今年2月5日夜8時ごろ、埼玉県小川町腰越の自宅で介護中の妻(77)を殺害したと自ら110番通報をしたKさん(83)は、8日殺人容疑で逮捕されました。台所で首を刺されて亡くなった妻の遺体に、夫に抵抗したような痕跡はなかったようです。刃物は刃渡り約12センチ、さや付きの小刀で、ふだん鉛筆を削るのに使っていたものでした。Kさんの首にも切り傷があり、県警は無理心中を図ったとみています。
県警によると、Kさんは逮捕後、留置場でおかゆを少し食べるほかは、水やお茶しか口にしようとせず、衰弱が進んだので、14、16日に病院で診察を受け、17日に入院しましたが、ここでも食事を拒み、23日午前9時50分ごろ、死亡が確認されました。逮捕時に「認知症の妻の介護に疲れた」と話した後、取り調べに応じなかったそうです。15日間にわたって食事を拒否した理由も、ついに黙したままでした。
近所の人達によると、奥さんが認知症になったのは2~3年前で、Kさんはヘルパーも雇わず、自宅で妻の介護を一人でしていましたが、「5、6分前のことも忘れてしまう」と漏らし、殺害前日の2月4日、疲れた様子で「数日間入院して点滴を打ってもらった」と話していたそうです。 買い物などの外出にも二人で連れ添って歩くような夫婦でした。奥さんは絵を描くのが趣味で、デパートで個展を開いたこともあったそうです。NHKニュースの内容は次のyoutubeで見ることができます。
https://www.youtube.com/watch?v=jpHcMJSVWKA
厚生労働省の調査によると、介護が必要な65歳以上の高齢者がいる世帯のうち、介護する人も65歳以上の「老老介護」世帯の割合は、2013年には5割を超えました。
私自身が老老介護の日々を数えていることもあって、Kさんのことが他人事とは思えず、この事件報道の後、新聞に出る主要週刊誌の広告に注意を払っていましたが、取り上げた記事は見当たりませんでした。
昔、『ハネケの<白いリボン>』と題する記事を掲げたことがありました。それを再録します:
**********
昨年の暮れ、私のブログを読んで下さったウイーン在住の近藤英一郎という方から、次のようなコメントを頂きました。:
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もしお時間がお有りでしたら、ミヒャエル-ハネケの<白いリボン>という映画をご覧になって下さい。
ハネケは、昨今のオーストリアが誇れる唯一の人物です。
日本で上映中のようなことを耳に挟みましたので。
16年間中欧で暮らして、ヨーロッパ人(様々な階層の)の、芯部底部にたびたび触れ、その時の、何ともいえないザラッとしたグロテスクな感触がそのまま描かれているので、心底、驚愕しました。
日本の能の様な印象でした。
映画がお好きのようですので、お知らせ致しました。
佳き新年を
近藤英一郎(在ウィーン)
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映画<白いリボン>が2月末から一週間福岡でも上映されましたので観に行ってきました。
この黒白の映画から受けた印象は大変つよく重いもので、ここでうまく要約して報告することは出来ません。これから長い間こころの中で反芻を続けることになると思います。人間が他の人間に対して如何に残酷でありうるか、何故これほどまで執拗に残忍であり得るか、その行為はどのような契機で触発されるか、この映画を観た人は、自分の胸の奥深くで、こうした問いに苛まれ続けることになります。
