・・・中立法を修正し武器禁輸を撤廃

・昭和15年9月・・・英領に海軍基地を租借し、英国に駆逐艦50隻を供与した。

・昭和16年1月・・・年頭一般教書演説でルーズベルトは、独裁者の戦争を非難し、米国が安全を脅かされていると訴えている。

・昭和16年3月・・・武器貸与法を成立。大々的に英ソに武器援助を開始。

 

 以上であるが、日米の動きは大正末からピックアップした。明治以降の米大統領の系譜を示したのは、政権と政策との関連を示すためである。軍縮条約は、米国の軍事政策との関連があるので示した。ワシントン条約では主力艦の制限と同時に、四ヶ国条約が結ばれたのに伴い日英同盟が廃棄されたために、軍縮では日本は不利は被らなかったと言われているが、日英同盟廃棄によって、日本は対米関係が不利になったとされる。

 

条約の締結は共和党政権であるが、時間的にその準備はウィルソン民主党政権によって準備されていた、と考えるべきであろう。ロンドン条約では巡洋艦以下の補助艦艇の制限では、実は、米国が第一次大戦中に連合国支援のために、主として駆逐艦を短期間に大量に製造していたことに関連する。これが艦齢二〇年を過ぎ、更新しなければならない時期にきていた。

 

従って、数量制限をしたとしても、米国は更新のちょうどいい時期となる。一方、特に元々日本は条約以前に逐次新型に更新していたから、制限の枠内で新造できる駆逐艦などの量は僅かとなる、というわけである。ちなみにロンドン条約は共和党政権下である。うがち過ぎた見方かも知れないが、セオドア・ルーズベルトやフーバーの共和党は、結果から見ると、反日的なことが明白なウィルソンやFDRの民主党政権よりましであったことがしれる。

 

条約においても民主党政権下では政治的に重大な日英同盟廃棄、という結果となっている。駆逐艦の更新などというマイナーな話は政治家より、軍人に関心があったであろう。ただし、更新された新駆逐艦には、日英と異なり主砲として高角砲兼用の、両用砲を備えており、後の航空戦においては大きな役に立っている。これはあまり戦史でも語られることは少ないが、大きなポイントであると小生は思う。

 

閑話休題。この時系列で明白なのは、米国が日中関係に本格的に干渉するようになったのは、満洲事変が契機だったのではなく、北支事変、すなわち支那事変以降であることが注目される。それも、FDR政権以降である、ということである。渡辺惣樹氏の著作によれば、フーバー前大統領は、隔離演説こそ「ルーズベルトがその正体(尻尾)を見せた事件だと考えている*(P72)」というのである。

 

江戸幕府と結んだ条約の改正版である、日米通商航海条約を破棄通告したのは、第二次大戦の勃発の寸前である。これは隔離演説の実行の始まりであった、と言えるだろう。この例は米政府が第二次大戦と関係なく、厳しい対日政策にシフトしている事の証明である。これらの一連の行動を見れば、米国民が真珠湾攻撃まで対独参戦に反対していたなどと言えるのだろうか。米国は民主主義とジャーナリズムの国である。国民は参戦国に対する武器援助が厳密には国際法の中立違反の事実上の参戦であること位知っている。

 

野党はそれを口実に大統領の公約違反を非難することができるのだ。第一次大戦で米国参戦のきっかけとなったドイツの無制限潜水艦戦は、英仏などへ米国が援助したことももひとつの原因となっている。だから英ソなどへの武器援助がこの点からも戦争への道であることは国民もジャーナリズムも承知していたはずである。しかしマスコミがこの点を突いて一連の政府の対応を非難したり、反戦運動が強まった形跡もない。既に米国政府も国民も参戦する心構えが出来ていたとしか言いようがない。

 

 今の小生の疑問は既にここにはない。米国政府の本当の意図は対日戦自体だったのではないか、と言う事である。対日戦は対独参戦のおまけどころか、たとえ欧州で戦争が始まっていなかったとしても、機会を見て日本との戦争を望んでいたのではないか、と言う事である。鍵は支那大陸にある。日本は日露戦争以後深く満洲に根をおろしていた。欧州諸国も支那本土にそれぞれ根拠地を持っていた。一人米国だけが大陸への確実な手がかりがなかった。門戸開放などと言うのはアメリカ得意の綺麗な言辞であり、俺にも支那に入れろ、と言う事に他ならない。そもそも西海岸に到達してアメリカ大陸にフロンティアを失くした後、日本を開国させハワイを併合した目的は支那大陸であった。日露戦争後鉄道王ハリマンが南満州鉄道の共同経営を提案したのもその一環である。

