「ボクは坊さん。」白川密成 ミシマ社 2010年
祖父が死んだ後、寺を継いだボク。ボクの坊さんの日々。ネタが興味深いし面白いし文章もいい。ほぼ日刊イトイ新聞に書かれていたそうだ。
バリバリのキリスト教者の人が人生とか何とかそういう事について語った本を読んだことがない(から感銘を受けた事もない)某知り合いがバリバリのカトリック信者なのだが、彼が延々とキリスト教の矛盾について語ってくれたことならあった。
必ずしも比較の対象がキリスト教であることは正しくないかも知れないが、仏教者が書いた文章って結構ふむと頷いたり、うーむと唸ってしまうことが多いような気がする。「自分から自由になる沈黙入門」とか、「もう、怒らない」の小池龍之介さんと同じ事が言える。
<途中提出>のススメにうなった。そうだよな。完璧なモノなんて永遠に出来ないのだから、今現在のモノを、今現在提出出来るモノを提出すればよいではないか、と自分の生き方とか生活とかを省みてしまった。
<生きるということはお祭りのようなこと>も、ああその通りだと思ったよ。うんうん。生まれる前と死んだ後が言わば、普通の状態であって、生きている時期というのは祭りのように普通じゃない状態だ。ずっとお祭りじゃ疲れちゃうもんね。だから死ぬということは不幸なことではなく、普通に戻るだけのこと、かも知れない。
しかし、戸籍上の名前を変更するのは難しいが、宗教家だとそうでもないというのも面白い。そうそう。上のような堅い話ばかりじゃなく、高野山大学時代の話とか坊主用のバリカンを買う話とか堅くなくて面白く読みやすいエピソードがたくさんありまする。なむなむ。
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この本は読んでいませんが、昔読んだ本を少し読み返してみました。
私の好きな白石一文さんの「僕の中の壊れていない部分」(光文社)の中にこんなくだりがあります。
主人公が読んだ、有徳の女性仏教者が晩年に著した随想集から引用したものでしたが・・。
若さには 老いに対する
健康者には 病者に対する
生きているものには 死者にたいする
無意識の優越感、傲慢の思いがあるということに思い至った。
老・病・死をかかえこんだ髑髏(どくろ)にいのちの衣をきせたのが「生」というものであるならば、ひとときまとうその衣は、出来得れば美しくたおやかでありたい。
日々に生きゆく姿は、日々に死にゆく姿だと思えば、ものみな有難い。
活き活きと生きゆくことが、活き活きと死にゆくとことだと納得すれば、心やすらぐ。
なかなか美しくたおやかとはいきませんが、日々途中提出を繰り返そうと改めて思いました(笑)
私事ですが、昨日知り合いの男性が亡くなりました。
無菌室での2ヶ月足らずの闘病の末、アッと言う間でした。
悔いのない生き方をしたから笑って逝ったかな、って思いますが「ちょっと早いなぁ」って文句言ってるようにも思えます。
私はもう少し「お祭り」を続けたい。
「僕の中の壊れていない部分」読んだはずなのにすっかり忘れていました。
いや私のことですから読んでいないのかも知れません。
我々はどこか他者との差異を見つけ、それに優越を感じることで
日々生きる糧にしているのかも知れません。
我々の生などほんの一瞬咲いた花のようもの。
パッと咲いてパッと散りましょうか。
お知り合いのお話、ご愁傷さまです。
人間の寿命はあらかじめ定められているものであるのか、また
寿命が長いこと=幸福であるか、まだ私には分かりません。
そうですね。
私は、今のお祭りのラストをキレイにまとめたいですね。