映画を観た直後の日曜の夜、NHKの大河ドラマ「江(ごう)」を観ながら、しきりに<白いリボン>のことを想っていました。この大河ドラマをつくっている人たちとハネケとの間には気の遠くなるような距離があります。単なるエンターテインメントと真の芸術の差だと言ってしまえばそれまでですが、NHKのドラマの非戦反戦のメッセージの嘔吐を誘う浅薄さを私は嫌悪します。この粗雑なフィクションで我々視聴者をマニピュレート出来ると考えるほど、このドラマの制作者たちは我々一般日本人を馬鹿にしているのでしょうか。映画<白いリボン>でハネケはナチズムの発祥基盤の問題を意識していたという解釈は可能でしょうが、そうであるにしても、ハネケのメッセージの重さと真摯さには我々ひとりひとりの魂を真っ向から打ち据えてくるものがあります。少しふざけた物言いを許して頂くとすれば、男女同権、反戦平和と言ったお馴染みのお題目についても、<白いリボン>の方が「江(ごう)」より百倍も有効なプロモーション効果を発揮するに違いありません。
藤永 茂 (2011年3月9日)
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『白いリボン』は2009年カンヌ映画祭バルムドール受賞作ですが、ハネケは2012年にも『AMOUR』という作品で同じ賞を受賞しました。タイトルは『愛』、フランス語の映画です。主役は音楽家老夫妻、妻アンヌはピアノの先生、優秀な愛弟子のピアノ・リサイタルに出席して、幸せな気持ちで帰宅したその翌朝、食卓でアンヌが突然放心状態に陥り、夫ジョルジュをひどく驚かせ、狼狽させます。放心状態はしばらくして消えますが、何も憶えていない。入院検査の結果、脳に血液を送る血管の血栓を取り除く手術を受けますが、失敗の確率は極めて小さかったはずの手術が不幸にも失敗し、右半身不随になって帰宅します。入院中に何か強く不快な経験をしたのでしょう、帰宅直後、妻が夫に問答不要で誓わせたことは「再入院させない」ということでした。こうして、老夫による老妻の在宅介護が始まります。半身不随に加えて、認知症症状も容赦なく進行します。結局、ベッドで上向きに寝ているアンヌの顔を枕で覆って、ジョルジュはアンヌを窒息死させます。夫は妻の枕もとに花びらを撒き、部屋を締め切り、(おそらく)外出してどこかで自らも命をたったものと思われます。そのように、映画は終わっています。
角川書店2013年発売のDVDビデオにはミヒャエル・ハネケ監督のインタビュー(18分)が付録として付いています。大変興味深い内容ですが、その中でハネケは、この映画は介護という社会問題についてでも、病気についてでも、死についてでもなく、愛についての映画だと、はっきり語っています。
このビデオを私は発売後まもなく買い、デスクトップPCで観て強い感銘を受けました。私の老老介護的生活はすでに始まっていて、このハネケという芸術家の洞察力の深さに打たれたのでした。その頃から、認知症患者の介護というテーマが一種の流行りになり、あれこれの言説が流布され、多くの単行本も出版されるようになりました。幸いなことに、新聞の書評か何かの縁で、私は、上田諭(さとし)著『治さなくてよい認知症』(日本評論社、2014年)、という良書に巡り会いました。この著書を貫いているものは、ハネケの『アムール』と同じ、人間に対する厳しく揺るぎない「愛」です。『治さなくてよい認知症』というタイトルの意味を全面的に正しく理解するためには、実際に読んでいただく必要がありますが、誤解を恐れずに言えば、ここには「脳」の問題と「心」の問題があるということです。世上いかに多くが語られているにしても、現状では「脳」を治療する確かな方法は存在しないことをまず認識しなければなりません。しかし、「心」については、我々にできることがあります。本書の170頁から数行を引用します:
「認知症(アルツハイマー病)とは、原因不明で脳の神経細胞が脱落し脳機能が低下する病気ですが、それは病気の一側面でしかありません。もう一つの重要な側面は、自信がなくなり、自尊心が傷つき、周囲との交流が少なくなってしまい、孤独感や疎外感を感じるという精神的な側面です。これは病気ではなく、むしろ正常な心の反応というべきものです。」
介護する立場にある人々からは「いや、そうではない。脳機能の低下が正常でない心的反応を生む」という声が上がるでしょう。「性格までが変わってしまった」という人もあるでしょう。ジョルジュも、アンヌについて、そう思った瞬間があったに違いありません。こうしてジョルジュの前に「愛」の問題が大きく立ちはだかります。