 

 そして日本は支那事変をきっかけに泥沼のような戦争から抜けられないでいた。主戦論を唱える陸軍軍人ですら、本音は一撃で支那政府を降伏させようというものであって、このような長期の消耗戦は望んでいなかったのである。支那事変の長期化は蒋介石や毛沢東の裏でソ連とドイツも深くかかわっていた事は既に色々な研究で明白にされている。更に米政府の中枢にいたコミンテルンのスパイもかかわっていたのであろう。

 

大陸に利権を持つ日本を追放するには消耗戦で日本を衰弱させ、「門戸開放」の実現が可能だったからでもあろう。支那政府の暴虐に決然と反撃する英米に対して、妥協的対応を続ける幣原外交はかえって支那政府と接近して英米の利権を犯そうとする試みに見えたであろう。既に満洲に権益を確立した日本が、今度は平和的に支那本土に進出しようとしているのだと見えたのかも知れない。

 

 アラン・アームストロングという米国人が書いた「幻の日本爆撃計画」という本がある。他のコラムでも紹介したが重複をいとわず再掲する。これによれば1940年頃から、蒋介石の提案した日本爆撃計画を米政府は本格的に検討し始めた、と言うのだ。これをJB-355計画と言う。もちろん公然と米空軍が実施するのではなく、戦闘機と爆撃機を国民党政府に貸与してパイロットは空軍を「自主的に」退役した米軍人が義勇兵として参加する、というものだ。参加の規模は時期によって変化するが最大の計画は戦闘機350機と爆撃機150機と言う真珠湾攻撃をはるかに超える規模のものすらある。攻撃対象は日本の主要都市と、工業地帯である。このような大規模な空襲が実施されていれば世界中に米政府に関係が無い、義勇軍だという発表を信じる愚か者はいない。

 

この本には米国のある会社がこの計画のために八二名のパイロットと三五六名の技術者を雇用した事があると書かれている。つまり一機の飛行機には整備等の要員が四人強必要となるのである。さらに軽爆撃機としてもパイロットは一機当たり五名程度必要となる。こうして計算すると先の計画に必要な人員は一六〇〇人となる。更に後方支援要員や指揮官党が必要となる。これはそんな膨大な規模の計画なのである。米政府が実行できなかったのは、英国に爆撃機を廻す必要があったため計画が遅延し、実行する直前に真珠湾攻撃が起こってしまったためであるのに過ぎない。

 

この計画の一部として一〇〇機ほどの戦闘機とパイロットおよび支援部隊が一九四一年一一月に派遣され、フライングタイガースとして支那大陸での対日戦に参加した。これはその次に送られてくるはずの爆撃機が真珠湾攻撃によって送られてこなくなって宙に浮いて戦闘機だけが活動した結果である。計画は梯子を外されたが実行の最中だった証拠である。これは米政府が本気であったことの証明である。対ソ戦のために動員された「関特演」が中止されたのとはわけが違うのである。

 

 それどころではない。「一九四一年の秋には、日本爆撃計画はアメリカの活字メディアで広く報じられていたからだ。」とさえ書かれている。その例として、ユナイテッド・ステーツ・ニューズ誌、ニーヨーク・タイムズ紙、タイム紙の報道の概要が紹介されている。これに対して米国内はどう反応したか。国民や野党は戦争をしないと公約して当選したルーズベルトを怒涛のように非難したであろうか。今日の目で見てもそのような反応は何も起こらなかった事は明白である。

 

なぜ誰もそのことに疑問を持たないのであろう。その答えは、米国民は欧州との戦争に「若者を送り直接戦闘に参加する事を望まなかった」のであり、日本との戦争は許容していた、と言う事でしかあり得ない。確かにルーズベルトは「裏口から」欧州の戦争に入ろうとして、日本に最初の一発を撃たせようとして、現にラニカイと言う米海軍籍のぼろ舟を太平洋に遊弋させた。だが対日戦に関しては明らかに自ら最初の一弾を撃とうとすることも実行しつつあった。繰り返すがフライングタイガースが現に大陸に派遣されたように、その計画は幻ではなく、実行途中であったのだ。

