飯島一孝ブログ「ゆうらしあ!」

ロシアを中心に旧ソ連・東欧に関するニュースや時事ネタを分かりやすく解説します。国際ニュースは意外と面白い!

プーチン大統領ゆかりの場所を訪ねて②

2012年09月29日 11時07分04秒 | Weblog
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  (サンクトペテルブルク大学法学部の入口付近。壁にプーチン氏の恩師であるサプチャク氏のレリーフがある)


 プーチン大統領(59)は共同アパート近くの193小学校に8年間通ったあと、化学の中等専門学校へ進んだ。そこで優秀な成績を収め、今度は大学の、しかも法学部へ行きたいと言い出し、先生たちをびっくりさせた。実はこの時、情報機関で働く、つまりスパイになることを決意していたのだ。

 プーチン少年はすでに、スパイになるには大学の法学部を卒業しないといけないことをKGB(国家保安委員会)支部に出かけて聞いていた。そのためには、難関のレニングラード大学(現在はサンクトペテルブルク大学)法学部に合格しなければならなかった。少年は猛勉強をして、約40倍という狭き門を突破して合格した。

 サンクトペテルブルク大学は、ネバ川に囲まれたバシリエフスキー島の岬部分にある。モスクワ大学、極東連邦大学と並ぶ名門大学で、18世紀にピョートル大帝によって創立された。法学部の入口の壁には、ソ連崩壊期に改革派市長として知られたサプチャク氏(故人)のレリーフがある。プーチン氏の学生時代に法学部教授だった恩師で、冷戦終焉後に東ドイツのスパイが不要になり、郷里に帰ったプーチン氏を市幹部に登用してくれた人物である。

 プーチン氏が働いていた市庁舎は、1917年のロシア革命当時、ソビエト樹立宣言が行われた旧スモーリヌイ女学校の隣にある。今も中庭にレーニンの銅像が立っている。この市庁舎でプーチン氏はトントン拍子に出世し、第一副市長にまで上り詰めた。

 だが、それも長くは続かなかった。96年の市長選でサプチャク市長が敗北し、彼も副市長を辞任せざるを得なかった。2,3ヶ月過ぎても職がなかったので、すでにモスクワへ上った郷里の仲間からクレムリンで働かないかと誘われ、家族でモスクワへ向かった。当時はほかの選択肢がなかったのだ。

 我々が訪れた日は雨の日曜日だったこともあり、スモーリヌイ聖堂周辺の公園は閑散としていた。プーチン氏も失意の時期には、このあたりを歩き回ったのでは、と考えると感慨深い。彼も決して順風満帆ではなく、クレムリンに移ってからも、「仕事がつまらないので、やめようと思ったことがあった」と前回のブログで引用した単行本『プーチン、自らを語る』(邦訳)で心境を吐露している。

 サンクトペテルブルクは、日本でいえば京都に近いだろう。ピョートル大帝時代からの宮殿が多く、古都の雰囲気が感じられる。郊外に出ると、紅葉が始まっていて、京都の秋を思い出した。プーチン氏もここが好きだったと書いており、何か惹きつけるものがあるのだろう。私もまた、ここに来て古都の雰囲気に浸りたいと思った。(この項、続く)
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プーチン大統領ゆかりの場所を訪ねて①

2012年09月26日 14時40分54秒 | Weblog
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(プーチン氏が生まれ、少年時代を過ごした共同アパート。今は綺麗に改築されていた)

 久しぶりに訪れたサンクトペテルブルグは冷たい雨に濡れていた。古都を友人たちと巡りながら、プーチン大統領(59)ゆかりの場所を探して歩いた。当時の面影はあまり見られなかったが、貧しい労働者の家庭に生まれ、ソ連崩壊の混乱期に権力の階段を這い上がった半生を垣間見た思いがした。

 プーチン氏は1952年10月7日、当時レニングラードと呼ばれていたソ連第2の都市に生まれた。その頃の暮らしについては、本人のインタビューなどをまとめた単行本『第一人者』(日本語訳『プーチン、自らを語る』)に詳しいが、住居の番地までは書いてない。ところが、ロシアのネットに「プーチンの場所」というホームページがあることが分かり、それを元に探して歩いた。

 我々が最初に向かったのは、彼が生まれ、少年時代を過ごしたバスコフ通りの共同アパート。父親が戦後、除隊して働いていた鉄道車両工場から与えられたもので、5階建ての5階の一室だった。「なんの設備もないアパートでお湯も出ず、風呂もない、ひどいものだった」と先ほどの本に書いてある。