今度のKさんの事件の後、私は再びハネケの『アムール』と付録のハネケのインタビューのDVDを観ました。一回目と二回目の間の2年間に得た認知症介護の私的体験は、この芸術作品がそれを観る者に与えようとするメッセージをよりよく感得することを可能にしてくれたと思います。インタビューでハネケは「愛する人が苦しむのをどう見守るか」を描いたのだとも言っています。ラテン語に「倫理がなければ美学はない」という言葉があるとも教えてくれます。しかし、私がこの芸術作品について言えることは、「これは愛について語っている」というハネケの言葉を繰り返すこと以外にありません。これ以外に要約のやり方がないのです。
埼玉県小川町のKさんの事件に戻ります。悲惨な事件と呼んで仕舞えば、それまでです。しかし、この事件を知って、身につまされる思いをした老人の中には、自ら食を絶って不帰の旅路についたKさんを悼む気持ちに、いささかの称美の念を含めた人もあったのではありますまいか。死んだアンヌは、ごく普通の面立ちでジョルジュの前に現れて、外出に誘います。美しい「道行き」の場面です。
藤永茂 (2016年4月9日)
県警によると、Kさんは逮捕後、留置場でおかゆを少し食べるほかは、水やお茶しか口にしようとせず、衰弱が進んだので、14、16日に病院で診察を受け、17日に入院しましたが、ここでも食事を拒み、23日午前9時50分ごろ、死亡が確認されました。逮捕時に「認知症の妻の介護に疲れた」と話した後、取り調べに応じなかったそうです。15日間にわたって食事を拒否した理由も、ついに黙したままでした。
近所の人達によると、奥さんが認知症になったのは2~3年前で、Kさんはヘルパーも雇わず、自宅で妻の介護を一人でしていましたが、「5、6分前のことも忘れてしまう」と漏らし、殺害前日の2月4日、疲れた様子で「数日間入院して点滴を打ってもらった」と話していたそうです。 買い物などの外出にも二人で連れ添って歩くような夫婦でした。奥さんは絵を描くのが趣味で、デパートで個展を開いたこともあったそうです。NHKニュースの内容は次のyoutubeで見ることができます。
https://www.youtube.com/watch?v=jpHcMJSVWKA
厚生労働省の調査によると、介護が必要な65歳以上の高齢者がいる世帯のうち、介護する人も65歳以上の「老老介護」世帯の割合は、2013年には5割を超えました。
私自身が老老介護の日々を数えていることもあって、Kさんのことが他人事とは思えず、この事件報道の後、新聞に出る主要週刊誌の広告に注意を払っていましたが、取り上げた記事は見当たりませんでした。
昔、『ハネケの<白いリボン>』と題する記事を掲げたことがありました。それを再録します:
**********
昨年の暮れ、私のブログを読んで下さったウイーン在住の近藤英一郎という方から、次のようなコメントを頂きました。:
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もしお時間がお有りでしたら、ミヒャエル-ハネケの<白いリボン>という映画をご覧になって下さい。
ハネケは、昨今のオーストリアが誇れる唯一の人物です。
日本で上映中のようなことを耳に挟みましたので。
16年間中欧で暮らして、ヨーロッパ人(様々な階層の)の、芯部底部にたびたび触れ、その時の、何ともいえないザラッとしたグロテスクな感触がそのまま描かれているので、心底、驚愕しました。
日本の能の様な印象でした。
映画がお好きのようですので、お知らせ致しました。
佳き新年を
近藤英一郎(在ウィーン)
----------
映画<白いリボン>が2月末から一週間福岡でも上映されましたので観に行ってきました。
この黒白の映画から受けた印象は大変つよく重いもので、ここでうまく要約して報告することは出来ません。これから長い間こころの中で反芻を続けることになると思います。人間が他の人間に対して如何に残酷でありうるか、何故これほどまで執拗に残忍であり得るか、その行為はどのような契機で触発されるか、この映画を観た人は、自分の胸の奥深くで、こうした問いに苛まれ続けることになります。