 

 なぜ欧州での戦争は嫌い、日本との戦争は許容されるのであろうか。アメリカは国際法に関しては、英国のように律儀な国ではなく、正義感と言うものが国際法の原則を超える事がある国である。日独に対して「無条件降伏」を要求するというチャーチルですら反対した国際法無視の行動をとった国である。だからレンドリースをして事実上の参戦をしても、兵士さえ送らなければ中立は守られる、という「中立法」の修正さえしたのである。その背景にはドイツの英国征服と言う恐怖に怯えると同時に第一次大戦でヨーロッパの諸国が膨大な戦死者を出したことを知っている、と言う事であろう。つまりヨーロッパに派兵すれば大量の若者が犠牲になる、と言う事を考えたのである。その苦肉の策が中立法の修正であったから世論は容認したのである。

 

 この本と同様に「オレンジ計画」と言う本の著者も日本に対する強度の偏見の持ち主である。この本には米国が恐れていたのは、意外なことに日本の海軍ではなく、陸軍であったと書かれている。日露戦争で精強なロシア陸軍を破った記憶があったのであろう。事実、機械化が遅れている日本陸軍でも戦略が良ければ米軍は苦しめられる、と言う事は太平洋の戦いでも証明されている。海軍はマシン同志の戦いだからワシントン、ロンドン条約で兵力差があった日本海軍は敵ではない、と考えたのであろう。元々の工業力の差に加え、支那事変で疲弊した日本は米国より建艦能力が遥かに劣ると推定したのも正しい。すなわち米国は地上戦を戦わなければ良く、海軍力と空軍力で日本を屈伏させればよい、と考えたとしてもおかしくはない。それにはいきなり本土空襲と言う手段は最短である。

 

 アームストロングによれば、・・・日本が“大量殺戮兵器”を保有していたことは言及に値する。日本は中国人絶滅を目論んだ戦争で炭疽菌と腺ペストを使用した。また、核兵器の製造に実際に取り組んでいたのである。

 

 この言辞だけでいかにアームストロングが偏見に満ちた人物か分かる。日本は支那事変に引きずり込まれたのであり、核兵器を実際に製造したのはアメリカである。自ら大量破壊兵器を開発使用したのには眼を瞑るのだ。だが問題はその次である。

 

第二次大戦終了時の国際連合結成の前の時点では、国際法は、一国が切迫し、かつ即時に起こり得る敵国からの攻撃の危険に対して取る先制軍事攻撃を認めている。・・・ブッシュ大統領はアメリカ国民に対しても国際世論の陪審に対しても、イラク政府が大量殺戮兵器を保有していたと納得させるに足る証拠を提示した、と万人が認めているわけではない。・・・しかし、イラク政府は二〇〇一年九月一一日の合衆国本土における同時多発テロに関わっていたと主張する者もいるのである。この分析の下では、イラクは”悪の枢軸“の一部であり、アメリカの報復攻撃-先制攻撃ではないとしても-を受けて当然だった。

 

更に別の箇所では、

 

JB-355が予定通りに実行されていれば、それは日本に対して中国でさらなる資源を消費することを強いる手段を、アメリカその他の連合国に与えることになり、その結果、日本の真珠湾奇襲は阻止されていたかもしれない。アメリカと中国による対日先制爆撃が一九四一年一一月初旬に始まっていたとすれば、アメリカ陸海軍は非常に高度の警戒態勢を敷いていたはずだ。・・・真珠湾攻撃から、あの奇襲と言う要素が取り除かれていた可能性は大だっただろう。

 

 つまり計画が実行されていれば、実行の時期によっては真珠湾攻撃は中止せざるを得ないか、反撃にあって失敗するかしただろうということだ。米国の防空能力は高い。完全な奇襲ですら、約300機の攻撃に対して、およそ10パーセントに当たる、29機を撃墜しており、特殊潜航艇は全艇が撃沈されている。わずかの損害と一般には書かれているが、実際は10%もの損害を受けたのである。日本本土爆撃では奇襲ではなく本気で迎撃したにもかかわらず、撃墜率は3%にも満たなかった。

 

アームストロングが言うように真珠湾攻撃が失敗した可能性は大である。イラク戦争を引き合いに出したのは象徴的である。著者は日本本土先制爆撃によって、日本軍はイラク軍のように緒戦でまたたくまに敗退したはずだと言いたいのである。しかも米国は国際法上も先制攻撃の権利があったとも言いたいのである。つまり長期の支那事変によって、日本は米国の一撃でもろくも敗退すると思われたから米国の朝野は、欧州戦争と異なり戦争を忌避していなかったのである。

