頭の中は魑魅魍魎

いつの間にやらブックレビューばかり

『世界でいちばん美しい』藤谷治

2013-12-08 | books
ぼくもせった君も30歳になった翌年、いつも行く鎌倉のパブ・レストラン、エグランティーナにぼくはいた。今日はせった君は来ていない。すると小海がやって来て「せった君の家が火事だ」と言う…という冒頭。そしてせった君とぼくの小学校時代へと時間は遡る。ぼくは家でピアノを習っていた。遊びに来たせった君はぼくの演奏を聴いたらすぐに同じ演奏ができるようになってしまった。嫉妬のような気持を味わった。せった君のお父さんは議員でお金持ち。お兄さんも頭がいい。でもせった君は学校の勉強についていけないような子だけれど、とてもピュアないいやつだ。そしてピアノを習い始めるせった君。音楽の才能に限界を感じるぼく。二人の人生はどこへ向かうのか…というのがこの作品の前半。後半からは、せった君の人生の妨害者、津々見の半生と、せった君の話が交互に描かれる。プライドばかり高く、夢みがちな男津々見。自分の人生をしっかりと生きられるようになったせった君。二人の人生が交差する場所にあるものとは…

いやいやいや。2013年が終わる直前になって、本年度ベスト級小説を読んでしまった。本年度ベストテンは入れ替えしなければ。「船に乗れ!」という作品に打ちのめされたのは2010年の始め。もう4年近くたつ。あれを上回る作品を作者が書くことはないだろうと思っていた。しかししかし。

作者藤谷自身の分身のような位置にいるぼく(=島崎)とせった君との関係。ぼくから見たせった君という知恵遅れのピュアな天才(本当はちょっと違うけれど赦されたし)のようなキャラクター。ぼくが感じる嫉妬と同時に癒し。ぼくというフィルタを通して透けて見えるせった君がいい。

音楽は世界共通の言語だと言うことだけれど、世界共通言語ということは、同時に誰にとっても外国語だと言うことだ。音楽を知るとは外国語を一つ、完全に習得するのに等しい。せった君は辞書を引きながらシェイクスピアが数行読めるようになったからといって、ハムレットを書こうとしている。それがせった君自身には見えていない。ぼくには見える。

自分が仮に、せった君と同じクラスになったとしても、島崎君のような目で見ることができず、私の濁った目は単にせった君を、赤ちゃんのような気持の悪い奴だとしか読み取ることができなかっただろう。他人の目を通して見る世界が自分に何かを教えてくれる。そんな瞬間。音楽とは何か、それをせった君から学ぶ。そんな島崎君もすごくいい。この二人が猛烈にいい。

ピアノを弾くとき、せった君はギターを持った自称シンガーソングライターの中学生とは違って、これはぼくの新作だとか、俺の人生はこれだ、なんてことはいわなかった。自作だと自分からいったことさえなかった。せった君はただ弾いた。

二人から学ぶクラシック音楽の世界も、ついでにいい。しかしそれがメインテーマではないと思う。あくまでもクラシックを道具にした、青春大河小説のように読み、翻弄され、胸を熱くした。

演奏者は熱心な聴衆の前で奮起する。優秀な奏者でも、ぼくのような初心者のクズでも、それは変わらない。

現代絵画の名作を見て、あんなんだったら俺にだって描けるんじゃないか、と思えてしまうことがある。しかし実際に似たようなものを紙に描いてみると、お話にならないものができあがる。書道でも、デザインでも、見る限りでは単純なのに、やろうとしてもできない。それは線の力だ。紙の上に一本、線を引く。誰にでもできる。けれども、その線は、なぜか、訓練され、才能に恵まれた画家にしか、書家にしか、デザイナーや漫画家にしか描くことのできない線なのだ。理由は判らない。だが私の引く線がパウル・クレーの引く線とは画然と違うとは、誰にだって判る。同じことが音にもいえるのだ。

本腰を入れて明らかになったのは、やはり詩には詩のための独特な才能が必要だということだった。これまでなんとなく小ばかにしていた室生犀星や中原中也の詩が、おかげではっきりと天才の言葉だと理解できた。

どんなことでも何かの夢中になって没頭している時期があれば、たとえ後でそれを職業にするほどの才能がないことが分かってやめてしまうことがあっても、それのプロはいかにすごいのか、それが分かるようになる。そしてリスペクトできるようになる。それが没頭の収穫なんだと思う。

言わば、負け犬の津々見の描写も非常に巧い。自分はこんな場所にいる人間ではないと思いながら前向きな努力はしない。真に他人をリスペクトすることができない。しかし樹里亜という女性はさらにその上を行く。これが現代の、行先を求めて彷徨う若者たちの肖像なのだろう。

そして、せった君と津々見のコントラスト。世界でいちばん美しいのは何であるのか。

今日の一曲

せった君が好きな曲の一つ、ブラームスの「ドイツ・レクイエム」



歌詞の内容はよく分からないにも関わらず、小説を読み終わったばかりの私に妙に滲みる。

では、また。

LINK
コメント    この記事についてブログを書く
« 『いつの日も泉は湧いている... | トップ | 『夜に生きる』デニス・ルヘイン »

コメントを投稿