映画を観た直後の日曜の夜、NHKの大河ドラマ「江(ごう)」を観ながら、しきりに<白いリボン>のことを想っていました。この大河ドラマをつくっている人たちとハネケとの間には気の遠くなるような距離があります。単なるエンターテインメントと真の芸術の差だと言ってしまえばそれまでですが、NHKのドラマの非戦反戦のメッセージの嘔吐を誘う浅薄さを私は嫌悪します。この粗雑なフィクションで我々視聴者をマニピュレート出来ると考えるほど、このドラマの制作者たちは我々一般日本人を馬鹿にしているのでしょうか。映画<白いリボン>でハネケはナチズムの発祥基盤の問題を意識していたという解釈は可能でしょうが、そうであるにしても、ハネケのメッセージの重さと真摯さには我々ひとりひとりの魂を真っ向から打ち据えてくるものがあります。少しふざけた物言いを許して頂くとすれば、男女同権、反戦平和と言ったお馴染みのお題目についても、<白いリボン>の方が「江(ごう)」より百倍も有効なプロモーション効果を発揮するに違いありません。
藤永 茂 (2011年3月9日)
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『白いリボン』は2009年カンヌ映画祭バルムドール受賞作ですが、ハネケは2012年にも『AMOUR』という作品で同じ賞を受賞しました。タイトルは『愛』、フランス語の映画です。主役は音楽家老夫妻、妻アンヌはピアノの先生、優秀な愛弟子のピアノ・リサイタルに出席して、幸せな気持ちで帰宅したその翌朝、食卓でアンヌが突然放心状態に陥り、夫ジョルジュをひどく驚かせ、狼狽させます。放心状態はしばらくして消えますが、何も憶えていない。入院検査の結果、脳に血液を送る血管の血栓を取り除く手術を受けますが、失敗の確率は極めて小さかったはずの手術が不幸にも失敗し、右半身不随になって帰宅します。入院中に何か強く不快な経験をしたのでしょう、帰宅直後、妻が夫に問答不要で誓わせたことは「再入院させない」ということでした。こうして、老夫による老妻の在宅介護が始まります。半身不随に加えて、認知症症状も容赦なく進行します。結局、ベッドで上向きに寝ているアンヌの顔を枕で覆って、ジョルジュはアンヌを窒息死させます。夫は妻の枕もとに花びらを撒き、部屋を締め切り、(おそらく)外出してどこかで自らも命をたったものと思われます。そのように、映画は終わっています。
角川書店2013年発売のDVDビデオにはミヒャエル・ハネケ監督のインタビュー(18分)が付録として付いています。大変興味深い内容ですが、その中でハネケは、この映画は介護という社会問題についてでも、病気についてでも、死についてでもなく、愛についての映画だと、はっきり語っています。
このビデオを私は発売後まもなく買い、デスクトップPCで観て強い感銘を受けました。私の老老介護的生活はすでに始まっていて、このハネケという芸術家の洞察力の深さに打たれたのでした。その頃から、認知症患者の介護というテーマが一種の流行りになり、あれこれの言説が流布され、多くの単行本も出版されるようになりました。幸いなことに、新聞の書評か何かの縁で、私は、上田諭(さとし)著『治さなくてよい認知症』(日本評論社、2014年)、という良書に巡り会いました。この著書を貫いているものは、ハネケの『アムール』と同じ、人間に対する厳しく揺るぎない「愛」です。『治さなくてよい認知症』というタイトルの意味を全面的に正しく理解するためには、実際に読んでいただく必要がありますが、誤解を恐れずに言えば、ここには「脳」の問題と「心」の問題があるということです。世上いかに多くが語られているにしても、現状では「脳」を治療する確かな方法は存在しないことをまず認識しなければなりません。しかし、「心」については、我々にできることがあります。本書の170頁から数行を引用します:
「認知症(アルツハイマー病)とは、原因不明で脳の神経細胞が脱落し脳機能が低下する病気ですが、それは病気の一側面でしかありません。もう一つの重要な側面は、自信がなくなり、自尊心が傷つき、周囲との交流が少なくなってしまい、孤独感や疎外感を感じるという精神的な側面です。これは病気ではなく、むしろ正常な心の反応というべきものです。」
介護する立場にある人々からは「いや、そうではない。脳機能の低下が正常でない心的反応を生む」という声が上がるでしょう。「性格までが変わってしまった」という人もあるでしょう。ジョルジュも、アンヌについて、そう思った瞬間があったに違いありません。こうしてジョルジュの前に「愛」の問題が大きく立ちはだかります。
今度のKさんの事件の後、私は再びハネケの『アムール』と付録のハネケのインタビューのDVDを観ました。一回目と二回目の間の2年間に得た認知症介護の私的体験は、この芸術作品がそれを観る者に与えようとするメッセージをよりよく感得することを可能にしてくれたと思います。インタビューでハネケは「愛する人が苦しむのをどう見守るか」を描いたのだとも言っています。ラテン語に「倫理がなければ美学はない」という言葉があるとも教えてくれます。しかし、私がこの芸術作品について言えることは、「これは愛について語っている」というハネケの言葉を繰り返すこと以外にありません。これ以外に要約のやり方がないのです。
埼玉県小川町のKさんの事件に戻ります。悲惨な事件と呼んで仕舞えば、それまでです。しかし、この事件を知って、身につまされる思いをした老人の中には、自ら食を絶って不帰の旅路についたKさんを悼む気持ちに、いささかの称美の念を含めた人もあったのではありますまいか。死んだアンヌは、ごく普通の面立ちでジョルジュの前に現れて、外出に誘います。美しい「道行き」の場面です。
藤永茂 (2016年4月9日)
『それはホロコーストの“リハーサル”だった~障害者虐殺70年目の真実~』
ttp://www.nhk.or.jp/etv21c/archive/151107.html
ttp://www.nhk.or.jp/heart-net/tv/summary/2015-08/25.html
今日(7月28日)のニュースの中で、容疑者がヒトラーの思想の影響を受けたことを口にしていたと伝わり、やはりそうだったかという思いでした。
もう一つ想起したのは、石原慎太郎の過去の発言です。
1999年、府中療育センター(重度知的・身体障害者療育施設)を視察後の発言でした。
ttp://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/ishihara/data/19990918fuchuu.htm
「ああいう人ってのは人格あるのかね。ショックを受けた。ぼくは結論を出していない。みなさんどう思うかなと思って。絶対よくならない、自分がだれだか分からない、人間として生まれてきたけれどああいう障害で、ああいう状態になって…。しかし、こういうことやってやっているのは日本だけでしょうな。人から見たらすばらしいという人もいるし、おそらく西洋人なんか切り捨てちゃうんじゃないかと思う。そこは宗教観の違いだと思う。ああいう問題って安楽死につながるんじゃないかという気がする。/〔「安楽死」の意味を問われて〕そういうことにつなげて考える人もいるだろうということ。安楽死させろと言っているんじゃない。」
第1期目の都知事就任の年になされた発言ですが、問題は、このような人物を都民の最大多数が支持したこと、さらには、この発言があった後にも4期にもわたって都知事に選出し続けたことです。
石原は「日本会議」の役員(代表委員)ですが、今この日本会議は本当に無視できない影響力を振ってきています。
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BC%9A%E8%AD%B0
今回の事件の容疑者のツイッターに「beautiful Japan」と記されていたそうですが、安倍首相の「美しい国、日本」とだぶります。