 

イラク戦争を見よ。機械化部隊の快進撃でほとんど損害もなく短時間でイラク軍は降伏した。大量破壊兵器が無かったのではないか、などと非難されるようになるのは、正規戦が終わって親米政権ができたのにもかかわらず、ゲリラ戦で正規戦の何十倍もの被害を出すようになったからである。一撃で倒せる日本との戦争は、支那大陸と言う新しいフロンティアを求める米国の朝野にとって望ましいものであった。

 

もちろんこれは仮説である。しかし米軍による日本爆撃計画が公然と大手マスコミによって報道されていたにも関わらず全く反対運動が強まらなかったことを説明するにはそれしか考えられない。計画は厳重に秘匿されていたのは確かである。それにもかかわらず公然と報道されたのは故意にリークされたとしか考えようがない。そしてリークしたのは世論の反応を見たかったのである。さすがに世論によって国策が動く米国である、と言ったら皮肉になるのだろうか。

 

ひとつ思う。日本人が中国人の絶滅を企画していたなどと言うでたらめを、まともな米国人が普通に思うのは、米国人がフロンティアとして支那大陸を支配したいのに、それが日本人の妨害でかなわないのがくやしいという思いの表れなのだろう。つまりアームストロング氏は米国人の思いを、中国人絶滅計画と言う妄想に投影したのである。

 

参考文献

*誰が第二次大戦を起こしたのか・草思社


書評・日米開戦の悲劇・・・ジョセフ・グル―と軍国日本

2019-11-19 20:45:14 | 大東亜戦争

PHP研究所・福井雄三著 

 福井氏は、バランスのとれた見方のできる人であろう。例えばグル―を大変な親日家としながら、一方で当時のアメリカ人に典型的な白人至上主義と人種差別意識を持ち合わせ、悪名高き排日移民法を強力に支持していたことも指摘している。多くの評伝に見られるように、惚れてしまえば欠点は隠す、と言う事はしないのである。

 松岡洋右についても、反米の好戦論者と単純に片付ける向きが多いが、実際には日米戦争を最も恐れていて、三国同盟推進の同期は日米戦の阻止であった事を書いてもいる。しかも松岡を日本外交史上最もスケールの大きく、かつリアリストであり、世界的大局観をもちあわせていた人物である、と評している。このような意外性、客観性が本書の魅力である。

 戦後のドイツについても、ナチスの行った国家犯罪は、反論も許されず過度に誇張され宣伝されているが、今は沈黙を守りながらもドイツ人は、歪曲された歴史を将来修正する日が来る、と書く(P184)。これは我が意を得たり、であった。ドイツ統一以前、私は、ドイツが一方的に批難されている第二次大戦期のドイツ史について、ドイツ統一がなったときドイツ人は昂然と歴史の修正を始める、と考えた。結果的には外れたが、いずれそのような時期が来ると、福井氏同様に考えている。戦勝国の洗脳で自虐史観がテレビなどのメジャーなマスコミを支配している日本とは違うのである。

 海軍はあくまでも陸軍の側女である(P53)、と言いきったのも明快である。従来の日本海軍批判は、大艦巨砲主義、艦隊決戦至上主義だとか、シーレーン防衛を怠ったとか、言われるが、これは個別的かつ枝葉末節であり、福井氏の指摘をもとに考えると明快になる。明治の海軍が心をくだいたように、戦地への兵員の輸送の保護、国内への物資の輸送などの保護を行うのが海軍の役目である。海戦はその目的の達成のために結果的に生起するのであって目的ではない。

 最も興味深いのは、対米宣戦布告が真珠湾攻撃開始から1時間近く遅れた件である(P141)。これまでのノンフィクションでは、前日に大事な電報が来ているのに、大使館職員は全員ほったらかしにしたまま宴会に行き、解読を始めたのが攻撃当日で、その結果、宣戦布告が遅れる結果になった。しかもこの失態で誰も処分を受けないどころか、戦後まで順調に出世している、と例外なく外務省の無責任さを非難している。