 探して行ってみると、中庭がある5階建てで、当時の外見と似ていたが、改築されてすっかり綺麗になっていた。そこにいた警備員に聞いてみると、「かなり前に改築されたが、いつかはわからない」と話し、それ以上は言いたくないという感じだった。立派なアパートとは言えないが、ペテルブルクの中心部に近く、それなりの地位の人が住んでいる印象だった。

 プーチン氏の少年時代の人格形成を知る上で印象的なエピソードがある。先ほどの本によると、住んでいたアパートの階段の正面通路にネズミが群れをなして棲んでいた。彼はよく棒で追い回して遊んでいたが、あるとき隅に追い詰められた大きなねずみが突然、向きを変えて彼に飛びかかってきた。踊り場を飛び越え、階段を駆け降りて危うく自室に逃げこんだが、怖かったという。ここで彼は「窮鼠猫を噛む」という言葉の意味を体験し、頭に刻み込んだと書いている。

 7歳になると、アパートから歩いて7分の第193小学校に通った。我々もこの学校を探したが、なかなか見つからなかった。グロドネンスキー通りにあることがわかり、ようやくたどりついた。学校は日曜日で閉じていたが、見回すと隣に米国の領事館があった。国家主義者のプーチン氏に、なんとなく似つかわしくないなと思った。

 彼は4年生の時、ドイツ語のクラスに入り、グレビッチ先生に教わった。担任のチジョワ先生は「ずるいし、いい加減なこどもだ」と言っていたが、グレビッチ先生は実際に教えてみて「潜在能力とエネルギーと性格的な強さがあると感じていた。記憶力がよく、頭の回転も早かった」と本の中で語っている。

 ソ連時代、少年少女は普通、ピオネール(共産少年団)に入るが、不良や問題児は入れなかった。プーチン少年も最初は入れなかったものの、6年生から入ることができた。本人はそのころスポーツをやるようになり「社会的地位を守るために学校でも優等生にならざるを得なかった」と打ち明けている。最初ボクシングを始めたが、鼻を折ってやめ、サンボに変わり、それから柔道に入った。「柔道は単なるスポーツではない。教育的なスポーツだ」と本人が語っているように、柔道で作法を習い、「不良少年」から人間的に成長する大きな転機になったようだ。(この項、続く)
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日本へ旅行のAPECボランティアに極東の有力者らが混じっていた!?

2012年09月14日 11時11分39秒 | Weblog

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 プーチン大統領は、9日閉幕したAPEC首脳会議の会場で活動した学生ボランティア約500人を横浜への船旅に招待したが、その中には地元ウラジオストクの行政府要人や彼らの子弟がたくさん混じっていたことが分かった。大統領は野田首相との首脳会談でこの計画を日本側に説明、急いでビザを発給させたが、当初の趣旨とはかけ離れた実態が明るみに出た。

 13日付けのイズベスチヤ紙(電子版)が報じたもので、記事には「ボランティアの代わりに役人23人が船旅に参加」の見出しがついている。乗船した516人の中に、沿海地方のバシリコワ副知事、カイダノビッチ青年問題局長、アクーリン・ウラジオストク市議候補、さらには地元の要人の親戚や子弟ら23人が含まれていたとしている。

 ロシアで初めて開かれたAPEC首脳会議には、学生らボランティア約2500人が参加、アジア太平洋地域から集まった外国政府要人、報道関係者らのサポートをした。プーチン大統領は会議終了後、そのうちの一部と会い、「皆さんは私の仕事をよく手助けしてくれた」と直接感謝の意を表明。野田首相との会談で、ご褒美として日本への船旅を行うと述べ、500人分の入国ビザを手配するよう要請した。

 この船旅には、APEC参加者の宿泊用にチャーターされていた『伝説の海』号が使われた。参加者のリストは、イズベスチヤ紙によると、沿海地方行政府の青年部が作成したとされ、ロシア政府のサミット委員会はタッチしていないという。この件について沿海地方の責任者は今のところ、公式のコメントを出していない。

 報道の通りだとすると、地元の沿海地方当局者が参加者の中に勝手に役人らを押し込んだことになる。日本政府に直談判し、日本への旅行を急きょ手配し、日本との友好を意図したプーチン大統領の思いは踏みにじられたともいえよう。

 プーチン大統領は自ら誘致したAPEC首脳会議を議長として仕切り、欧州からアジアへ経済をシフトする歴史的な第一歩を踏み出したが、飛んだところで足元をすくわれた形だ。極東のインフラ整備だけでなく、行政幹部の意識改革も課題として浮上したようだ。(この項おわり)=筆者は16日から25日までロシアを旅行するので、ブログはしばらく休載します。




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2回目の野田・プーチン会談、北方領土に踏み込めず!