ttp://www.sankei.com/affairs/news/160726/afr1607260028-n1.html
ttp://www.s-abe.or.jp/policy
安倍は「日本会議」国会議員懇談会の特別顧問です。
ちなみに、都知事選に出ている小池百合子は副会長です。
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BC%9A%E8%AD%B0%E5%9B%BD%E4%BC%9A%E8%AD%B0%E5%93%A1%E6%87%87%E8%AB%87%E4%BC%9A#.E5.BD.B9.E5.93.A1
さらに思い出したのは、曽野綾子の「高齢者は適当な時に死ぬ義務あり」という発言です。
障害者に対するものではありませんが、石原慎太郎と同じく非常に危険な思想です。
ttp://www.j-cast.com/2016/02/02257388.html?p=all
全文は下記で読むことができます。
ttp://mmtdayon.blog.fc2.com/blog-entry-1571.html?all
ttp://blog-imgs-88.fc2.com/m/m/t/mmtdayon/201602201131539ce.jpg
「トリアージ」はなにも、命に序列を付けることではなく、「すべての命は平等」という大前提に立ったうえで、緊急時に治療の優先順位を付けるものです。この大前提に従えば、「軽症の若者」よりも「重症の高齢者」を優先することになるはずです。曽野綾子はトリアージの論理を歪曲し、牽強付会の主張を展開しているだけでした。
東大医学部出身で国立がんセンター等に勤務し、一般向けの著書も複数出している医師・里見清一なども、「『能率的に死なせる社会』が必要になる-建て前としての“命の平等”は外すべき」などというタイトルのインタビュー記事で持論を展開していました。
ttp://toyokeizai.net/articles/-/59971
「僕が役人だったら、能率的に死なせる社会のことを考えますよ。だってそうしないと間に合わねえもん。ただ現場の医者として、それは怖い。この患者はここまで治療すればOKという明確な方針で進めてしまうと、僕はナチスになりかねない。」
それとなく批判されることへの予防線を張っていますが、「すべての命に価値がある」「命は平等」という大前提を崩している時点で、もうこの人物は危険な領域に足を踏み入れてしまっています。
いま国民の最大の関心事は「景気」と「社会保障」のようです。どの選挙でも、事前の世論調査ではそういう答えが多数を占めています。それでは、こうした国民の要望に対して、財界のトップや政界のトップは何を示しているのでしょうか。
経団連は、「社会保障制度改革のあり方に関する提言」を、安倍政権は「一億総活躍社会」を掲げています。
ttp://www.keidanren.or.jp/policy/2012/081.html
ttp://www.kantei.go.jp/jp/headline/ichiokusoukatsuyaku/
つまるところ、「自助・自立の強調」「公的な福祉制度は必要最小限に縮小」ということです。「介護予防、認知症予防、健康寿命を伸ばす」などと聞こえの良いことを言いながら、その狙いは、介護や病気に陥るのは自己責任という社会的空気を充満させ、公的ケアの領域を縮小する方向を進めるだけでしょう。「一億総活躍」というのも、高齢者・障害者を福祉の対象から外し、生産システムの歯車に組み入れ、低賃金労働力として「活用」していくだけでしょう。そして、「一定の収入」があるからという理由を付け、福祉供給の蛇口をますます絞り込んでいくのでしょう。
最近、NHKで「“介護殺人”当事者たちの告白」という番組がありました。
ttp://www.nhk.or.jp/d-navi/link/kaigosatsujin/