 ところが福井氏によれば、海軍はぎりぎりになって、宣戦布告を攻撃一時間前から30分前に縮めている。これは海軍が、宣戦布告により迎撃されて虎の子の艦隊を喪失する事を極度に恐れたからだと言う。それどころか、30分前の宣戦布告は建前に過ぎず、海軍は被害を恐れるあまり、通告が遅れる事を望んでおり、そのことを外務省と裏で連携していたのではないか、と言うのだ。そう考えれば氏が述べるように勤勉で時間厳守の日本人が、あのような失態を犯した理由も、何の咎めもなかった理由も腑に落ちるのだ。

 この仮説が事実だとすれば、私の思うのは、海軍は宣戦布告の遅れの責任を全部外務省になすりつけ、真珠湾攻撃の成果だけ誇り、戦後も真実を隠蔽して海軍善玉説に固執する海軍上層部の卑劣さである。本書では山本五十六の罪と無能を批判しているが、これについては近年、かなり巷間に言われるようになったことである。しかし平成24年に公開された映画「山本五十六」のように相変わらず平和主義者としてあがめる風潮がまだあるのは奇異の感がある。山本が軍隊の戦時の指揮官として重大な欠陥があるのには数々の明白な証拠がある。米内光政がソ連のハニートラップに引っかかっていたのではないか(P85)と言う説も興味ある。

 もちろん小生と意見が相違する箇所もある。蒋介石を偉大な軍人で政治家であり、彼が支那大陸を制覇していたら、反共と言う日本の目的は達成され、日本と支那は新たな大東亜共栄圏を作り上げていただろう、と言うのだ。そして台湾を世界屈指の経済大国に成長させた功績を語る(P73)。しかし台湾の繁栄は日本の支配のもたらした功績が大であり、かつ台湾と言う適正規模の国家によってもたらされたものである。蒋介石の中華民国が、中共の代わりに清朝の巨大な版図を引き継いでいたら、大陸全土に幸福をもたらすようなことがあり得るはずがなかろうと思うのである。チベットなどの異民族支配のための強権的な帝国にならざるを得ないのである。

 東條内閣ではなく、近衛や東條が推薦した東久邇宮内閣が成立していれば、日米戦争は回避出来ていたかもしれない(P126)、と言う。だが別の記事で書いていたように、当時の米政府はこの時点では対日開戦に決していた。ラニカイと言うボロ船で最初の一発を撃たせたり、3百を超える大編隊による爆撃計画の準備が行われている。これらは計画ではなく、実行に移されていたのである。しかも日本爆撃計画は大手の米マスコミが公然と報道していたが国民に何のブーイングも起きなかった。

 一方で中立法の改正により、英ソへの軍事物資の大量支援を実行していた。これは国際法上戦争を意味する。政府はともかく、国民の多数は厭戦気分にあったなどと未だに多くの歴史書に書かれるが、到底事実と符合しない。当時熱心に反戦運動をしたチャールズ・リンドバーグですら、反戦派が押され気味だと嘆いている(リンドバーグの第二次大戦日記)。真珠湾攻撃は乾燥しきっていた藁束に火を付けたのにすぎない。このように公表された事実を情報として共有しないから、意味のない意見のすれ違いが起きるように思えてならない。

 


書評・日本は勝てる戦争になぜ負けたのか

2019-11-12 16:56:22 | 大東亜戦争

日本は勝てる戦争になぜ負けたのか・新野哲也・光人社

 全般的にかなりの思い込みと直感で書かれている。このことは著者自身も自覚している。直感で書かれていると言うのは悪いことではない。科学でも仮説と言うものは多くがそのようなものだからである。著者の主張を大雑把に言えば、方向こそ異なれ、陸海軍にそれぞれ日本の敗戦による革命を望んだものがいたから、勝てる戦いを負けた、と言う事であろう。これは必ずしも唐突なことではない。当時のアメリカ政府中枢はソ連のスパイに占拠されていて、外交の多くが決定されていた、と言う事は戦後のレッドパージで証明されている。ゾルゲ事件に象徴されるように、日本でもソ連のスパイが政治中枢を動かしていた、というのも事実であろう。その暗部は我々が知っているよりはるかに大きいのに違いない。日本は敗戦と近衛文麿の自決によってその全てが闇に葬られてしまったのであろう。 