2012年09月09日 10時23分33秒 | Weblog
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 ウラジオストクで8日行われた野田首相とプーチン大統領の首脳会談は、日本の内政の先行きが不透明な中で、北方領土問題へは事実上踏み込めなかった。双方が合意したとされる野田首相の「12月ロシア訪問」も実現できる保証はない。

 二人の首脳会談は6月のメキシコ会談に次いで2回目で、雑談でロンドン五輪の柔道談義をするくらいには親しくなったようだ。朝日新聞によると、首相はロシアが柔道で金メダル3個獲得したことを称えると、大統領は「日本は金メダルこそ1個だが、銀、銅メダルは多かった」と言って慰めたという。

 首相とすれば、民主党代表選、衆議院解散を控え、北方領土問題で議論する余裕はないというのが本音だ。一方のプーチン氏からすれば、そうした日本の内政で問題を抱えた野田首相と突っ込んだ話をしても仕方ないという気持ちがある。そこで双方とも領土問題の議論には踏み込まず、継続協議の合意に留まったということだろう。

 大統領にしても、今回のAPEC首脳会議をテコにシベリア・極東に外国投資を呼び込む緊急の課題があり、早く本題を解決したい気持ちは強いに違いない。だが、それが難しい情勢にある以上、様子を見るしかないというところだろう。首相の12月訪露が実現するかどうかがカギだが、今のところ期待できない。

 日本側が八方塞がりの中で、もう一つ悪いニュースが飛び込んできた。プーチン大統領が秋田犬の返礼に日本に贈った「シベリア猫」が日本の空港検疫所で検査のため足止めを食っているというのだ。以前から日本の検疫行政の厳しさが指摘されていたが、ここへ来て新たな外交問題にもなりかねない状況だ。防疫検査の結果を半年間も空港に留め置いて様子を見るというのだから、気の長い話だ。

 北方領土問題を67年以上も待っていることからすれば、半年間くらい待つのはなんともないといえばそれまでだが、猫の身になって考えると大変なことだろう。ロシア側の気持ちも考えて、日本政府としてなんとか手を打てないものだろうか。(この項おわり)
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プーチン政権、秋一番の反政府系大規模デモを認めない方針!

2012年09月05日 11時18分48秒 | Weblog
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 ロシアの反政府勢力は今月15日にモスクワなどで大規模集会・デモを開く予定だが、プーチン政権はこれを認めない方針を示している。反政府勢力は、この集会をテコにプーチン政権を追い詰める構えで、早くも秋の陣の緊張が高まりつつある。

 5日付けのコメルサント紙(電子版)によると、反政府勢力は15日の大規模集会・デモをモスクワ、サンクトペテルブルクなどの大都市で行うことを決め、各市当局に申請を出した。これに対し、モスクワ市、サンクトペテルブルク市とも4日に申請を拒否すると回答した。こうした集会・デモの拒否回答は6月に大規模デモの規制強化法が成立して以来、初めてという。

 モスクワ市当局は拒否の理由について「主催者がこれまでに集会・デモに絡んで逮捕されている」ことをあげており、大規模デモの規制強化法の規定に則って判断したとみられる。同法では、無許可デモで拘束された参加者の罰金を大幅に引き上げたほか、逮捕歴のある政治家がデモを主催することを禁止している。

 反政府勢力は15日の大規模集会・デモを秋の政治闘争の第一弾と位置づけ、モスクワでは5万人規模の集会を予定している。計画では、デモは都心のベラルーシ駅をスタートし、目抜き通りのトベルスカヤ通りを通ってボロビツカヤ広場まで行進することになっている。

 反政府勢力はいくつかのグループに分かれていて、必ずしも戦略や路線が一致しているわけではない。今回も強硬派は当局の許可がなくても集会・デモを行うとしているが、穏健派は決めかねているようだ。

 プーチン政権は大規模デモ規制強化法案に続いて、外国から活動資金を得ている非政府組織(NGO)を「外国のエージャント」として登録を義務付ける法案、インターネットの有害サイトを規制する法案などを成立させ、秩序維持を強化してきた。プーチン政権はこうした法律に基づき、反政府勢力の弱体化を目指す方針とみられる。

 これに対し、反政府勢力は抵抗を続けると見られるが、政権側が実力行使に出れば中流層などの市民グループは脱落する可能性が高い。それでも対立が続けば社会が不安定化するのは避けられず、プーチン政権の求心力が急速に低下する恐れがある。当面は双方の出方を注視したい。(この項おわり)
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