この深刻な現状を前に、財界・政府はなんと無情な方向に舵を切ろうとしていることでしょうか。
今回の悲惨な事件は、容疑者一人の異常性の問題ではないと思います。
石原慎太郎、安倍晋三、小池百合子、曽野綾子、里見清一、日本会議、経団連…
日本社会全体が狂ってきているのです。
容疑者にこのような思想(障害者はお荷物、生きている意味がない、殺すに限る)を形づくらせるような価値観・言論が社会に蔓延してしまっているのです。
ナチス・ドイツと手を組んだ戦前の日本は、基本的人権・民主主義とは縁遠い「帝国憲法」の体制のもとにありました。そして戦後、国民は「日本国憲法」という非常に内容の充実した憲法を手にすることができ、そのもとでなんとか福祉国家路線を進めることが可能となりました。
今、無視できない勢力が、「自虐史観・戦後レジームからの脱却」、「日本の伝統の重視」などと言って、過去を不当に美化する一方で、戦後改革をおとしめています。その総仕上げとして、彼らの悲願である「改憲」までもが具体的視野に入ってきています。
こうした時代の重く垂れこめた空気が、今回の容疑者のような歪んだ思想を形成してしまい、悲劇を生んでしまったことは間違いないでしょう。
いま私たちは、ナチズムを根底から拒否しなければならない、日本を覆う危険な空気を払いのけねばならない、そう強く思います。
私の母は現在、要介護3の認知症ですが、直近で受けた脳画像検査では、アルツハイマー型と別の型とが複合するタイプで、血流が悪い領域が以前よりさらに広がっていると診断されました。症状は年々進んでいます。現代の医学では治らない病気ですから、こればかりは仕方ありません。この病気とは付き合いながらやっていくだけです。
先日、夜中に母が起き出して私にこんな言葉を言いました。
「私がこんな馬鹿みたいになったから、いろいろ迷惑をかけてるよね。ごめんね」と。
母からこういう言葉を聞くのは初めてで、たいへんショックでしたが、私は「迷惑なんて少しも思っていない。本当だよ。お母さんは、いてくれるだけでいいんだ、ただそれだけで僕はうれしいんだ。お母さんに何ができるとか、できないとかは、関係ない。さっきの言葉みたいのを聞くと寂しくなるから、もうそんなことは言わないで」と静かに語りかけました。
私の言葉を聞くうちに、母の顔に少し笑顔が戻り、私はホッとしました。
認知症になっても母には、こうして自分の息子を思いやる優しい気持ちがあり、その屈託のない笑顔には私の方が日々いやされています。
今回の事件の報道で、この施設の元職員として勤めていらしたという年配の男性が、たいへん愛情のこもったコメントをされていたのが印象的でした。その方がお世話をしていた障害者の中に、スライスした木の幹の表面を一生懸命に磨く作業をする人がいたそうで、その頑張る姿に自分の方が学ばされたという趣旨のことを話されていました。犯人への怒り、悔しさ、入所者との日々の懐かしさ、入所者への愛情などが画面から伝わるコメントで、認知症の母をもつ私としてもたいへん深く共感するものでした。
障害、病気、高齢、認知症などがあっても、皆が笑顔で、社会への引け目を感じることなく、周囲の人々との関係性のなかで、それぞれの生を全うできる、そのような社会にしなければならないと切に思います。
大地震や原発事故で近接被災した主権者日本国民住民は、あるだけのタンス預金現金、キャッシュカード、通帳、家の権利書、保険証、携帯、のーとPC 、毛布数枚、タオル数枚、戸締まりとガス電気元栓切って、車(海辺は軽がよい)に家族で乗って、
川内原発なら高速道路幹線道路がすぐに警察によって封鎖されるので、住居地に閉じこめられての放射能被曝を避けるため、警察の緊急道路封鎖前に迅速に宮崎県へ幹線道路を避けて山道伝いに脱出。
山道途中の崖崩れも最近のエンジンが強い軽自動車なら通過しやすいが無理せず廻る。急がば回れ。
川内原発放射能漏れ事故ならば鹿児島県内は直ちに電話、外出してのATM,、ガソリン補給、外食などすべて不可になる。
宮崎県ならすべてOK。
よって親戚知人への連絡も宮崎から行う。車用充電器があればなお良い。