日本人の多くが、かつての仇敵であったソ連の共産主義体制の惚れ込んだのは不思議ではないのかもしれない。日本の敵は帝政ロシアであった。ソ連はそれを倒したのである。敵の敵は味方であるかも知れない。しかも計画経済により、重工業化の大躍進をしたと伝えられた。軍備のため重工業化を必要とした日本もそれに続け、と考えたとしても不思議ではない。だから軍人が密かにソ連に傾斜したとして心情的にはあり得るのかも知れない。石原莞爾の総力戦の思想も国家社会主義を前提としているし、石原以上の戦略家であった永田鉄山も同様である。ソ連の重工業の躍進が農業を犠牲にした事は、ばれていないし、ソ連のスパイ活動の暗躍もあったのであろう。 

 ただ海軍が戦争下手であったと言うのは著者の言うように敗戦革命を望んだという高等戦術ではなく、幹部教育の失敗と官僚主義によるものであったと思う。陸軍は人間を相手にした戦争をするだけに、戦史教育を含んだ戦略と言うものを考えなければならない。しかも満洲鉄道を保護する関東軍を持っていたために、必然的に異民族を相手にした生きた戦略を学んだのである。海軍は、日本海海戦を艦隊決戦の勝利と誤解して、艦隊決戦に勝つための教育しかしてこなかった。日本海軍の戦略とは軍艦のカタログデータを優れたものにすることでしかなかった。この差が海軍には石原莞爾のような戦略家を生まなかったゆえんである。指揮官教育と言う点でも海軍には問題があった。東郷平八郎は、白旗を揚げて降伏の意思表示をするロシア艦隊に対して、参謀の進言を退けて停船するまで砲撃させた。ミッドウェー海戦で山本五十六は、空母ありの報を南雲艦隊に伝えたらどうか、と言ったが、参謀に反対されて止めてしまったと言われている。大東亜戦争の海軍には指揮官に必要な決断力がない者が多い、と言わざるを得ないのである。 

 著者はインド洋攻略を主張しながら、インパール作戦を批判しているのは矛盾である。艦砲や艦上機の攻撃だけでインドの英軍を駆逐するのは無理である。海軍の本質は補給路の確保や上陸の支援など、陸軍のサポートであって陸上兵力と対峙する事ではない。最後の勝利は歩兵により得るものである。昭和の日本海軍は敵艦船の撃沈を究極の目標としたが、これは作戦の手段に過ぎないという、明治の提督すら知っていた事実を忘れていた。東條がインパール作戦を指示したのはボースに対する同情ではない。戦略が分かっていたからである。インドの蜂起なくして英軍の駆逐はなく、英軍の駆逐なくして、インドの独立はない。インドの独立なくして東亜植民地の独立はない。 

 東亜植民地の独立なくして英米に不敗の体制を築くことはできない。日本軍の初期の快進撃を支えたのは、西欧の植民地の民が日本軍を支えたからである、という素晴らしい事実を書いているのはこの本ではないか。山本五十六が無暗に拡大戦略をとってソロモンの消耗戦で航空機と艦艇に甚大な被害を受けて失敗したのは、そもそも攻勢終末点というような戦略教育すら受けていないからとしか考えられない。山本は結局米戦艦の撃沈しか目的としていなかった。艦艇勢力が劣勢だから航空機で補おうとしていたのである。海軍が米国には勝てないとは言えなかったのも、三国同盟反対から賛成に転じたのも、全てが陸軍に対する予算均衡と言う官僚的発想であった。 

 著者の言う、日本の戦争下手は戦士たるべき軍隊の中枢が官僚化したのが原因である、というのは事実である。官僚化したのは陸大海大の成績で序列が決まると言うシステムが原因である(海軍は海大よりも兵学校)。システムの失敗はエリート教育の失敗であると言う著者の主張も事実である。政治家教育の失敗も同様である。それが陸大海大帝大を作ってエリート教育事足れりとしたのは、明治元勲の失敗であるのは事実であるが、その原因が下級武士出身だったと言うのは間違いであろう。いずれにしても著者の指摘する日本には正しいエリート教育がなく、学歴偏重の官僚主義が日本を蝕んでいる、というのは現代日本においても大きな課題である。真のエリートのいない議会制民主主義とは、衆愚政治の別称である。 

