飯島一孝ブログ「ゆうらしあ!」

ロシアを中心に旧ソ連・東欧に関するニュースや時事ネタを分かりやすく解説します。国際ニュースは意外と面白い!

プーチン大統領ゆかりの場所を訪ねて①

2012年09月26日 14時40分54秒 | Weblog
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(プーチン氏が生まれ、少年時代を過ごした共同アパート。今は綺麗に改築されていた)

 久しぶりに訪れたサンクトペテルブルグは冷たい雨に濡れていた。古都を友人たちと巡りながら、プーチン大統領(59)ゆかりの場所を探して歩いた。当時の面影はあまり見られなかったが、貧しい労働者の家庭に生まれ、ソ連崩壊の混乱期に権力の階段を這い上がった半生を垣間見た思いがした。

 プーチン氏は1952年10月7日、当時レニングラードと呼ばれていたソ連第2の都市に生まれた。その頃の暮らしについては、本人のインタビューなどをまとめた単行本『第一人者』(日本語訳『プーチン、自らを語る』)に詳しいが、住居の番地までは書いてない。ところが、ロシアのネットに「プーチンの場所」というホームページがあることが分かり、それを元に探して歩いた。

 我々が最初に向かったのは、彼が生まれ、少年時代を過ごしたバスコフ通りの共同アパート。父親が戦後、除隊して働いていた鉄道車両工場から与えられたもので、5階建ての5階の一室だった。「なんの設備もないアパートでお湯も出ず、風呂もない、ひどいものだった」と先ほどの本に書いてある。

 探して行ってみると、中庭がある5階建てで、当時の外見と似ていたが、改築されてすっかり綺麗になっていた。そこにいた警備員に聞いてみると、「かなり前に改築されたが、いつかはわからない」と話し、それ以上は言いたくないという感じだった。立派なアパートとは言えないが、ペテルブルクの中心部に近く、それなりの地位の人が住んでいる印象だった。

 プーチン氏の少年時代の人格形成を知る上で印象的なエピソードがある。先ほどの本によると、住んでいたアパートの階段の正面通路にネズミが群れをなして棲んでいた。彼はよく棒で追い回して遊んでいたが、あるとき隅に追い詰められた大きなねずみが突然、向きを変えて彼に飛びかかってきた。踊り場を飛び越え、階段を駆け降りて危うく自室に逃げこんだが、怖かったという。ここで彼は「窮鼠猫を噛む」という言葉の意味を体験し、頭に刻み込んだと書いている。

 7歳になると、アパートから歩いて7分の第193小学校に通った。我々もこの学校を探したが、なかなか見つからなかった。グロドネンスキー通りにあることがわかり、ようやくたどりついた。学校は日曜日で閉じていたが、見回すと隣に米国の領事館があった。国家主義者のプーチン氏に、なんとなく似つかわしくないなと思った。

 彼は4年生の時、ドイツ語のクラスに入り、グレビッチ先生に教わった。担任のチジョワ先生は「ずるいし、いい加減なこどもだ」と言っていたが、グレビッチ先生は実際に教えてみて「潜在能力とエネルギーと性格的な強さがあると感じていた。記憶力がよく、頭の回転も早かった」と本の中で語っている。

 ソ連時代、少年少女は普通、ピオネール(共産少年団)に入るが、不良や問題児は入れなかった。プーチン少年も最初は入れなかったものの、6年生から入ることができた。本人はそのころスポーツをやるようになり「社会的地位を守るために学校でも優等生にならざるを得なかった」と打ち明けている。最初ボクシングを始めたが、鼻を折ってやめ、サンボに変わり、それから柔道に入った。「柔道は単なるスポーツではない。教育的なスポーツだ」と本人が語っているように、柔道で作法を習い、「不良少年」から人間的に成長する大きな転機になったようだ。(この項、続く)
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