当座のガソリンと食費を持ち出したタンス預金現金20万ほど(それ以下でも良い)で賄う。
原発事故なら鹿児島県、地震なら震源地の県外へ脱出したら、すみやかに上記の補給や連絡が可能になる。
熊本地震川内原発事故なら、脱出した宮崎からフェリーで四国へ渡って、四国中国に頼るべき親戚知人のない人は、ガソリンと食糧補給しながら、規制されていない道路や高速を使って、落ちついた安全運転で、とりあえず山口県岩国市へゆけばよい。
岩国には日本全国の主権者日本国民が納めた税金から思いやり予算ですべての生活費を面倒見ている、広大な極東一の敷地面積を誇る米軍岩国基地があり、311の時のオバマ政権国務長官ヒラリーが言った『できることは何でもして日本人をお助けする』の言葉通り、日本在住期間が長い米軍基地司令官は日本人のように「義を見てせざるは勇無きなり」を知る青い目のサムライになっているから、地震や原発難民となったサムライの国の日本人が大勢で避難してくれば、必ず基地施設を開放して粉骨砕身救助支援活動に、敏速に取りかかってくれるに違いない。
米合衆国憲法では、米国外にある米軍はすべて現地司令官の軍法指揮下にあり、現地司令官は合衆国憲法や議会や大統領の意向に何ら拘泥することなく、所轄下の米軍全軍をその独断裁量で作戦行動せしめ得ることになっているのだから。
米軍基地司令官の日本の武士(サムライ)のように恥を知る廉潔な人格は、広く世界中が知るところである。
日本のどこで何時大地震や原発事故が起こっても、日本全国の米軍基地から直ちに在日米軍全軍を上げて国際救助隊サンダーバードの如く、救助隊が駆けつけて不惜身命救助活動を粉骨砕身行ってくれることは、万国の万人が全く疑う余地の無いところである。
和を以て貴しとなす日本国憲法第9条精神を、ひとりひとりが身体中に漲らせて、「心の色、赤十字・・・・・・」と歌いながら。
私の母はアルツハイマーとは違うタイプですが何年も前から症状が出ています。深夜の3時近くに自宅からかなり遠方で発見され、歩き疲れた母がたたずんでいた民家のご主人がご親切にもそこから最寄りの交番まで車で送り届けてくださり、身元がわかるものを所持していたおかげで無事に連絡がつきました。迎えに行くと、交番の警察官の皆さんも本当に親切で、肌寒い季節だったので、母に熱いお茶を入れてくださり、やさしく保護してくださっていました。
母が失踪した晩、私は東京の大学の恩師を囲む会に出席するところでしたが、実家の父から「母がいなくなった」との連絡を受けて急遽会合を中座して帰宅しました。会合でたまたま隣にいらした有名な憲法学者の先生(民主主義や人権、特に女性の人権などに詳しい先生)に、事の次第を告げると、驚いたことに、心配や同情やいたわりの言葉などはいっさいなく、いきなり「なに、あんた仕事やめるの」とぶっきらぼうに言われたのですが、その時のショックは今も消えません。私は当時出版関係の仕事に就いていたのですが、諸理念を高唱される方の中にある意外な一面を見た出来事でした。
昨夜(4月8日)、宮根誠司と池上彰が司会で「ホセ・ムヒカ」を取り上げるテレビ番組がありました。明らかに軽佻浮薄な保守反動のプロパガンディストと、一見知的でリベラルなプロパガンディスト、この二人が司会なので期待はしませんでしたが、ムヒカの特集ということでついつい見てしまいました。ムヒカは、日本の高齢化を語り、経済大国日本の政治家は高齢者のための施設を多くつくるべきと言っていました。また、アンケート調査で「お金がほしい」のほかに「時間がほしい」という回答が多かったのを受けて、ムヒカは「時間がほしいというが、大切なのは何に使う時間かだ。愛する人と過ごすためならいいが、物欲や金銭欲のためなら問題だ」という趣旨のことを言っていたのが印象的でした。
今の私はあまり無理はしていません。母の顔に少しでも笑顔が出ればそれでいい、くらいの気持ちで日々接しています。こちらが疲れると母も不穏になりますし。
藤永先生、どうかご無理をなさらず、愛する奥様との充実したお時間をお過ごしください。