 確かに長い江戸時代にあっても武士の教育が続けられ、それが維新の原動力になり、日清日露の戦争の指導者の精神的基礎であったと言うのは事実である。しかし下級武士だったからエリートを育てなかった、と言う批判は単純に過ぎる。現に徳川末期の将軍後継の争いなどは、序列を重んじる官僚的発想で、新野氏の批判する学歴偏重と根源は同じである。むしろ伊藤らは下級武士から成りあがったからこそ、東郷のように成績優秀ではないものを戦時に抜擢した海軍の風潮の見本となったのではないか。明治期には伊藤、西郷、大久保らの実力主義の成り上がりの風潮の残滓があったからではないか。 

 著者は昭和十六年の時点で日米開戦を避けることができ、避けるべきであったと言うが、明白な誤りである。そもそも新野氏は、避けるべきであったと言うために、避ける事が出来たとこじつけている節がある。避ける事ができないのであれば、避けるべきであったと言っても仕方ないからである。日米開戦の直前ルーズベルトは「ラニカイ」と言う海軍籍にしたぼろ舟を太平洋に遊弋させ、日本に海戦の一弾を打たせて開戦しようとして、太平洋をうろうろさせている、ぼろ舟が攻撃される前に真珠湾が攻撃されたのに過ぎない。この事が象徴するように、アメリカ政府は参戦したくて仕方なかったのである。 

 既にアメリカは武器貸与法を成立させ、大量の武器弾薬を英ソに送っていた。国際法の中立違反である。ということは事実上の参戦で兵士を送っていないだけであった。正確にはUボートを攻撃させたのだから兵士を送っていたともいえる。国民が本当に戦争反対なら、野党もマスコミもこのことを攻撃して世論は沸き立っていたはずであるが、そのような事実もない。米国が第一次大戦に参戦したのはドイツの船舶攻撃により僅かばかりの民間人の被害を生じたからである。大量の武器供与ははるかに危険な行為である。建前は反戦でも米国民は戦争やむなしが本音であったと考えるしかない。ハルノートは満洲からの日本軍撤退を要求していないし、最後通牒ではない、と新野氏は書く。支那に満洲が含まれていたか否かなどは瑣末な事である。ハルノートは突如交渉の経緯を無視して条件を極度に高くしたのは交渉の拒否を意図している。 

 米国が世論の反対にもかかわらず、あれほど長くベトナム戦争を継続したのは何故か。それを考えれば支那本土から撤兵すればいい、などと言う発想はない。既に日米修好通商条約を破棄し、禁輸など経済制裁を実行している環境の中である。これらのことは米国民周知の事実である。かつての社会党などはイラク戦争の直前に、戦争はしなくても経済制裁だけにとどめよ、などと主張したが、これは経済制裁が準戦争状態であると言う国際法の常識を無視している。ことほど左様に当時の環境からして、最後に登場したハルノートが最後通牒ではないと言うのは誤りである。ハルノートはソ連のスパイによって厳しいものに改ざんされていた、と言うのは事実であろうが、それ以前にルーズベルトは日米開戦を対独参戦の口実にしようとしていたのだから、ソ連のスパイの暗躍がなければ日米開戦はなかったとは考えられない。根本的には人種偏見もあって、支那大陸進出つまり体のいい支那侵略のために日本が邪魔だったのである。 

 ハルノートを公開していたら、と言う事は小生も考えた。だがそれ以前に石油禁輸その他の公式な経済制裁措置を取っている。従って大統領は、それにもかかわらず日本は譲歩しなかったから仕方なく原則的要求を行ったのだ、と説明すればお終いである。すなわちハルノートは唐突に出たのではなく、エスカレートする米国の制裁措置の最後に登場したのであって何ら不自然なものではない。アメリカ国民は原理主義の面があるから、日本の対外的行動をなじって理想的言辞を並べれば説得できる。当時の米政府のマスコミ対応は現在の日本よりよほどましであり、説明上手である。 

 真珠湾攻撃さえしなければアメリカは参戦できなかった、というのも考えにくい。地球儀を見ていただきたい。新野氏の言うように東南アジアの資源地帯やグアム、サイパンなどの島嶼を確保しようとすれば、そこに大きく立ちはだかるのはフィリピンである。真珠湾を攻撃しなくてもフィリピンでアメリカは邪魔するのに違いない。逆に言えば地理的に、これらの地域を確保しようするのに、フィリピンは最適な位置にある。必要なのである。結局この観点からも、英蘭に宣戦すれば、アメリカとの戦いは避けられない。とすれば真珠湾の無力化は必要である。 

原爆を積んだ重巡インディアナポリスの航路をたどってみよう。パナマ運河を通過して、サンフランシスコ、真珠湾に寄港しテニアン島で原爆を降ろした同艦はフィリピンに向かう途中で撃沈された。パナマ運河、サンフランシスコ、ハワイ、テニアン島のこれらの間はほぼ等距離である。航続距離や補給の観点からも、これらの地点を経由する必要があったのである。つまりハワイへの補給を断ち無力化すれば米軍は日本を攻撃できない。 

 よく言われるように無力化のためには、真珠湾攻撃の際に、港湾施設と石油タンクを破壊する事であるが、それだけでは足りない。潜水艦などをハワイ周囲に配置して、機雷封鎖や出入りする艦船攻撃などをしてハワイを使う事を常時防止する事である。アメリカ西海岸を砲撃したことから分かるように、イ号潜水艦の航続距離は他国のものに比べ極めて長い。そのような作戦は充分に可能であった。この本は基本的にいい発想から書かれているが、たまに我田引水があるように思われる、と言うのが書評子の結論である。


日本はアメリカの実力を知らずにアメリカと戦争したという嘘

2019-09-18 23:16:22 | 大東亜戦争

 多くの識者が、大東亜戦争を日本がアメリカの実力も知らずに仕掛けたと批判する。要するに当時の日本の指導者は身の程知らずの愚か者そろいだったというのである。これは真っ赤な嘘である。有名なのは海軍の山本五十六元帥が、「初めの一年はどうにか持ちこたえられるが、二年目からは勝算がない」と語った言葉である。

 これは当時の近衛前首相の質問に対して答えたものである。これは多くのおろかな指導者と違い米国を良く知る山本元帥の見識を示したものとされる。要するに例外例外だと言うのである。しかしあくまでも非公式の回答に過ぎない。

 しかし次のようなことは、有名な事実であるが故に無視されている。真珠湾攻撃の三ヶ月前の御前会議である。御前会議とはご存知の通り、天皇陛下の御臨席のもとに、総理大臣をはじめとする、日本の指導者の会議である。当時の日本の最高意志決定会議で、当然戦争を始めることも終わることもこの会議で決せられる。

 この日の会議でも開戦の是非が論じられた。このとき昭和天皇は「よもの海みなはらからと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ」という明治天皇の和歌を引用して、戦争反対の意向をにじませられたのも有名な話である。

 天皇が和歌を詠まれたのは、会議では天皇に御意見を述べる権利がないからである。問題はその次に、永野軍令部総長が特に発言を求めて言った次の言葉である。曰く。

 「アメリカの主張に屈服すれば亡国必至とのことであったが、戦うもまた亡国であるかもしれない。すなわち戦わざれば亡国必至、戦うもまた亡国を免れ得ぬとすれば、戦わずして亡国にゆだねるは身も心も民族永遠の亡国であるが、戦って護国の精神に徹するならば仮令戦いに勝たずとも祖国護持の精神が残り、我等の子等は必ず再起、三起するであろう。」

 説明の必要はないが要約する。戦わなければ日本はアメリカに滅ぼされるが、戦っても敗れて滅びる。同じ滅びるにしても、戦わなければ日本は永遠に滅びるが、戦えば子孫は日本を復興するに違いない、というのである。

 これは最高意志決定機関での公式発言である。軍令部総長とは海軍軍部のトップである。永野の発言に対する反論はなかった。日本の指導者は明白に敗戦を覚悟していたのである。繰り返すが、山本五十六の発言は近衛に個人的に聞かれた、非公式の発言である。どちらの発言に重みがあるかは言うまでもなかろう。

 だが日本の識者の多くは山本の非公式発言を持ち上げ、永野の公式発言を無視する。国民も愚かではない。対米戦争が無限に困難なことはわかりきっていたというのが事実である。

 神風特別攻撃隊は国民に隠されたのではない、新聞にさかんに報道された。特別攻撃隊というのは、言うまでもなく体当たり攻撃である。尋常一様な攻撃手段ではない。アメリカとは普通に戦っても勝てないと覚悟していたから特別攻撃隊を国民は受け入れたのである。一介の庶民たる、私の父祖の識見を信じる所以である。

 当時の国民も指導者も無知で愚かだと思っている人たちへ。ものごとは事実で考えるものです。

このブログに興味をお持ちの方は、ここをクリックして小生のホームページも御覧ください。